sekiの徒然日記

旧布野村に週末帰農を始めて18年で遂に解散。今後は尾道からsekiの徒然日記として再スタート。

毛利元就    布野ダッシュ村尾道分村発

2009-11-09 12:55:39 | その他
   郡山公園 遠方に見える山すそが尼子との合戦場跡といわれている。

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 毛利元就と言えば、昨日も少し紹介したように12~13年前にNHK大河ドラマで放映され一躍全国メジャーに、しかし元就の居城「郡山城跡」が安芸吉田にあることから、以前から広島県では有名?。

   元就の墓の入り口

 郡山城といえば、元就が尼子経久と大内義興の二大勢力から、独立する第1歩の戦いしたことで知られている、元就が尼子から大内に寝返り、怒った尼子晴久が天文9年3万の兵で攻めたが、郡山城に兵2400人・領民8000人で立てこもり、大内からの援軍も得て撃退、元就45才の時。

 その後、大内家の内紛で主君大内義隆を、討ち取った筆頭家老陶晴賢を厳島合戦で謀略の末破り西国5カ国の大主となる、元就60才の時。更にもう一方の勢力尼子義久を本拠地富田月山城に攻め、永禄9年11月遂に尼子久義を降伏させ、中国10カ国の大主というか覇者に、元就70才の時。

 この尼子家を倒した時、降伏した尼子久義・弟の倫久・秀久の首を、を家老たちの反対を押し切り跳ねなかった、このことが後になって山内鹿之介らの家臣団による尼子再興の挙兵となる。

 その山内鹿之介や西の大友宗麟との戦いの指揮をしつつ生涯現役で臨終、元就75才。

 3人の子供への教訓状、「わしは生涯に多くの人を殺しすぎた。その報いは、この一身に背負っていくつもりだが、おぬしらも心して生きていかねばならぬ、兄弟3人毛利家のために結束して、多くの犠牲をはらい獲得した領地を守りぬくように」の「3本の矢の教え」はよく知られている。

 又、孫の輝元(長男 降元の子)への遺言では、「まちがっても、天下をとろうなどという、大それた望みを抱いてはならぬ」と戒めているが、その後 輝元が西軍の総大将として関が原の戦いに敗れ、徳川家康により中国120万石から一揆に長門・周防の2カ国37万石に大厳封されるのは皮肉なこと。

 余談ですが、昨日のNHK大河ドラマ「天地人」で中尾彬扮する輝元が、頭を丸めて出家・隠居していながら、直江兼続をたずねるというシーンがありましたが、輝元・毛利家臣団は家康を恨み、いつかは・・・・と思っていたと言われていたようです。

 今回はこれくらいで、今度はその後の毛利を勉強しておきます。