吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

様式を盗み取る

2014-11-30 | 音楽制作覚書
比較的時代の新しい作品の構造を調べるためにはほとんど自力でやらなければならない。
それはまるで人目につかないところで何か得たいの知れぬ鉱脈を探し当てようとしているようなそんな感じがする。

学ぶ、というようななまやさしいものではなく、盗みとる、というような表現がふさわしいように思う。

インターネットのどこにも既存の出版物にもこのような情報はないので自分でやるしかないのだ。
でも、ものを作り出すための必要な手続きというのはこういうものなのではないかと思う。

自分でやらなければならないのだ。それは誰が教えてくれるものでもないのだ。

今からやるのは*****が作曲した*********を********して*********することなのだ。(伏字ばかりでごめんなさい!)

作曲を行う上で「音色」をどこまで考慮するのか

2014-11-30 | 音楽制作覚書
作曲を行う上で「音色」をどこまで考慮するのか、ということは作り手にとって大きな関心事である。

少なくとも西洋の音楽史においてある時期までは「音色」は作り手にとってさほど大きな関心事ではなかったと考えてみることが出来ないだろうか。
例えばJ.S.バッハの「フーガの技法」という一連の作品群があるが、ここには楽器の指定がない。これは何を意味しているのだろうか。J.S.バッハに限らず、たとえばバロック期の作曲家が曲を書く際には「鍵盤楽器のための***」というような題をつけらることがある。これはチェンバロで演奏されても良いし、オルガンで演奏されても良いし、もちろんクラヴィコードのような楽器で演奏されても良いということを想定されているはずである。

チェンバロ、オルガン、クラヴィコード、それぞれ発音方式が全く異なっているので出て来る音色もそれぞれ全く別である。しかし、このような状態でも、それぞれの楽器で演奏された時にはその作曲作品はその作品としての同一性を保っているのである。

このような例は西洋の音楽に多い。これは何を意味しているのだろうか。今、現代的な音楽を作ろうという立場になると、それは西洋音楽のひとつの発展形としての音楽を作ることになる、と考えてみることが出来るとする。

もしそうならばそれは西洋音楽が西洋音楽として成り立っているはずの構造そのものを尊重したものでなければならない、という考え方が出来るのではないだろうか。

1オクターブが12個の半音に分れており、それぞれの音が2声や3声、あるいは4つの声部となり水平的には旋律、そして垂直的には和音というものを構成しながら音楽全体が成り立つ、というこの構造、この構造が崩れてしまったものはもはや西洋の音楽の発展形としての現代的な音楽という在り方を自ら放棄してしまうことになりはしまいか。

様々な楽器から出る「音色」の面白さを追求した新しい音楽を聴くのは刺激的な体験である。
しかし、その刺激はどこまで続くのだろうか。

西洋の音楽の歴史のなかで作り手が「音色」の面白さを追求し始めたのはもしかしたら最近始まったことなのではないだろうか。だとしたら作り手たち、演奏者たち、もちろん聴き手もこのような音楽にどのように接して良いのか、まだ本当はよくわかっていないということになりはしまいか。

少なくともバルトークのような作り手が生きていた頃までは、協和音、不協和音の区別が作品のなかで意識されていた。
和音を3度ずつ重ねるのか、2度ずつ、あるいは4度ずつ重ねるのか、という選択肢はそれ以前よりは多少豊富になっていたとは言えども。

しかし、今聴かれる音楽のなかにはどうしても筆者の耳には不協和音と協和音の区別に重きをなしていない音楽があるように思われる。それは筆者にとっては西洋音楽が西洋の音楽である立脚点を否定したものにしか聴こえてこないのである。

創作は精神の自由な活動によるべきものだ。
しかし、作り手は作り手ひとりだけで存在しているわけではなくて、その作り手を作り手をして在らしめる何か大きな根源的な力によって存在させられているのだというように考えることは出来ないだろうか。

協和音と不協和音の区別、それはドミナントとトニックの区別とも通じる考え方である。
すなわち、少なくとも20世紀の半ば頃までは西洋の音楽はおおかれすくなかれこのような考え方によって成り立って来たのではなかったか。

西洋の音楽を成り立たせる根本的な原理は安定した局面と不安定な局面との交替である。このように考えてみると、そこには少なくとも最近まで極めて近い時期までは協和音と不協和音の区別、あるいはドミナント、トニックの区別、そのようなものはあってしかるべきものとしてそこにあったはずだ。

それらを否定して音楽を作ることが出来るためには今の作り手たちにどのような方法があるのだろうか。
そもそも、それらを否定する必要性がどこまであるのだろうか。

今の楽器から出るような「音色」の変化は協和音と不協和音の区別というような要因にとって代わるほどの原理として成り立つことが出来るのだろうか。

今、「音色」という要素にその面白さの焦点が絞られているようなそのような音楽を新しく作ることが出来るとしたら、それは果たしてどのような形をとるべきなのだろうか。


自分の音が20メートル先でどのように聴こえているのか

2014-11-29 | リコーダー奏法
自分の音が20メートル先でどのように聴こえているのか、というようなことを想像して演奏することが出来れば良いです。
それは自分ひとりの出している音であったり、あるいは伴奏者の出す音と自分の出す音が同時に鳴っている音であったり、会場が響きの多い場合であったり、少ない場合であったり、様々です。

その曲を演奏する会場が100人のキャパシティなのか、1000人なのか、ということでは届かせたい音のイメージが変わって来ます。

極端なことを書いてしまえば音楽は最初から最後までフォルテです。
音量的なフォルテという意味ではなく、音楽的なフォルテです。一瞬たりとも貧弱な瞬間があってはいけないし、むしろ音量そのものが小さくなっている時こそ音楽的な緊張は高くしておかなければいけないというようなこと、こういった事柄を普段の練習の際から想像しながら行うことが出来ると良いです。

聴き手は敏感なので、その時その奏者がどれほどの想像力を働かせながら音を出してるのか、いないのか、ということは瞬時にしてばれてしまうと思っていたほうが良いです。

その場合の想像力というのは響きだけではなく、ピッチやアーティキュレーション、テンポの感じ、リズム、曲が前進する感じなど、すべての要素に渡ります。

それが自分の耳元で聴こえているだけではなく、何十メートルか先でどのように聴こえているのか、ということを想像することが出来るのか、どうかでその奏者の演奏のクオリティは大きく異なって来ます。

G.ジェイコブ「ソナタ」

2014-11-29 | リコーダー奏法
今日はG.ジェイコブ「ソナタ」の練習があります。私はピアノを弾きます。
このようにモダンな様式で書かれたリコーダーとピアノのための曲を演奏する際には何も考えないで弾いてしまうと大抵の場合、ピアノの音量が大き過ぎてしまうので考え方として、もとの曲はリコーダーとピアノのためのソナタですが、イメージとしてはリコーダー協奏曲であるという風に考えます。

リコーダー協奏曲であるならば、リコーダーの独奏部分ではオーケストラはそれなりに絞った音量として楽譜は書かれているはずだし、リコーダーがやすみの部分ではオーケストラが前面に出る書法になるからです。

実際の演奏の場合、ピアノのパートだけをみて、和音の連続として書いてある部分はなるべく右手で多くの部分をつかんで、左手は単声部になるように指使いを設定します。このようにすることによって一度に和音がなるということではなく、ピアノのパートだけでもポリフォニックなイメージを作ることが出来ます。

伴奏をする際には常に気をつけなければならないことですが、旋律楽器奏者の音楽的センス(表現意欲)を刺激出来るようなタイミング、音色の作り方に気をつけます。


練習の際の思考回路

2014-11-28 | リコーダー奏法
即興演奏の練習をしたりしている時は、ほとんどの場合、最初から良いものが出来あがることはないので自分で自分のやっていることに「なんじゃこりゃ」とか「あ~あ、へんなの」とか「つまらん」とか「もうちょっとましなのはないのかよ」とか「俺ってやっぱりこの程度の才能しかないのか」とか、とにかく、かなり自分自身に対して風当たりが強くなってしまう時があるのですが、これは考えものです。

私自身は即興の時もそうですが、特に五線紙を前にして音符を書いている時などは自分自身の批評的な思考回路を最初からシャットアウトします。

自分が何かを作り出そうとしている際に自分で自分のやっていることを批評し始めると、「なんだよ。それ、そんなの、どこかの誰かがやってるじゃん。今さら、何やってんの」という感じになりかねないからです。

練習のときもそうです。
「あ~あ。まったく、こんなにやってるのにまだ出来ないの」とか、そういうことを自分で自分に言い始めると、いたたまれなくなるので、そういう回路は最初から働かないような状態にしてしまう感じです。

でも、もちろん音を聴くとか、正確に身体を制御するとか、そういうこと自体は働いているのですが、そこに余計な価値判断を加えない、というようなことになるかと思います。

同じことをものすごくゆっくりのテンポで繰り返しやっていても、なかなか上達しなくても自分で、自分自身を長い目で見てやる、そんなことの大切さを思います。


リコーダーを勉強するために必要なこと

2014-11-28 | リコーダー奏法
リコーダーを勉強するために必要なことのひとつとして、リコーダー奏者ではない先達の教えをひもとく、ということがあるのではないかと思います。


その音楽の様式を理解しているかどうかを判断する基準

2014-11-28 | リコーダー奏法
その音楽の様式を理解しているかどうかを判断する基準に、奏者がその様式で即興演奏できるかどうか、ということがあります。

これはベルギーの鍵盤楽器奏者インマゼールの言葉だったかと思います。

つまりフレスコバルディのトッカータのような音楽の様式を自分自身が理解しているのか、どうかを自分自身でチェックするためのいはそのような様式で自分自身が即興演奏できることが必要ということになります。

いろいろな音楽についてこのことはあてはまります。オトテールの前奏曲とか、J.S.バッハの無伴奏器楽曲とか、テレマンのファンタジーとか、ヴィルジリアーノやバッサーノのリチェルカーレとか、現代的なものであれば篠原真や広瀬量平のようなスタイルもあります。

言葉で書くのは簡単ですが、行うのは難しいです。

自分自身で作曲をしない演奏者であっても、訓練のひとつとしてこのようなアプローチは有効かもしれません。

共感(続き)

2014-11-28 | リコーダー奏法
演奏者自身が「俺は聴き手の共感なんか求めてるんじゃないわい、この曲がやりたくてやってるんじゃ!とにかくこの曲がやりたくて、やりたくてたまらんのじゃ!共感してくれるんなら、勝手に共感してくれ!別にしてくれんでも良いけどな」という姿勢であり、その姿勢に共感してしまう、ということも、あるかと思います。

ただし、こういうことをやっても許される奏者というのはどういう奏者かということを考えてみると・・・???

共感

2014-11-28 | リコーダー奏法
演奏が成功するか、しないか、ということはその演奏がどれだけ聴き手に共感してもらえたか、という点にある、と考えて見ます。

これはデリケートな問題を含んでいるように見えます。

演奏者が高い技術を備えているとか、あるいは優れた知識があるとか、そのようなことがかえって逆の効果を生み出しかねない状況があるかもしれません。もちろんそこにはそうなるだけの理由があるはずです。

だからといって技術がなければ楽譜に書いてある音符を音にすることすら出来ません。これでは演奏者としての出発地点に立つことさえ出来ていない状態です。

しかしたとえスタートすることが出来て、ある程度の演奏技術や演奏解釈や音楽理論について知識を身につけた状態であっても、それでも聴き手の共感を呼ぶことの出来ないようなそのような状況も起こっているように見えます。
かならずしもその奏者だけの責任ではないのかもしれません。もしかしたら原因は複数あるのかもしれません。

同じ曲を同じ演奏解釈で同じ奏者が同じ楽器を使って演奏しても、場所と時間が違えば全く違う反応があるかもしれません。
いずれにせよ何らかの原因が(しかも、多分、複数の原因が)あることは間違いありません。

ここで考えたいのは演奏者が彼自身をあまりにも自己否定しなくても良いような方策です。
聴き手の共感が得られないのは必ずしも彼自身の責任だけではない、そのような考え方もあって良いかもしれません。

ポピュラー音楽の場合には、そもそもこういう状態では演奏会そのものを成り立たせることは出来ないように見えます。聴き手の共感、それはそこにあって当然のことです。

しかしクラシック音楽の場合には必ずしもそうとは限りません。
なにかとても価値の高い芸術作品を有難く拝聴する、というような在り方があまりにも強いと、そこには共感よりも、何か事大趣味的な教養を受身の姿勢で待っているかのような風になってしまい勝ちに見えます。

聴き手の共感の薄さを、表面的な教養趣味のようなもので覆い隠しているというようなことであればそれは音楽本来の備える根源的な在り方から、遠くかけ離れたものです。

ここまで書きながらちょっとだけ、こわいことに気がつきました。

演奏者自身はその曲に共感しているのか、どうか、ということです。

演奏者自身がその曲に共感していないのに、聴き手がその曲に共感するはずはないからです。

演奏者というのは独特のポジションです。その曲を一番理解していなければならないのは演奏者です。
作曲者はおおかたの情報を紙に書けば、あとは演奏者がうまくやってくれる、ことを少しなりとも期待できますが、演奏者はそうはゆきません。

自分の演奏のよくないところは聴き手が補って聴いてくれる、というようなことは普通は起きません。
悪い音は悪い音としてその場の空間に鳴り響くだけです。

このような文章を書きながら思うことがあります。
もしかしたら、少しずつクラシック音楽とポピュラー音楽の境界線は壊れてゆくのではないかということです。

実際、壊れ始めているのかもしれません。

人は何のための演奏会に足を運ぶのか

2014-11-28 | リコーダー奏法
またまたリコーダー奏法とは直接関係のなさそうなことなのですが、少しだけ思うことがあるので書いてみたいと思います。

演奏会に足を運ぶというのは時間も労力もかかります。有料の演奏会であればチケット代もかかります。
ここまでして演奏会に足を運ぶというのは何か理由がなければなりません。

大きな理由はふたつ。

新しい何かを聴きたい、感じてみたい、ということがひとつ。

そしてもうひとつはすでに自分の知っている何かを確かめたい、ということ。

このふたつのうち、少なくともひとつを満足させることが出来れば演奏会としてはあらかた成功したと言えるかもしれません。ふたつとも満足させることが出来れば大成功だと思います。

まずひとつめの「新しい何か」ですが、これは言うは易し、行うのは難しいかもしれません。演奏ということであれば、新しい演奏解釈ということになりそうですが、これは簡単なようでいて、さほど簡単ではありません。新しいだけの解釈だけならなんとか実現できても、その解釈が聴き手にとって受け入れられるものであり、なおかつ新鮮な喜びを提供できるとは限りません。

ふたつめの「すでに知っているものを確かめたい」ということ。
これは音楽に限らず、もっと大きく捉えることが出来るかもしれません。

「生きてて良かった」とか、そのようなこととも通じるかもしれません。これも実は簡単なことではないのかもしれません。

頭だけでただ、知識としてわかっていることと、身体全体と心が全体として心底、感じることとは別なことだからです。
言葉だけで「生きてるって素晴らしいよね」と書くのは簡単ですが、それとこれとは全く別のことです。

もしかしたら、良い演奏には聴き手をしてそのように感じさせる何かがあるかもしれません。
それはもしかしたら数限りない演奏を聴いて、ひとつあるかないか、そのように稀なことであるかもしれません。

私自身は「新しい何かを提供する」ということに関してはあまり前向きに捉えられないのです。今のところは。
作曲者や演奏者が「これは新しいだろう」と思ってやることは、実は多くの場合、新しいことでも何でもなくて、過去に行われたことの焼き直しであることが多いからです。

しかも新しいという価値しかなさそうなものはいずれ古くなってしまうと価値がなくなります。

ということは・・・・・・・多分、もしかしたら、聴き手は本当は新しいだけのものを求める、ということには本当はさほどの価値をおいていないのではないだろうか・・・・

聴き手が本当に求めているのは自分が常日ごろ思っていること、考えていることを抽象的な形ではありますが、それを音という形で確かめたい、そのようなことだとしたらどうなるだろうか、このようなことを考えます。