葉っぱ64さんの「千人印の歩行器」に、ジャズ名盤の有名なジャケットの写真が掲載されている。
http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20051019
名盤だの有名なジャケットだのといわれてもジャズに疎いわたしにはピンとこないのだが、あの写真は「あの、足のレコード」といえば世界で通じるグローバルスタンダードなジャケットだったのだ。
とりたててジャズファンというわけではないわたしが読んでもこの本はかなりおもしろかった。わたしはジャズもクラシックも好きだけれど、造詣が深いわけではない。どちらもBGMに過ぎないから、オタク的な聞き方はしないし、レコードへのフェティッシュな愛もない。それでも、本書にあふれるジャズへの愛情を感じるにつけ、どんどんジャズが好きになっていく気がする。
この本はジャズの音楽的な解説書ではなく、戦後の日本でどのようにジャズが取り上げられてきたかを検証する言説分析だ。そして、ジャズがどのように聴かれてきたか、その受容史について明らかにすることを目的とする。
だから、本書で語られるのはジャズ演奏や演奏家の歴史・伝記ではなく、小説であり映画であり、さらにはジャズ喫茶という<ジャズ聴衆者たちの場>だ。ジャズ好きの作家として有名な中上健次や村上春樹、五木寛之らの作品が俎上に載せられ、ジャズを描いた映画やジャズをBGMに使った映画が分析される。戦後、日本ではスウィングジャズが大衆的な人気を博し、ジャズとは大衆的な音楽であり、クラシックのような「高等な」ものとは一線を画されていたということが、たとえば映画「嵐を呼ぶ男」を例に引いて語られる。
それがいつの間にかフリージャズの全盛時代になると次第にジャズは難解なものとなり、現在ではクラシックと同等に扱われるようになっていくのだ。
本書で目を引くのは、ジャズ喫茶批判だろう。モラスキー自身がジャズ演奏家であり、長らく日本に住んでジャズ喫茶を利用していたことから、その独特の文法というかマナーには違和感があったようだ。彼にとってジャズとは生で聴くものであり、聴衆との掛け合いのもとに一回限りのその場だけのかけがえのない演奏を楽しむものなのだ。それなのに、ジャズ喫茶ではおしゃべり禁止、身体を動かしてもいけないし、リクエストを受け付けない店もある。客はじっと目をつぶって腕組みし、レコード演奏に耽溺しなくてはならない。そんな堅苦しい聴き方はジャズの精神に反するのではないかとモラスキーは批判している。
だが、ジャズが自由を体現するものならば、「堅苦しい」聴き方をするのも人それぞれ「自由」なはずだ。ジャズの受容について批評する言説そのものがジャズの文法を裏切るというパラドクスが生じる。
本書の最後のほうに取り上げられた若松孝二プロの映画作品に使われたジャズ音楽の前衛的な扱いについても印象に残った。若松作品の前衛性がフリージャズの文法にぴったりなのだろう。「十三人連続暴行魔」という若松孝二の作品を見ていないしあまり見たいとも思わないのだが、ここに使われた阿部薫のジャズ音楽というものを聴いてみたいという好奇心にかられた。
音楽についての言説を読むというのはストイックな行為であり、読めば読むほど「音そのもの」への飢餓感が増すのだ。本書に取り上げられている曲が聴きたくてたまらなくなる。こういう本にはCDを付けることができないのだろうか? 本に登場する順に録音されたCDを付録に付けてもらえないものだろうか。全曲が無理ならさわりだけでも……。
不思議なことに本書にはストリートにおけるジャズがまったく取り上げられていない。定禅寺ジャズフェスティバルのような大きなイベントはもちろん、大阪のあちこちで80年代後半以降毎年開かれているジャズ・ストリートにも一言の言及もない。これは何を意味するのだろう?? そしてまた、モラスキーは既にジャズは全盛時代を過ぎた過去の音楽だと認識しているようだ。だからこそ、ジャズ喫茶というのは「懐かしい」ものであり、ジャズのLPレコードも過去を懐かしむために存在するかのように述べる。だが、ジャズストリートの盛況ぶりを見れば、その認識には疑問符がつくのではなかろうか。
<書誌情報>
戦後日本のジャズ文化 : 映画・文学・アングラ
マイク・モラスキー著. 青土社, 2005
http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20051019
名盤だの有名なジャケットだのといわれてもジャズに疎いわたしにはピンとこないのだが、あの写真は「あの、足のレコード」といえば世界で通じるグローバルスタンダードなジャケットだったのだ。
とりたててジャズファンというわけではないわたしが読んでもこの本はかなりおもしろかった。わたしはジャズもクラシックも好きだけれど、造詣が深いわけではない。どちらもBGMに過ぎないから、オタク的な聞き方はしないし、レコードへのフェティッシュな愛もない。それでも、本書にあふれるジャズへの愛情を感じるにつけ、どんどんジャズが好きになっていく気がする。
この本はジャズの音楽的な解説書ではなく、戦後の日本でどのようにジャズが取り上げられてきたかを検証する言説分析だ。そして、ジャズがどのように聴かれてきたか、その受容史について明らかにすることを目的とする。
だから、本書で語られるのはジャズ演奏や演奏家の歴史・伝記ではなく、小説であり映画であり、さらにはジャズ喫茶という<ジャズ聴衆者たちの場>だ。ジャズ好きの作家として有名な中上健次や村上春樹、五木寛之らの作品が俎上に載せられ、ジャズを描いた映画やジャズをBGMに使った映画が分析される。戦後、日本ではスウィングジャズが大衆的な人気を博し、ジャズとは大衆的な音楽であり、クラシックのような「高等な」ものとは一線を画されていたということが、たとえば映画「嵐を呼ぶ男」を例に引いて語られる。
それがいつの間にかフリージャズの全盛時代になると次第にジャズは難解なものとなり、現在ではクラシックと同等に扱われるようになっていくのだ。
本書で目を引くのは、ジャズ喫茶批判だろう。モラスキー自身がジャズ演奏家であり、長らく日本に住んでジャズ喫茶を利用していたことから、その独特の文法というかマナーには違和感があったようだ。彼にとってジャズとは生で聴くものであり、聴衆との掛け合いのもとに一回限りのその場だけのかけがえのない演奏を楽しむものなのだ。それなのに、ジャズ喫茶ではおしゃべり禁止、身体を動かしてもいけないし、リクエストを受け付けない店もある。客はじっと目をつぶって腕組みし、レコード演奏に耽溺しなくてはならない。そんな堅苦しい聴き方はジャズの精神に反するのではないかとモラスキーは批判している。
だが、ジャズが自由を体現するものならば、「堅苦しい」聴き方をするのも人それぞれ「自由」なはずだ。ジャズの受容について批評する言説そのものがジャズの文法を裏切るというパラドクスが生じる。
本書の最後のほうに取り上げられた若松孝二プロの映画作品に使われたジャズ音楽の前衛的な扱いについても印象に残った。若松作品の前衛性がフリージャズの文法にぴったりなのだろう。「十三人連続暴行魔」という若松孝二の作品を見ていないしあまり見たいとも思わないのだが、ここに使われた阿部薫のジャズ音楽というものを聴いてみたいという好奇心にかられた。
音楽についての言説を読むというのはストイックな行為であり、読めば読むほど「音そのもの」への飢餓感が増すのだ。本書に取り上げられている曲が聴きたくてたまらなくなる。こういう本にはCDを付けることができないのだろうか? 本に登場する順に録音されたCDを付録に付けてもらえないものだろうか。全曲が無理ならさわりだけでも……。
不思議なことに本書にはストリートにおけるジャズがまったく取り上げられていない。定禅寺ジャズフェスティバルのような大きなイベントはもちろん、大阪のあちこちで80年代後半以降毎年開かれているジャズ・ストリートにも一言の言及もない。これは何を意味するのだろう?? そしてまた、モラスキーは既にジャズは全盛時代を過ぎた過去の音楽だと認識しているようだ。だからこそ、ジャズ喫茶というのは「懐かしい」ものであり、ジャズのLPレコードも過去を懐かしむために存在するかのように述べる。だが、ジャズストリートの盛況ぶりを見れば、その認識には疑問符がつくのではなかろうか。
<書誌情報>
戦後日本のジャズ文化 : 映画・文学・アングラ
マイク・モラスキー著. 青土社, 2005