『サルトル(図解雑学シリーズ)』の著者永野潤氏の「サルトラ日記」がかなりおもしろいので、最近よく読んでいる(ちょっと前まで「HIMANIZM」というタイトルだったはずなのだが…)。特に「オンラインブックショップbaka1 売り上げランキング」は抱腹絶倒もので、わたしのお気に入りだ。
永野氏の『サルトル』の書評をbk1に投稿したのを機会に永野さんのBBSに書き込みして、同書に掲載されている写真を撮影された方ともお話した。ネット時代には著者と読者がダイレクトにつながるというおいしい思いをすることができるのだ。
それにしてもサルトルの女たらしぶりには改めてあきれてしまった。ボーボワールとの自由結婚だって、要するにサルトルの浮気を合理化するものだという側面が強いみたい。わたしは好色な哲学者って好きなんだけど(笑)。
----------以下、bk1投稿書評------------
サルトル 図解雑学
永野 潤著 ナツメ社
ポストモダン思想がもてはやされ、サルトル流の「主体」が解体されてしまった現在、サルトルの時代は終わったと言われて久しい。
ところが、本書の著者永野潤氏はそうは思っていない。
【サルトルの思想が、重くまじめな「主体」の哲学である、というのは大きな誤解です。サルトルは、その思想の出発点から、「私」という殻に閉じこもる従来のまじめで重々しい哲学を批判し、「外に出よう」と訴えていました。……サルトルとサルトル以後の断絶はそんなに自明なことではないのです。】(はじめに)
だから、まだまだサルトルから学ぶことはあるのだ。
というわけで、サルトル入門書。これが実によくできていておもしろいから、ぐいぐい読んでしまう。
見開き2頁で1項目。左が本文、右が漫画による図解頁。わかりやすい。サルトルの生い立ちに沿って彼の思想の変遷がコンパクトに語られる。初心者にはわかりやすく(といっても、それほど簡単なわけではない。やはりそれなりに難解な用語も出てくるのだが、それは右側の漫画が理解に役立つ)、サルトル経験者には格好のおさらい書となる。
サルトルは生涯に亘って何度も自らの思想を否定し、新しい思想を紡いでいった哲学者だが、後知恵でいえば、いくつも誤りを犯している。決定的なのがソ連に対する評価だろう。
例えば西永良成氏は、サルトルのことを「深く絶望しつつもあえて「希望を作り出さねばならない」と言い、かつての「思想の君主」の義務を律儀に果たそうとした——そして、そのような寛大さこそが否定しえぬサルトルの偉大さだった」(ミラン・クンデラ『無知』の訳者後書)と評価しつつも、サルトルは68年のプラハの春までソ連を擁護し続けたわけであり、そのことが「ソルジェニーツイン、あるいはクンデラなど東側の多くの人びとからは「自己欺瞞」、「責任の拒否」と感じられて当然だった」という。
永野さんのこの本でも盟友メルロ・ポンティとの確執が取り上げられているが、『サルトル/メルロ=ポンティ往復書簡』を読む限り、非はサルトルにあると私は思う。永野氏もさまざまな表現でサルトルの過ちについて語っている。
サルトルの間違いがさんざん指摘されているにもかかわらず、なぜ今、サルトルなのだろう。サルトルからとりわけ学ぶべきことは、その知識人論にあると著者はいう。
【知識人は自分のうちに矛盾をはらんだ、孤独な存在だ…。…サルトルは「既存の知識人を擁護したのではなく、むしろそれを批判しようとした。彼は、閉じた場所の外へ、世界へと関係するとき私たちは誰であれ真の知識人になると言おうとしたのである。その意味でサルトルが提起した知識人の問題は現代の私たちと無関係な問題ではない。サルトルにならっていえば、それは「われわれの問題」なのである。】(242p)
「「テロとの戦い」という名目で最も豊かな国が最も貧しい国を報復爆撃する」ような現在、「サルトルを乗り越えたと自称する人々は、タコツボ的「専門家」か「偽の知識人」以上の役割を果たしているだろうか?」と著者は問う。これこそが、サルトルを読むことの意義だと著者が強調したい点だろう。
改めてサルトルの思想をたどっていくと、確かに現代思想といわれるものとの類似性を驚くほど感じてしまう。やはり忘れ去られていい哲学者とは思えない。ただし、階級論の単純な理解/適応はもはや通用しないだろうし、啓蒙主義的な知識人のありかたについても再考の余地はあると思う。サルトルをどのように咀嚼するのか、何を教訓として引き出すのか、何を学ぶべきなのか、本書を閉じたあとにこそ課題は待ち受けている。
永野氏の『サルトル』の書評をbk1に投稿したのを機会に永野さんのBBSに書き込みして、同書に掲載されている写真を撮影された方ともお話した。ネット時代には著者と読者がダイレクトにつながるというおいしい思いをすることができるのだ。
それにしてもサルトルの女たらしぶりには改めてあきれてしまった。ボーボワールとの自由結婚だって、要するにサルトルの浮気を合理化するものだという側面が強いみたい。わたしは好色な哲学者って好きなんだけど(笑)。
----------以下、bk1投稿書評------------
サルトル 図解雑学
永野 潤著 ナツメ社
ポストモダン思想がもてはやされ、サルトル流の「主体」が解体されてしまった現在、サルトルの時代は終わったと言われて久しい。
ところが、本書の著者永野潤氏はそうは思っていない。
【サルトルの思想が、重くまじめな「主体」の哲学である、というのは大きな誤解です。サルトルは、その思想の出発点から、「私」という殻に閉じこもる従来のまじめで重々しい哲学を批判し、「外に出よう」と訴えていました。……サルトルとサルトル以後の断絶はそんなに自明なことではないのです。】(はじめに)
だから、まだまだサルトルから学ぶことはあるのだ。
というわけで、サルトル入門書。これが実によくできていておもしろいから、ぐいぐい読んでしまう。
見開き2頁で1項目。左が本文、右が漫画による図解頁。わかりやすい。サルトルの生い立ちに沿って彼の思想の変遷がコンパクトに語られる。初心者にはわかりやすく(といっても、それほど簡単なわけではない。やはりそれなりに難解な用語も出てくるのだが、それは右側の漫画が理解に役立つ)、サルトル経験者には格好のおさらい書となる。
サルトルは生涯に亘って何度も自らの思想を否定し、新しい思想を紡いでいった哲学者だが、後知恵でいえば、いくつも誤りを犯している。決定的なのがソ連に対する評価だろう。
例えば西永良成氏は、サルトルのことを「深く絶望しつつもあえて「希望を作り出さねばならない」と言い、かつての「思想の君主」の義務を律儀に果たそうとした——そして、そのような寛大さこそが否定しえぬサルトルの偉大さだった」(ミラン・クンデラ『無知』の訳者後書)と評価しつつも、サルトルは68年のプラハの春までソ連を擁護し続けたわけであり、そのことが「ソルジェニーツイン、あるいはクンデラなど東側の多くの人びとからは「自己欺瞞」、「責任の拒否」と感じられて当然だった」という。
永野さんのこの本でも盟友メルロ・ポンティとの確執が取り上げられているが、『サルトル/メルロ=ポンティ往復書簡』を読む限り、非はサルトルにあると私は思う。永野氏もさまざまな表現でサルトルの過ちについて語っている。
サルトルの間違いがさんざん指摘されているにもかかわらず、なぜ今、サルトルなのだろう。サルトルからとりわけ学ぶべきことは、その知識人論にあると著者はいう。
【知識人は自分のうちに矛盾をはらんだ、孤独な存在だ…。…サルトルは「既存の知識人を擁護したのではなく、むしろそれを批判しようとした。彼は、閉じた場所の外へ、世界へと関係するとき私たちは誰であれ真の知識人になると言おうとしたのである。その意味でサルトルが提起した知識人の問題は現代の私たちと無関係な問題ではない。サルトルにならっていえば、それは「われわれの問題」なのである。】(242p)
「「テロとの戦い」という名目で最も豊かな国が最も貧しい国を報復爆撃する」ような現在、「サルトルを乗り越えたと自称する人々は、タコツボ的「専門家」か「偽の知識人」以上の役割を果たしているだろうか?」と著者は問う。これこそが、サルトルを読むことの意義だと著者が強調したい点だろう。
改めてサルトルの思想をたどっていくと、確かに現代思想といわれるものとの類似性を驚くほど感じてしまう。やはり忘れ去られていい哲学者とは思えない。ただし、階級論の単純な理解/適応はもはや通用しないだろうし、啓蒙主義的な知識人のありかたについても再考の余地はあると思う。サルトルをどのように咀嚼するのか、何を教訓として引き出すのか、何を学ぶべきなのか、本書を閉じたあとにこそ課題は待ち受けている。