バロック期のリコーダーソナタなどの楽譜を見てみると、やっぱりすごく良くリコーダーが鳴るように書かれているなあと思うのだ。
曲によっては次から次に新しい旋律が現れて来てつぎはぎ細工みたいな感じになってしまっているのもあるけれど、それでもやっぱり、リコーダーがリコーダーらしく取り扱われているからそれだけでも音楽としてちゃんと成り立っている感じがある。
この場合、「鳴る」というのは実はそんなに難しいことではなくて、リコーダーの音域のなかでリコーダーにとって現実的に不可能ではない音の動きが適切に配置されているということだ。
あんまり短い音が続きすぎると、全体の響きが貧弱な感じになり勝ちだから、よく出来た曲の場合には短い音が続いたらその後はちゃんと長い音を吹いても良いような仕組みが施してある。
長いものだと60小節あるいはそれ以上になるものもあるのだけれど、だいたいず~っと吹きっぱなしである。昔の人は休みなく吹き続けるということを美徳としていたのかどうかしらないけれど、通奏低音は文字通り、音は出ていてそれがやむことはなくて、旋律楽器もだいたい音が出ていてずっと鳴り続けている感じの曲がほとんどなのだ。
このあたりは今の作曲者の感覚から言うとちょっと芸がなさすぎる感じかもしれない。
しばらく旋律楽器が休んで伴奏楽器だけになるというのも変化があって面白いものだと思う。
話は少し変わるのだけれども、最近、改めてバルトークの弦楽四重奏の録音を聴いてみた。
第4番の最終楽章。
アルバンベルク四重奏団の演奏なのだけれど、これはもう何というべきか・・・・・
「弦楽器がよく鳴る」とか、そういう次元を遥かに通り越してしまって、20世紀が始まったばかりのバルトークを含む限られた数の作曲家達(多分、ストラヴィンスキーも・・・・やりかたはバルトークとは全然、異なっていたけれど)が文字通り、「原始主義」みたいな、そのような音楽をひたすら目指していたということがわかるような気がするのだ。
これは「弦楽器が鳴るように作られている」音楽ではない。
そんな生易しいものではないのだ。
作曲者の目指していたものがいかなる方法によってか、僕にはもう知ることは出来ないけれど、とにかく、それが楽譜上にしるされて、それが類まれなる演奏者達によって実際に音にされたという記録だ。
ただし、バルトークはもちろんいかなる場合でも理性を失うことはなかった。
楽譜に書いてあることはすべてヴァイオリンやヴィオラ、チェロといった楽器で実現可能なことばかりだ。ただし、そこには20世紀初頭にうずまいていたはずの「原始主義」を反映するような、そんな時代の空気が色濃くただよっている。
バルトーク自身は多分、体質として彼自身のなかに「原始主義」のようなものに反応しやすい何かを備えていたのかもしれない。ストラヴィンスキーとか、そういう人よりも遥かに濃厚な何かを。
僕自身は楽器編成が小さくなったせいなのか、どうなのかしらないけれどストラヴィンスキーの「春の祭典」のような音楽よりも、バルトークの弦楽四重奏のほうにより「原始主義」的な何かを感じる。
これはバルトークに限らないことだけれども、とてもよく出来た音楽作品はまるで作曲者自身の即興演奏をそのまま楽譜にしてしまったような、そんな感じを受けることがある。
これはいったい、どういうことなのだろうかな・・・・といつも思う。
ひとつの作品を作るのに、何回も何回も主題を練り直したことが伝えられているベートーヴェンの作品だってそうだ。彼自身はモーツァルトみたな才能はなかったのかもしれない。ひとつの主題を決めるのに、何回も推敲を重ねなければいけないようなそんなタイプだったのだ。多分、ベートーヴェンというひとは。
でも、それでも彼の作品はやっぱり最終的な姿としてはとても自然で、まるで最初から、これ以外の形では有り得ないようなそんな完成度を備えているように見える。
反行、逆行、そして逆行の反行。
これらの3つの音列操作の方法、これは調性音楽にも無調音楽にもどちらにも適用できる方法なのだけれど、無反省にこれらの方法を使うとたいてい、すごくへんてこりんなものが出来上がってしまう。
何が言いたいのか、よくわからない音の動き、あるいは何が言いたいのか全然伝わらないようなそんな妙ちくりんな曲が出来上がることが多い。僕の経験上。
反行、逆行、そして逆行の反行。
これはたとえばバロック風のフーガみたいなものを作る時にも、12音技法の曲の場合にも使えるけれど、音楽を作るということの本質的なところと、こういうテクニックとはすごく遠いところに互いに位置しているように僕には思える。
今、僕が思うのは多分、すごく的外れかもしれないのだけれども、音楽を作るということの本質にすごく近いのは次のようなことではないかと思うのだ。
それは・・・・
締め切りに間に合わせること!
多少の不出来には目をつぶりながら、とにかく間に合わせること!
夜中のコンビニで珈琲のんで時間つぶしたりしても良いけれど、その分、しっかり取り戻して、とにかく間に合わせること!
自分の才能のなさとか、勉強不足とか、そういうことを言い訳にしないで締め切りに間に合わせること!
曲によっては次から次に新しい旋律が現れて来てつぎはぎ細工みたいな感じになってしまっているのもあるけれど、それでもやっぱり、リコーダーがリコーダーらしく取り扱われているからそれだけでも音楽としてちゃんと成り立っている感じがある。
この場合、「鳴る」というのは実はそんなに難しいことではなくて、リコーダーの音域のなかでリコーダーにとって現実的に不可能ではない音の動きが適切に配置されているということだ。
あんまり短い音が続きすぎると、全体の響きが貧弱な感じになり勝ちだから、よく出来た曲の場合には短い音が続いたらその後はちゃんと長い音を吹いても良いような仕組みが施してある。
長いものだと60小節あるいはそれ以上になるものもあるのだけれど、だいたいず~っと吹きっぱなしである。昔の人は休みなく吹き続けるということを美徳としていたのかどうかしらないけれど、通奏低音は文字通り、音は出ていてそれがやむことはなくて、旋律楽器もだいたい音が出ていてずっと鳴り続けている感じの曲がほとんどなのだ。
このあたりは今の作曲者の感覚から言うとちょっと芸がなさすぎる感じかもしれない。
しばらく旋律楽器が休んで伴奏楽器だけになるというのも変化があって面白いものだと思う。
話は少し変わるのだけれども、最近、改めてバルトークの弦楽四重奏の録音を聴いてみた。
第4番の最終楽章。
アルバンベルク四重奏団の演奏なのだけれど、これはもう何というべきか・・・・・
「弦楽器がよく鳴る」とか、そういう次元を遥かに通り越してしまって、20世紀が始まったばかりのバルトークを含む限られた数の作曲家達(多分、ストラヴィンスキーも・・・・やりかたはバルトークとは全然、異なっていたけれど)が文字通り、「原始主義」みたいな、そのような音楽をひたすら目指していたということがわかるような気がするのだ。
これは「弦楽器が鳴るように作られている」音楽ではない。
そんな生易しいものではないのだ。
作曲者の目指していたものがいかなる方法によってか、僕にはもう知ることは出来ないけれど、とにかく、それが楽譜上にしるされて、それが類まれなる演奏者達によって実際に音にされたという記録だ。
ただし、バルトークはもちろんいかなる場合でも理性を失うことはなかった。
楽譜に書いてあることはすべてヴァイオリンやヴィオラ、チェロといった楽器で実現可能なことばかりだ。ただし、そこには20世紀初頭にうずまいていたはずの「原始主義」を反映するような、そんな時代の空気が色濃くただよっている。
バルトーク自身は多分、体質として彼自身のなかに「原始主義」のようなものに反応しやすい何かを備えていたのかもしれない。ストラヴィンスキーとか、そういう人よりも遥かに濃厚な何かを。
僕自身は楽器編成が小さくなったせいなのか、どうなのかしらないけれどストラヴィンスキーの「春の祭典」のような音楽よりも、バルトークの弦楽四重奏のほうにより「原始主義」的な何かを感じる。
これはバルトークに限らないことだけれども、とてもよく出来た音楽作品はまるで作曲者自身の即興演奏をそのまま楽譜にしてしまったような、そんな感じを受けることがある。
これはいったい、どういうことなのだろうかな・・・・といつも思う。
ひとつの作品を作るのに、何回も何回も主題を練り直したことが伝えられているベートーヴェンの作品だってそうだ。彼自身はモーツァルトみたな才能はなかったのかもしれない。ひとつの主題を決めるのに、何回も推敲を重ねなければいけないようなそんなタイプだったのだ。多分、ベートーヴェンというひとは。
でも、それでも彼の作品はやっぱり最終的な姿としてはとても自然で、まるで最初から、これ以外の形では有り得ないようなそんな完成度を備えているように見える。
反行、逆行、そして逆行の反行。
これらの3つの音列操作の方法、これは調性音楽にも無調音楽にもどちらにも適用できる方法なのだけれど、無反省にこれらの方法を使うとたいてい、すごくへんてこりんなものが出来上がってしまう。
何が言いたいのか、よくわからない音の動き、あるいは何が言いたいのか全然伝わらないようなそんな妙ちくりんな曲が出来上がることが多い。僕の経験上。
反行、逆行、そして逆行の反行。
これはたとえばバロック風のフーガみたいなものを作る時にも、12音技法の曲の場合にも使えるけれど、音楽を作るということの本質的なところと、こういうテクニックとはすごく遠いところに互いに位置しているように僕には思える。
今、僕が思うのは多分、すごく的外れかもしれないのだけれども、音楽を作るということの本質にすごく近いのは次のようなことではないかと思うのだ。
それは・・・・
締め切りに間に合わせること!
多少の不出来には目をつぶりながら、とにかく間に合わせること!
夜中のコンビニで珈琲のんで時間つぶしたりしても良いけれど、その分、しっかり取り戻して、とにかく間に合わせること!
自分の才能のなさとか、勉強不足とか、そういうことを言い訳にしないで締め切りに間に合わせること!