ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

戦後のジャズ受容史

2005年10月26日 | 読書
 葉っぱ64さんの「千人印の歩行器」に、ジャズ名盤の有名なジャケットの写真が掲載されている。
http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20051019
 名盤だの有名なジャケットだのといわれてもジャズに疎いわたしにはピンとこないのだが、あの写真は「あの、足のレコード」といえば世界で通じるグローバルスタンダードなジャケットだったのだ。

 とりたててジャズファンというわけではないわたしが読んでもこの本はかなりおもしろかった。わたしはジャズもクラシックも好きだけれど、造詣が深いわけではない。どちらもBGMに過ぎないから、オタク的な聞き方はしないし、レコードへのフェティッシュな愛もない。それでも、本書にあふれるジャズへの愛情を感じるにつけ、どんどんジャズが好きになっていく気がする。

 この本はジャズの音楽的な解説書ではなく、戦後の日本でどのようにジャズが取り上げられてきたかを検証する言説分析だ。そして、ジャズがどのように聴かれてきたか、その受容史について明らかにすることを目的とする。

 だから、本書で語られるのはジャズ演奏や演奏家の歴史・伝記ではなく、小説であり映画であり、さらにはジャズ喫茶という<ジャズ聴衆者たちの場>だ。ジャズ好きの作家として有名な中上健次や村上春樹、五木寛之らの作品が俎上に載せられ、ジャズを描いた映画やジャズをBGMに使った映画が分析される。戦後、日本ではスウィングジャズが大衆的な人気を博し、ジャズとは大衆的な音楽であり、クラシックのような「高等な」ものとは一線を画されていたということが、たとえば映画「嵐を呼ぶ男」を例に引いて語られる。

 それがいつの間にかフリージャズの全盛時代になると次第にジャズは難解なものとなり、現在ではクラシックと同等に扱われるようになっていくのだ。

 本書で目を引くのは、ジャズ喫茶批判だろう。モラスキー自身がジャズ演奏家であり、長らく日本に住んでジャズ喫茶を利用していたことから、その独特の文法というかマナーには違和感があったようだ。彼にとってジャズとは生で聴くものであり、聴衆との掛け合いのもとに一回限りのその場だけのかけがえのない演奏を楽しむものなのだ。それなのに、ジャズ喫茶ではおしゃべり禁止、身体を動かしてもいけないし、リクエストを受け付けない店もある。客はじっと目をつぶって腕組みし、レコード演奏に耽溺しなくてはならない。そんな堅苦しい聴き方はジャズの精神に反するのではないかとモラスキーは批判している。

 だが、ジャズが自由を体現するものならば、「堅苦しい」聴き方をするのも人それぞれ「自由」なはずだ。ジャズの受容について批評する言説そのものがジャズの文法を裏切るというパラドクスが生じる。

 本書の最後のほうに取り上げられた若松孝二プロの映画作品に使われたジャズ音楽の前衛的な扱いについても印象に残った。若松作品の前衛性がフリージャズの文法にぴったりなのだろう。「十三人連続暴行魔」という若松孝二の作品を見ていないしあまり見たいとも思わないのだが、ここに使われた阿部薫のジャズ音楽というものを聴いてみたいという好奇心にかられた。

 音楽についての言説を読むというのはストイックな行為であり、読めば読むほど「音そのもの」への飢餓感が増すのだ。本書に取り上げられている曲が聴きたくてたまらなくなる。こういう本にはCDを付けることができないのだろうか? 本に登場する順に録音されたCDを付録に付けてもらえないものだろうか。全曲が無理ならさわりだけでも……。

 不思議なことに本書にはストリートにおけるジャズがまったく取り上げられていない。定禅寺ジャズフェスティバルのような大きなイベントはもちろん、大阪のあちこちで80年代後半以降毎年開かれているジャズ・ストリートにも一言の言及もない。これは何を意味するのだろう?? そしてまた、モラスキーは既にジャズは全盛時代を過ぎた過去の音楽だと認識しているようだ。だからこそ、ジャズ喫茶というのは「懐かしい」ものであり、ジャズのLPレコードも過去を懐かしむために存在するかのように述べる。だが、ジャズストリートの盛況ぶりを見れば、その認識には疑問符がつくのではなかろうか。

<書誌情報>

戦後日本のジャズ文化 : 映画・文学・アングラ
  マイク・モラスキー著. 青土社, 2005

富田林は大阪じゃない?!(笑) 金毘羅一代記

2005年10月21日 | 読書
 今日は仕事を休んで家でのんびり……なんてことはありえねーっわけで、今日は病院3件、息子の学校2件、と用事が立て込んでいるのである。しかし、忙中閑あり。合間を縫ってブログを更新してしまうわたしってエライ。おほほほ

さて、わたしとほぼ同い年の作家笙野頼子のけったいな小説『金毘羅』に、こんなくだりがある。

《母方の祖母は都会に生まれ育った女でした。通天閣の見えない場所に住む人間を全て差別していた。通天閣を見ない人間は「ど百姓」であり「田舎者」である。富田林を大阪だと言った人間を彼女は許さない。》

 これには苦笑。今でこそ富田林市民になってしまったが、6年前にここに引っ越してくる前はまさか自分がそんな辺境の地に住むことになるとは思っていなかった。子どものころから、富田林といえばPLランド(今はない)とPLの花火の場所、というイメージしかなく、それは遠足で出かけるような田舎だったのだ。
 で、この小説を読んでこんなあけすけな富田林差別を見て笑ってしまったわけ。

 さて、そもそもこの小説に興味を持ったのは、黒猫房主さんの『評論誌「カルチャー・レビュー」blog版』に掲載された村田豪さんの書評http://kujronekob.exblog.jp/1685869を読んだからだ。村田さんの大絶賛書評を最後まで読まずとも『金毘羅』に興味津々。
 ここでわたしがなんやかんやと書くよりも、村田さんの褒めちぎりを読んでいただいたほうがいいと思うので、ではみなさん、↑をクリック。

 というのもなんなんので、ちょいとだけ書いておくと、じつはわたしは途中で飽きてしまったのだ、この小説に。だって文体が美しくないんだもの。

 最初こそあっけにとられて読み始めたけれど、途中でなんだか「長すぎるよな、こんなに書かなくてもいいんじゃないかい」と思い始めたのだ。それに話が難しすぎる。今まで人間だと思って生きてきたけれど47歳になって急に自分が金毘羅であることを思い出してしまった金毘羅一代記、その金毘羅が語ることは神話の世界、土俗の宗教と国家と反権力のカウンター宗教、という非常に大きなテーマなのだ。わたしはこういう話に明るくないので、「ほんまかいな」と思うようなことも多々あり、ついつい疑いの目で読んでしまう。でもおもしろいんですよ、言っときますけど。

 神様の話よりも、わたしはこの金毘羅の苦しみに共感してしまった。すごく痛々しくて、「ほんとうは男なのに女として育ってしまった金毘羅」という、人間世界でもっとも疎外された人生を生きてきた47歳の女性に激しく同情してしまったのだ。家族と折り合えず、家族を苦しめ、学校になじめず、道化のように生きてきた金毘羅の人生。ジェンダーの齟齬に苦しむ人生。肉体的にはトランスジェンダーというわけでもなさそうだけど、「ほんとうは男なのに女として生きる」という感覚、わたしにはすごくわかる。
 「この子は母親のお腹のなかで(オチ×○ンを)落としてきたんだ」とわたしもよく言われた。男勝りでお転婆で、女友達より男の子とのほうが違和感なく遊べた子ども時代を思い出す。

 ちなみに、金毘羅というのはもちろん四国は香川県にある、あの「こんぴらさん」のことだ。現在では琴平神社というらしいが、なんだかよくわからない。だって、金毘羅って、神仏習合のカミさんだから、ほんとは仏なのか神なのかよくわからない。詳しいことは村田豪さんの解説その他をよんでほしい。わたしは小説一冊読了したのに、さっぱりわけがわからなかったわ。とほほ

 わたしは神とか運命とかけっこう信じているほうなので(でも風水は信じないし、占いも信じないし、特定の宗派への信仰心もない)、国家に回収されない宗教的な心情というものには共感するのだ。

 こんな奇妙な文体の奇妙な小説があったというだけでも驚きだけれど、内容はとても深いので、実は癖になるかも、と思っている。次は『水晶内制度』を読むつもり。

<書誌情報>

金毘羅 / 笙野頼子著. -- 集英社, 2004

ラジオ・ナマ内田樹を聞いた

2005年10月16日 | 読書
 わたしはテレビはほとんど見ないがラジオはよく聞く。毎朝、受信料不払い貫徹某放送局の番組を聞いているのだが、先ごろ、初めて内田樹さんの声を聞いてしまった。感動~

 ウチダファンでありながら、ナマウチダを見たことがなかったのであるが、ついにお声を聞いたのである。
「それでは今朝は少子化問題について神戸女学院大学のウチダタツルさんにお話を伺います」とアナウンスが流れた瞬間、「ええっ、ウチダさんが!」とあわてて耳をダンボに。しかしねえ、社会政策学者でもないウチダ先生に少子化問題を聞いても先生は処方箋なんて言わないよぉ、いいのかい、誰や、人選したのは。と笑う。案の定、「少子化なんて屁でもない」とはおっしゃらなかったが、そのように聞こえるコメントであった。
 
 それにしてもウチダ先生は早口やねぇ。「ラジオ的には苦しいなあ、もっとゆっくりしゃべらなあかんで」と夫も言っていた。

 して、このたび、ウチダ先生の『身体の言い分(からだのいいぶん)』を読了。

すでに葉っぱ64さんhttp://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20050811
とみきちさんhttp://yomuyomu.tea-nifty.com/dokushononiwa/2005/09/post_044b.html#more
がおもしろいと薦めてくださっている本だ。

 内容は『先生はえらい』とだぶる部分がかなりある。最近のウチダ本は内容のだぶりが目立つ。そろそろ先生、ちょっと考えないと。

 でもま、やっぱりこの本も面白かった。よくよく読んでみると、ウチダさんは言うことが矛盾してたりするのね。で、本人もそんなことはわかっていて、「ぼくは相手によって言うことが変わるんです」としゃあしゃあとしている。おまけに、「ぼくは反省しない人間なんです」って。だから、「他人にも「反省しろよ」なんてまず言わないですね。あ、言ってるかもしれない。でも、そういうことについても反省しないから(笑)」という御仁なのだ。

 この本には難しい言葉は全然出てこない。ラカンが、とかレヴィナスが、なんていうことはまず登場しない。登場しないにもかかわらず、内田さんのラカン理解やレヴィナス理解が随所に顔を出す。

 この本で注目すべきはやはりコミュニケーション論だろう。言語によるコミュニケーションを超えるものを内田さんと池上さんは語る。
 あ、そうそう、池上六朗さんというのは1936年生まれ、元航海士、今、「三軸修正法」なる整体法を普及させようとしている整体師(という紹介でいいのだろうか。「整体師」なんて本書のどこにも書いてないけど)。その池上さんの治療の方法がいっぷう変わっていて、「場の雰囲気」とでも呼べばいいのか、「以心伝心」と言えばいいのか、池上さんの楽しい気持ちを伝えることで「患者」をリラックスさせてしまう。「伝える」といっても、言葉で表現するのではなく、池上さんが「小笠原の海にいて楽しんでいる自分を想像するだけで、患者は治ってしまう」というような嘘みたいな話なのだ。ほんまかいな。

 ほかにも、「強く念じたことは実現する」とか、身体の持っている共感能力、とか、二人は「オカルト」みたいなことも言うんだけど、そういうのってわたしも「信じられる」と思う。

 コミュニケーションの相手にたいして敬意や愛情があれば、言葉を超えて共感をわかちあえるし、相手が何を欲しているのか、次になにを言おうとしているのか言い当ててしまうことだってある。いつも注意深く相手を観察し、愛情を持って接していれば、コミュニケーションは言葉を超えると思う。だからこそ、子どもに愛情を注げば彼・彼女が何を考えているかわかるし、微妙な変化にも気づくものだ。

 翻って、なかなか「自分の身体」の言い分をちゃんと聞いてこなかったかな、と反省もする。

 子育てを楽しめとか、感動体験しろとか、内田さんの言うことは、表層だけ受けとめれば「なんだ、保守的なおっさんの戯言か、なにも新しいことなんて言ってないよ」と言われそうな気もするが、やはりこれは読者の側に「注意深く聞く(読む)」ということを求めてくる本だと思う。


<書誌情報>

身体の言い分 / 内田樹, 池上六朗著. -- 毎日新聞社, 2005

『危険社会』

2005年10月10日 | 読書
 本書は、チェルノブイリ原発事故の衝撃の中で書かれた。環境問題は国境を越えるということがヨーロッパではいかに深刻な問題であったか。本書で扱う「危険」とは、まず第一に「環境への危険」、人体への「健康被害」という問題だ。

 しかもこの危険は、近代化が進めば進むほど構造的に増大するというやっかいなものであり、かつこの危険は知識によって感知できる種類のものなのだ。放射能や農薬の危険性は目に見えない。環境問題については知識のある者だけがその危険性を知り、恐怖におびえる。
 かつてのようにわかりやすく見えやすい「富の不平等」や「貧富の格差」といったものだけが問題となるのではなく、むしろ知識の格差のほうが「危険社会」をめぐる問題の本質だろう。

《 個人化された人生は、一方において、その構造上、自分で形づくっていかなくてはならないものなのだが、他方で外界に対して開かれててもいる。家族と職業労働、職業教育と労働、行政と交通制度、消費、医学、教育学等といった、システム論の観点からすれば分離しているように見えるものが、すべて、個人の人生のなくてはならない構成要素になる。部分システムの境界は、部分システムには適用されるが、制度に依存した個人の情況のなかにいる人間には適用できない。……人生を営むことは、このような条件下では、システムの矛盾を個々人の人生において解決していく営みとなる。
 ……脱伝統化と地球規模のメディアネットワークの設立とともに、個々人の人生は、ますますその直接的な生活圏から解き放たれる。そして、国境を越え、専門家の境界を越えて存在する抽象的な道徳に身をさらすようになる。この道徳によれば、個々人が潜在的に持続的見解をもたねばならない。同時に、個々人は一方で取るに足らない状態に格下げされるが、他方で、世界形成者という偽りの玉座に押し上げられる。政府が(依然として)国民国家の枠組みのなかで行為するのに対して、個々人の人生はすでに世界社会に対して開かれている。さらに、世界社会は個々人の人生の一部である。》(p269-270)

 近代において進行する個別化はまた、様々な受難が個人に対してふりかかっていることを表している。共同体全員が被る災難ではなく、個々人が受けとめるべき受難として現れるのだ。たとえば、昨今の職場の多くの問題もそうだろう。労働者階級が団結して資本に立ち向かうというような問題対処の方法がもはや無効になっているのだ。リストラは個別にやってくる。職場のイジメも個別具体的な個人に向けられる。チームワークよりも個々人の成果が問われる。わたしたちはこのような社会に生きている。

 最後のよりどころはどこだろうか、家庭か? もはや家庭さえても個人化しているのだ。「貫徹された近代の基本形は孤立した個人」だとベックは言う。家族解体をフェミニストは叫んだ。しかしベックは次のように言う。

 《一部の女性運動のように、まったくもって正当に、近代をうみだした諸伝統をさらに延長させ、市場適合的な男女平等を訴求し推し進める人々がいる。この人々が知らなくてはならないことがある。それは、この路の終わりに存在するものは、十中八九は、平等になった男女が和合している状態ではなく、対立するさまざまな路や状況のなかで個々人がばらばらにされた状態である》(p246)

 ベックのもってまわった言い方は独特で、はっきりと名指してはいないが、男女の不平等な現実に対する批判を述べつつも一部のフェミニズムに対する疑問・批判も忘れない。それが正鵠を射ているのかどうか、わたしには自信をもって何かを言うことができないのだが、この第2部第4章で書かれた「わたしはわたし――家族の内と外における男女関係」は興味深く、何度も読み返したくなる。

 そして、さらにおもしろかったのが第3部「自己内省的な近代化」の第7章「科学真理と啓蒙から遠く離れてしまったか――自己内省化そして科学技術発展への批判」だ。

 科学はいま、科学の発展じしんが産み出した危険に直面している。そして、専門化細分化した科学は、それぞれが競争を繰り広げる。そして外部の大衆によって批判にさらされた科学は、今度はその批判する科学を必要とするのだ。
「科学に対する反対が科学化される」(p328)


 本書に書かれている内容じたいに目新しいことはない。にもかかわらずとても興味深くおもしろく読めるのだ。文体の巧さもあるが、知識社会という近代の特徴をよく捉えているからだろう。エッセイのように修辞を凝らして書かれた文章なので、部分的に引用しづらいのが特徴だ。社会分析の著作であるけれど、表層的な社会現象を取り上げて分析しただけではない。底に流れる「近代把握/批判」の確かな視座に惹きつけられた。

 ベックの近代観には、「矛盾を生きる」という哲学があると思う。わたしたちは矛盾の中を生きざるをえない。そこから逃げる・それを断つ、ことよりも、矛盾の中を生きて矛盾と格闘すべきだと彼は述べているように思う。

<書誌情報>
 
 危険社会 : 新しい近代への道 ウルリヒ・ベック [著] ; 東廉, 伊藤美登里訳.
   法政大学出版局, 1998. (叢書・ウニベルシタス ; 609)

(注記)原著(Suhrkamp, 1986)の完訳. 二期出版(1988年刊)で省略した原著第2部を新たに訳出し,修正・加筆したもの ;

「希望格差社会」再読のために『危険社会』を読む

2005年10月08日 | 読書
 9月7日のブログに書いた本書へのわたしのコメントは誤読ではないかというご指摘メールがあったので、再度、最終章だけ読み直してみた。

 この本は読んでいる途中でなんだか暗い気持ちになりとっても嫌な感じがして――そう、この感じは『負け犬の遠吠え』の読書中の感覚に近い――途中で多少飛ばし読みをしたために、最終章の処方箋の部分を<心を込めて>読んでいなかったようだ。

 で、「誤読」とまではおっしゃっていないが、ちょっと違うんじゃないかというメールをくださった原田達さん(HPは「研究室№203」)からのコメントを転記する。

>  かれの『家族というリスク』(勁草書房)には
>
> 「これからは、それぞれの子どもが、自分で具体的目標を設定し、それを
> 努力で実現するという生き方が、自己肯定感や希望を生みだすでしょう。
> その具体的目標はみんなが同じでなくてもいいのです。ボランティア活動
> でも、体験活動でも、子どもが望めば勉強でもかまいません。その子ど
> も子どもの個性と能力に合わせた目標設定ができるよう、親が適切な援
> 助と指導を与えること与えることがますます重要になっています」(p231)
>
> とありますから。そして、このような多元的で自由な意志の重視とそれへ
> の社会的援助という発想もまたベックの影響があると思います。
>
>  かれは、明確な処方箋を提示しませんが、これは社会学者としては
> 「正統な」スタンスだと思います。「意図と結果のパラドクス」が身にしみて
> いる社会学者は、社会政策論のような発想をなかなかしません(できま
> せん)。だから、かれは、これらの本の中で、事実や傾向を「価値判断」
> に囚われることなく叙述・分析しています。
>  こういうスタンスは、しばしば誤解されます。現状を「肯定」しているとい
> う風に。でも、かれはそうじゃないはずです。

 
 なるほど、『家族というリスク』は未読だが、ここに引用されている部分は確かに魅力的だ。
 
  さて、『希望格差社会』の結論部は概要以下のように書かれている。

 従来の公共政策(社会政策)は、大きな政府が金を集め再分配して福祉政策として生活保護や失業保険などのセーフティネットを構築して最低限の生活保障を行ってきた。この政策が不要になったわけではないが、リスク化や二極化によってやる気を失った人に希望をもたせることはできない。現在生じている問題は、経済的生活の問題以上に、心理的なものである。ではどうすればいいのか。リスク化や二極化に耐えうる個人を、公共的政策によって作り出せるかどうかが、今後の日本社会の活性化の鍵となる。


 山田さんは「二極化は避けられない現状」と認識しているようだ。それを前提に処方箋を書こうとしている。わたしはそこに納得できないものを感じている。夢もチボーもないやんか、と思うのだ。わたしのような夢想家はしょせんは政治家にも経済学者にも社会政策立案者にもなれないのだろう。宮台氏に観念サヨクと嘲笑されるだけなんだろうな。でも夢とか希望がないのは嫌だ。(←単なるわがままか?(^_^;))

 で、本文の最後に「逆年金制度」の導入を提唱されているのは、ユニークだと思った。老人に年金があるように、若者にも年金を、というわけ。自活できるようになるまで金を貸して、あとで返済させる制度だそうな。奨学金みたいなもんかな?

 山田さんが理論的に多くを負っているベックの『危険社会』に遡って読んでみることにした。ベックの本は「近代化」について述べたものだ。内容詳細とコメントは読了後に別エントリーで。

9.11を描いた山田詠美の小説

2005年10月07日 | 読書
 山田詠美『PAY Day!!!』から印象に残ったセリフを…

「恋には証人が必要なのかしら?」

 恋する女の子は、自分の恋について微に入り細に亘って友達に喋らずにはいられない。まるで証人を求めるかのように。

 「デートの基本は食事だ」

 そう、恋の想い出はすべて食事に結びついている。食事とセックスは同じようなものなのだろうか。今夜、わたしとあなたは何を食べる? 何を食べた? どんなふうに、どんなおしゃべりとともに? そして、お互いをどんなふうに味わい尽くしたかしら。わたしを食べて。あなたを食べたい。


 『Pay Day!!!』は、9.11のテロによって母親を亡くした17歳の双子の兄妹の物語だ。物語の舞台はサウス・キャロライナ。ニューヨークに住んでいた双子たちは両親の離婚によって兄は父とともにディープ・サウスへと引越し、妹は母とともにニューヨークに留まる。そして9.11。

 彼ら兄妹の母はイタリア移民2世、父は黒人。そして双子たちの見かけは白人のように見えるようだ。9.11のあと、父たちが住むサウス・キャロライナにやって来た妹と兄との葛藤と愛、彼らそれぞれの恋愛が描かれる。母に反発ばかりしていた兄が、母を亡くしてはじめて言葉にできなかった愛情を母親に感じ始めている。

 喪失からの再生、あるいは亡くした人への愛情の確認、といった、ある意味では「陳腐」な物語だ。山田詠美が『A to Z』で見せたような小気味よい文体のリズムがここでは見られない。物語の舞台がアメリカだからか、どうにもリアリティが迫ってこない。決しておもしろくないわけではないけれど、何か1枚膜がかかっているようなもどかしさを感じながら読了した。主人公達が若いので、世代的な違和感もあったのかもしれない。

 とはいえ、やはりキラリキラリと輝く描写や言葉の数々はわたしを魅了した。だから、いくつかのアフォリズムは心に残っている。そのうちの二つが冒頭に挙げたもの。

 イタリア料理って、ガーリックと香草が命だと思う。美味。

<書誌情報>

 Pay day!!! / 山田詠美著. -- 新潮社, 2003

Posted by pipihime at 23:58 │Comments(0)

靖国神社関連本、2冊

2005年10月06日 | 読書
 先ごろ、高橋哲哉著『靖国問題』を読んだので、もう少し違う角度から靖国神社について読んでみようと、歴史的アプローチの本2冊にあたってみた。

 高橋さんの本は靖国神社の政治的・イデオロギー的側面の分析に偏っていたが、坪内本は靖国神社をめぐる風俗史である。坪内祐三は靖国神社が明治時代には競馬や相撲や祭が開かれる娯楽場であったことを強調する。靖国神社一帯の土地の説明から始めて東京を山の手と下町に分ける境界線が靖国近くの九段坂にあることを述べていく筆致はなかなか魅力的で、本書は東京の都市文化史でもある。

 明治・大正時代の文学作品に靖国がどのように描かれているか、著者の得意とする明治文学から多くの作品を引いて引用文を書き連ねているところは、小説の紹介としてはおもしろいけれど、わたしが読みたかった「靖国」とはちょっとずれていると感じてしまう。

 徹頭徹尾、靖国神社をアミューズメント施設として描きつくそうとすることには疑問が残る。靖国の「ある一面」を取り上げてそこにだけ光をあてることの問題を感じてしまった。もちろん、靖国の多面的な部分を掘り起こそうという意図はわかるし、それじたい興味深いのだが、こういう書き方でいいのかなと思う。

 そしてもう一冊は『靖国神社』。新刊書だ。こちらは歴史家の力作なのだが、事実を積み重ねる叙述が淡々と続くと少々読みづらい。文体で読者を惹くということもない真面目で固い本だから、とっつきにくい読者も多そうだ。て、わたしのことやんか(^^ゞ。

 本書はとりわけ戦後の靖国について詳しく分析してある。敗戦直後の靖国神社の主張、遺族の主張、それを受けた自民党の動き、反対派の主張がどのようにからまりあい変化してきたかがよくわかる。

 一言でいえば、靖国をめぐる論説は、「慰霊」「顕彰」「追悼」をめぐる攻防戦だった。敗戦直後は「平和主義」へと傾きかけた靖国神社側の主張が、やがて世の中の「逆コース」といわれるような動きに合わせるかのように、いつしか「平和の礎」としての靖国という考えかたから変化して、戦争を称揚し賛美する主張へと変わっていく。その様子が『靖国』という機関誌を分析することによりつぶさに描かれている。

 戦争の記憶が薄れるにつれ、だんだんと戦争への反省も薄れ、戦死者を英雄として祀る考え方が台頭してくるようだ。そういう考え方の変遷に大きな影響を与えたのが「軍人恩給」の存在だと赤澤氏は述べる。戦後まもなく、軍人恩給は廃止され、遺族たちは生活の支柱も精神的な支柱も失ってしまった。それまでは、「国のために戦った褒賞としての恩給」という位置づけがあったのに。それを失くしたために、「死んだ者は犬死だったのか」という痛切な思いが遺族を苦しめたのだ。ひいてはその感情は戦争を否定し、平和へと向かう。

(なお、一旦はGHQの指令により廃止された軍人恩給は、1952年4月に「戦傷病者戦没者遺家族等援護法」の施行という形で復活する。再軍備政策と軌を一にする動きであった。)

 本書を読んで新たに知ったことは、自民党の集票マシーンというイメージしかなかった立正佼成会が、靖国の国家護持に反対し、先の戦争を侵略戦争と位置づけてその反省の上に「靖国国民護持」運動を展開していたということだ。立正佼成会の青年部は中国人の遺骨収集事業にも参加していた。こういうのを読むと、「保守」とか「革新」とかいうレッテル貼りの二分法は一面的な評価でしかなかったのだなと反省させられる。

<書誌情報>
靖国 = Yasukuni / 坪内祐三著. -- 新潮社, 1999(写真は2001年刊行の文庫本)

靖国神社 : せめぎあう「戦没者追悼」のゆくえ / 赤澤史朗著. 岩波書店, 2005