ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「パンツが見える。 羞恥心の現代史」

2002年08月15日 | 読書
 『美人論』で一世を風靡し、『愛の空間』で性交場所の変遷と風俗を描いた井上章一氏の、最新刊。

 そそるタイトルに惹かれて思わず買ってしまいました。

 本書は近代日本における女性の羞恥心の変遷を、「パンチラ」をキイワードに読み解く真面目な研究書、いや、好事(こうず)書、といっていいだろう。

 著者はまず、かの有名な1932年の白木屋デパートの火事を取り上げ、この事件で女性がパンツ(当時はズロースと言った)を穿くようになったという俗説を嘘だと論破している。この俗説とは、白木屋デパートが火災に遭った際、6,7階から救助綱にすがって地上に降りようとした女店員たちが綱から手を離して墜落死したのは、和服姿の彼女らが裾の乱れを気にして前を押さえたからだというもの。和服の下にズロースさえ穿いていれば、彼女たちは野次馬に下から陰部を覗き込まれる羞恥を感じず、したがって綱から手を離すようなこともなく命が助かったに違いない。これを教訓とし、これ以後、ズロースが瞬く間に流行したという。
 この、有名な白木屋ズロース流行説が、白木屋専務のでっち上げであったと、多くの資料を駆使して井上氏は論証する。

 そして、当時の女性には、陰部を覗かれて恥ずかしがるような感性がなかったことを立証する。いわく、女性は着物の裾をひょいとめくって平気で立ち小便をしていた、お尻が丸見えになるのもいとわずそり遊びに興じる女学生がいた、云々。こういった事実をそれはもう次から次へと、様々な回想録、小説、新聞、雑誌を総動員して列挙していくのである。

 で、井上氏によれば、陰部を覗かれるのが恥ずかしくて日本女性たちがズロースをはき始めたのではないという。そもそもの目的は、貞操を守ることであったという。そ、貞操帯の代わり。ズロースなんかで貞操が守れるのか、とものすごい疑問が湧くのだけれど、井上氏は、これでもかと次から次へとその証拠を挙げていく。これでどーだと言わんばかりに。
 だから、最初にズロースを着用しだしたのはカフェーの女給たちであったという。日常的に貞操の危機にあう機会の多い彼女たちが2枚、3枚と重ね履きした。または、いち早くおしゃれに敏感に飛びついた上流夫人たちが穿いていたのだという。

 この点では、「パンツは働く女性から広がった」「パンツは女性を自由にする」といった、「解放史観の書き手には、あらゆる意味で反省をせまりたい」と力説している。このあたりは、含蓄と示唆に富む。彼は、イデオロギーが先行する歴史分析を慎むように、声を大にして語っている。もって教訓としたい。

 ズロースなど少々見えようがどうしようが、女たちはほとんど気に留めていなかった。戦後間もない農村では、ズロースを今でいうパンツ(つまりズボン)代わりに着用し、堂々と人前にさらしていた農婦までいた。

 女がパンチラを恥ずかしがるようになったのは、1950年代後半以降である。このころから、ズロースというようなデカパンが姿を消すようになり、「パンティ」と上品に呼ばれるような、布面積の小さなパンツが主流になっていく。

 かつては娼婦が穿くものだとされていたおしゃれなパンティ、性的意味合いが付与されたパンティ、これが下着メーカーの大量生産の波と宣伝に乗って、しろうと女性たちの手に届くようになる。すると、そのパンティは穿きたいが、でも穿いているところを覗かれたくないという素人女の心理が芽生える。そして日本の女たちはパンツを見られることを恥ずかしがって、足さばきを上品に変えていく。隠されれば覗きたいという男の心理もくすぐられる。

 かくして、女はパンツを隠す。男はパンチラを喜ぶ。そのような心性が芽生えたのである。

 とまあ、こういう話を、井上章一氏は膨大な量の資料を駆使して調べあげていくのである。そこにおいて引用される出典の多くが小説である。

 かつてわたしがTV番組の時代考証を手がけたとき、事件や出来事・風俗の変遷について資料を渉猟したが、決して小説を典拠としたことはない。小説は傍証には使えても、直接の証拠にはならない。そう思っていたからだ。だから、井上氏のこの書き方は歴史家として許されるのか、疑問が湧いた。ところが氏もなかなかのもので、ちゃんとそんな批判があろうことは承知している。そして、「こうした読み物は、同時代の読者からうけいれられるように、工夫もされている。当該時代の生活感覚をさぐる資料としては、あなどれない。慎重にあつかえば、往時の心性を読みとくかっこうの記録となる。たとえ、つくり話であったとしても」という反論もちゃんと用意している。

 このあたり、実際、どうなのだろう。既に歴史学の研究から引いてしまったわたしにはよくわからない。だが、近年、歴史の資料に、従来のような公式文献だけではなく、さまざまなもの(オーラル・ヒストリーも含めて)が使用されるようになってきたし、こういうのもありなのかもしれない。

 昔の女は慎ましく、現代っ子はあけすけで性的にも解放されているという従来の見方は間違っている、と女性の心性、とりわけ羞恥心に分け入った研究はとてもおもしろい。ただし、著者が「1950年代パンチラ革命説」と嬉しそうにいうところのお説を伺っても、いまひとつ腑に落ちない。
 パンチラを恥ずかしがる心性と、それを嬉しがる心性、いわばパンツの神秘力の謎が解けた、と言ってご本人はすっきりさわやかになっているようだが、どうもいまいち霧が晴れない気分が残る。

 なぜだろう。

 パンチラが嬉しいという正直者の井上章一にシンパシーを感じないからだろうか??
 ほんまに男の人って、スカートからパンツがチラリと見えて、嬉しいのかねぇ。

(2002年6月24日、某メールマガジンに掲載したものを再録)

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「パンツが見える。 羞恥心の現代史」
井上章一著 朝日新聞社 2002年(朝日選書)