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平和憲法が私の原点。鹿児島の吹上浜、桜島が原風景。毎週阪急3駅、JR2駅の5駅をのぼりを背負ってアピールランしています。

鹿児島 南薩線万世駅の記憶

2007年10月06日 |  #自分史 #茨木市議会議員
 最近、ホームページで「さよなら南薩線」に巡りあった。その中に私が小学生の後半に廃線となった万世線(といっても加世田駅から万世駅一駅だけの短い路線だが)のことが書かれている。

 記事には軍事的にも重要な駅だったとある。この支線沿いに幾つかの防空壕があったのは米軍機の機銃攻撃に備えてだったのか。私の知っている防空壕は万世小学校の運動場西の岩山にもあり、これらの防空壕は小学校の頃までいい遊び場となった。

 父親や兄と畑仕事しているときに「ボー」と汽笛を耳にすると手を休めて汽車を見ていた。加世田駅まで汽車5円、バスは10円という料金はいつまでだったろう。亡くなった私の兄は中学卒業後、職業訓練校を経て、この駅で家族に見送られて集団就職していった。

以下南日本新聞特集記事「さよなら南薩線」昭和59年3月6日~3月16日(10回連載)から抜粋 なお山下が改行や強調した部分があり。

 日本の鉄道全盛時代だった昭和十年代は、戦禍続き、暗く苦しい不幸な時代でもあった。同十二年七月七日の蘆溝橋事件がぼっ発、日中戦争に突入した前後から、南薩線の各駅頭でも出征兵士の見送り風景が日常茶飯事になった。

 とくに万世駅は、地元万世だけでなく大浦、笠沙方面の乗り換え駅とあって、ひときわにぎやかな見送りが続いた。「武運長久」の旗を先頭に、かっぽう着に「国防婦人会」と書いたタスキがけの婦人連、学童・生徒たちが、日の丸の小旗を振り「バンザイ」の声がいつまでも続いた。

 万世町助役だった森利保(七五)は「見送る子どもたちは交代制だった。しかし、戦況悪化すると、敵のスパイがいる、と派手な見送りは軍から禁止された」と証言する。見送る人もなく”マッチ箱列車”に揺られ、荒野やジャングルで無念の死を遂げた兵士もいたことだろう。
 
 軍需物資輸送盛ん
 万世駅は軍事的にも重要な駅だった。万世町長だった吉峯喜八郎(八ニ)は、新川の砂丘地に軍の少年飛行学校を誘致しようと、猛烈な陳情運動をした。これは国策にもあい昭和十八年から飛行場建設が始まった。この工事を請け負ったのが北海道の二業者。朝鮮人労務者百余人はすし詰め貨車で現場入り。万世中西横のバラックの飯場で寝起きしていた。いわゆるタコツボ部屋で「飯場内で発シンチフスがまん延し、十五、六人が死んだ。治療にあたった地元の医者も感染した」と森。「あとから中国・八路軍の捕虜四、五十人もやってきた」と話すのは元県議の松岡健蔵(七四)。

 万世飛行場は吉峯の夢とは逆に特攻基地に。特攻隊員たちは、加世田駅近くの料亭飛竜荘に待機していた。当時、加世田駅の出札係だった加世田市唐仁原、花牟礼ミツ子(五六)は「飛行服に白いマフラーをなびかせ、腰に軍刀を下げた姿は人目を引き、若い女性のあこがれだった」と、ありし日をしのぶ。同基地から飛び立った百九十五人の若者は、南海に消えた。

 一方、薩南中央鉄道も知覧基地への兵員、物資輸送でフル回転した。南薩線の線路は、小型車の運行しか出来なかったが、昭和十九年五月には、軍の特別なはからいで国産のC12型機関車が導入され、伊集院ー加世田間を走った。沿線町村からは松材などの軍需品が貨車輸送された。加世田市川畑はムシロ、カマス作りが盛んだったが、戦時中は軍の増産命令で約二百戸に数量割り当てがあり、連日のように貨車積みされた。南薩鉄道KKは十八年二月一日、経営不振の薩南中央鉄道KKを吸収合併し、同線は知覧線と改名した。合併当時の資本金は二百六十万円。
記事はここまで

 昼から明日の玉島地区体育祭の準備。コースの白線引き、ウルトラクイズで用いる○、×の掲示板の作り変えなど。

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