吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

新しいリコーダーの慣らしについて(技術的な事柄)

2016-06-30 | リコーダー奏法
生徒さんが新しい楽器を購入、慣らしのアドバイスのメールから転載してみます。

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ならしは約1ヶ月~2ヶ月が目安。
まず一番低い音域を長い音でクレシェンドしたりデクレシェンドしたり、いろいろな息の強さで音を出します。
低い音域で「ひっくりかえる」ギリギリのところまで強い息を吹き込めるクセをつけてゆくことが大事です。
頻繁に「ひっくりかえる」」と「ひっくりかえる」クセが楽器についてしまいますから要注意。

ただし、「ひっくりかえる」ことをしてみなければ、どこまで吹き込んだら「ひっくりかえる」のか、その加減がわかりませんから、なるべく回数が多くならないようにして何回かそれぞれの音についてひっくりかえることをやってみることが必要。(やりすぎは絶対ダメです)

ならし期間中は高い音域で強い音を出すということはあまりしないのが良いです。
1日10分から開始して、2週目は15分、3週めは20分、4週目は25分というようにだんだん時間を長くしてゆきます。
1ヶ月を越した時点である程度長い時間、音を出しても大丈夫ですが1回につき1時間以内に抑えるようにします。
2ヶ月を超えた時点では連続2時間くらいまでだったら音を出しても良い程度にまでならされて来るはずですが、
ならし期間中であっても、そうでなくても、絶対にやっていけないのはウィンドウェイに水がたまったまま音を出すことです。
これをやると、楽器にものすごく悪いクセがついてしまいます。

新品の楽器で高い音を出す際にも要注意です。
「頑張って」強い息でなければ高い音が出ないようなクセがついてしまうことがあります。(奏者にも楽器にも)
ならし期間中は低い音域から始めますが、ある程度の時点で少しずつ高い音もまぜてゆきます。
その際には絶対に「頑張らないで」楽に出すことが大事です。
ということはいきを入れる前の段階において、指(とくに左親指)、息のスピード、方向、タンギングについてのイメージが明瞭になっていることが必要です。

フレーズの終わりのピッチ(技術的な事柄)

2016-06-29 | リコーダー奏法
リコーダー演奏の際に問題になりやすいことのひとつにフレーズの終わりをどう処理するのか、ということがあります。ここではピッチに焦点をあててみました。

フレーズの終わりのピッチの処理の方法は3通り。

*ピッチが下がらないように終わらせる
*ピッチを下げて終わらせる
*ピッチが下がっているのか、それとも下がっていないのか聴き手に判然としないような状態で終わらせる

この3通りです。
これらを具体的にどのような方法で実際の演奏に適用するのか、ということについては吉嶺音楽教室のレッスンで生徒の皆さんにお伝えしようと思います。
ヒントはその曲がどのような様式に属する音楽なのかということです。ただし、ひとつの様式のなかにもその中でさらに細かいレベルの様式に分かれますから、そのあたりのことは感覚だけで捉えるのではなく、ある程度の学習が必要になります。

両極端な表現

2016-06-26 | リコーダー奏法
たとえば全然、スライドとか、シェードというような技術を使わないでどこまで表現することが可能なのか、あるいはその逆でなるべくそれらの技術を多様してどこまで可能なのか、あるいはまた、なるべくヴィブラートを多様するという方向、そしてその逆、というようにふたつの相反する方向でひとつのフレーズを演奏してみるとします。これは意味のあることではないでしょうか。

それらのことを試すことによって自分自身の技術の限界が見えて来るからです。

楽器を操作する技術と音楽とは別個のものではなく、密接不可分のものであるとするならば、どんなに熟達した奏者であっても伸びしろがない、ということはありえない。
別の言葉で言うならば、音楽的な表現能力が向上するということはその奏者の演奏技術が向上することと一体化している。

どんなに経験が豊かで熟達しているようにみえる奏者であっても。
以上のようなことを考えてみました。

まとめ:
*ひとつのフレーズをどのように演奏するか、ということについてはたったひとつの正しい答えがあるわけではないということ。

*熟達した奏者であっても演奏技術に関して向上する余地は常に残されているということ。

*様々な要素をひとつ切り口として取り上げて、その点においてなるべく両極端な方向で演奏できるように自分自身を訓練してゆくこと。(たとえば「テンポ」ということをこの切り口にしてみると、自分自身の技術の限界がかなりはっきり見えて来ます。速くするだけではなく、遅くする方向であってもやはりそこで自分自身の限界があることがわかります)

テナーリコーダーのキー

2016-06-26 | リコーダー奏法
たとえばテナーリコーダーのキー、あれば便利なものと思いますが私自身はなるべくキーのない楽器を演奏するようにしたいと思っています。
キーがないほうが指の穴を直接、制御することが出来るので最終的にはそちらのほうがずっと楽なのです。
このあたり、奏者によって様々な意見があるところだと思います。
でもリコーダーはリコーダー。
リコーダーにふさわしい表現、そうでない表現。
それをどこまで自分自身のなかでどのように設定するのかということ、このあたりのこと、なかなか微妙で面白い問題です。
たとえばどこまで、どのような条件であればピッチを保ったままのディミヌエンドを可能とするのか、不可能とみなすのか、という問題。

息と指のコンビネーションの技術はそれぞれの奏者によって異なりますから、一概に決めることが出来ない場合があります。ある奏者にとって非常に難しい技術が、他の奏者にとってはいとも簡単に実現できてしまう場合があります。

楽器の演奏技術は基本的なものはある程度、確立されているように見えますが、発展的な事柄についてはその時々の演奏技術の進歩の度合い、あるいは流行によって変化しますから、どのような在り方が自分に一番ふさわしいものなのか、見極めることは重要です。

かならずしもその時、流行しているように見える奏法がその人に向いている奏法であるとは限りませんし、ある程度、熟達している人で、技術的にはもう伸びしろが少ないように見える人であっても新しい技術を習得することによって、表現の幅がより大きくなることもあります。

テナーリコーダーのキーひとつとってみても、これを利点とするのか、それとも不利な点とみなすのか、それぞれの奏者によって異なる立場があるはず。立場が異なるのであれば、それぞれの立場を最大限に活かした奏法があって良いはずです。

楽器と奏者で9割、機材の質はあとの1割(技術的な事柄 覚書)

2016-06-23 | 音楽制作覚書
楽器と奏者で9割、機材の質はあとの1割というのが偽らざる感じだ。
少し前まで良いマイク、マイクプリアンプがあればそれなりに良い録音が出来ると思っていた。思い込んでいたのだ。多分。

全然、そんなことはなかった。
元の音がダメならばやっぱりダメな音なのだ。

様式なんかどうでも良い

2016-06-21 | リコーダー奏法
様式なんかどうでも良い、と私の生徒が言いだして、滅茶苦茶な演奏し始めたら私はそういうものを受け入れない。。。。と思います。多分。。。。

しかしながら自分自身が何かを演奏する時は「どうでも良い」とまでは行きませんが、なんとなくそれに近い感覚があります。
このあたりのことはなかなかす~っときれいに説明できないのですが。。。
かなり本音に近いところを書いてしまうと、作曲者の意図でさえ、変更してしまいたくなることも多い。で、実際に意図的に変更します。

これは私が作曲をやるということとも関連する。
楽譜などというものは制約のかたまりであって、作曲者の意図が十全に示されているとは到底、言いがたいから。

さて、良い演奏と、滅茶苦茶な演奏って全然、異なるもののように思えます。普通はそういうことになっています。でも人が何かを滅茶苦茶にやろうとしても、その滅茶苦茶さには限界があるはず。

人は限界に直面すると個性が出る。
ということであるならば、何かを滅茶苦茶にやろうとして、そのギリギリのどうしようもない地点でかなり強烈な必然性を持ってその場に立ち現れる滅茶苦茶さ、というのはその人の本当の個性とかなり近いところにあるのではないだろうか。。。。。

そんなことを考えます。

教室の生徒諸君が何も考えずに、目の前の曲をただ単に滅茶苦茶にやったら、それは音楽にならない。でも目の前の曲ではなく、たとえば何も条件がない時点での即興とか、そういうことであるならば滅茶苦茶はそのまま個性につながる可能性あり。。。

普通は滅茶苦茶、って悪い意味にとられます。
でも本当にそうなのだろうか?

この間アップロードした私の録音では感想に「そのcrazyness」について言及がありました。
それは日本語でいうと狂気ということになります。
それは表現の世界では最高のほめことば。

普段のレッスンは愛好家の皆さんが趣味で楽しむだけの場です。それはそうなのです。
でも音楽の深みには聴く者をして、あるいは奏する者をして、狂気の世界をかいまみさせる、そのような側面があることは否定できない。趣味であっても仕事であっても音楽の世界そのものが備えている本来の在り方から目をそらす必要はないはず。

なぜならばそれは人間という存在が本来、そのようなものだから。。。。
そういう側面から目をそむけた表現というのは表現以前。。。それこそ本当に単なるお稽古事。

様式って非常に大事なことです。
でも、何故、それが大事かというと、様式の壁があるからこそ、演奏する人はそれを守ろうとして、あるいはまたそれを打ち破ろうとして必死のチカラを振り絞るわけですよね。。。。。
先生から教えてもらった「様式」をただ表面的に守るだけなんて、それほどつまらないことはない。。。

守るのは大変なのに、打ち破るのもやっぱり大変。。。。

それならば滅茶苦茶にやってみる。。。。でも大抵、ほとんどの場合、こういう試みは失敗する。。。。それは9割かた、説得力のあるものにはならない。
でも残りの1割に何か、将来性のある芽があるとしたら。。。。。。???

何かの楽器を持ちながら、その楽器で滅茶苦茶な音響をあるいは音楽らしきものを即興的にやろうとしても、その滅茶苦茶さには限界がある。
その限界にその人の個性が隠れているとしたならば、それを活かさない法はないはず。。。。

演奏と作曲って普通に思われているほど遠い距離にはない。
その両者を結ぶのは即興。
その3つにどうやってその人自身が向き合ってゆくのか。。。。???

センセイショナルな表現。。。

2016-06-19 | リコーダー奏法
センセイショナルな表現。。。このような言葉を耳にするとなんだかあまりよろしくない意味に感じられるのかもしれませんが、現代の音楽がその表現要素のひとつとして感情的な、あるいは感覚的な側面を含むことを考えるならば、聴き手の感情、感覚にまったく訴えることのできない音楽は、少なくともその点においては弱い。

このように考えられるのかもしれません。

もちろん音楽には構造そのものの美しさという側面もあるのですが。。。

無伴奏クルムホルンリサイタル///

2016-06-18 | リコーダー奏法
クルムホルンという楽器があります。
1オクターブと2音くらいしか音域のない楽器で強弱もほとんど出ません。楽器の機能性という点ではリコーダーよりもはるかに制約の多い楽器です。

このようなものを使って、まったく残響のない空間で休憩なしの60分の演奏会をやってみることが出来るだろうか?

という設問があったとします。聴き手は普段からバロックやクラシック、あるいは現代の音楽にある程度したしんでいて基本的な西洋音楽の文脈は理解している50人程度の皆さん、という設定にしてみます。

今の私ではこのような状況ではふさわしいプログラムを組むことができません。
クルムホルンという楽器のための無伴奏のレパートリー、それに関する知識、というものがないし、クルムホルンという楽器で現代人の耳に訴求力のあるような音楽というものを私には想像することが出来ません。

あるいはまた「プロのクルムホルン奏者」という在り方を想像することが出来るのかどうか?

楽器の性能に、自分の想像力のなさの原因を求めるのは簡単ですが、本来、楽器の性能と、作り手の想像力とは別々の事柄のはず。何年も音楽に携わって来ていながら、自分の想像力の程度に直面します。

あるいはまた、ピッコロとチューバのための15分程度の二重奏曲。
こんなものを作ることが出来るのかどうか?

確かな想像力の備わった作り手ならこんなことでも可能なはずなのです。

自分自身があることを実現できない理由を、楽器の性能や、編成のせいにしたくなることはあるかと思います。
しかし、このような設定でも何か、面白いことが出来ないかどうか、自分自身に問いかけてみるのは、やはりこれも広い意味での「練習」のひとつになるはず。

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人は何を求めて演奏会に足を運ぶのだろう?
このこと、よく考えます。
ただ、音楽を聴くだけならばCDとか、そのあたりにある録音物でも良いはずなのです。

でもやはり、演奏会というものがあって、数はそれほど多くないかもしれないですが、演奏会に足を運ぶ人々がいるという事実。

音楽って、音楽だけで成り立っているのだろうか?

最近、そういうことをよく考えます。確かに音楽は音楽で成り立っている。それはそうなのであります。
しかしながら、生の演奏であれ、録音であれ、楽器を演奏するのは人間なのであって、人間ひとりが生きているということは、御飯をたべたり、眠ったり、仕事したり、勉強したり、素敵な人をみたら「ああ、素敵!」と思ってみたり、それはそれはいろいろなことを経験しながら生きているはずで、演奏者だから朝から晩まで演奏だけで成り立っているとか、そういうことではありません。

音楽家だから、その人の中身は音楽だけがギュウギュウに詰まっているのか、というとそういうことではない。

やっぱり生の演奏でなければ実現できないことが確かにある。
そのように感じます。録音でもある程度のことは伝わるのですが、生身の人間がその空間で、同じ空間で、聴き手と同じ時間を共有することによってでしか実現できないあること。

もしかしたら、それは純粋に音楽的なことばかりではないのかもしれない。

音楽って音楽を超える。

それは私などにはよくわからない。でも音楽が普通の音楽程度にとどまっているのだとしたら録音みたいなもので十分なのかもしれない。でもやっぱりそれだけではどこかに満たされきれないものがあるからやっぱり演奏会みたいな形というものがそこにあるのでは。。。

歳とって来ると、生きるのが難しい場面もあります。
生きるのって簡単なことばかりではない。いろいろあるから。。。

簡単に「癒し」の音楽なんて言いたくない。なぜならば一般に出回っている「癒しの音楽」は少なくとも、それは音楽の形態さえ整っていないような、表面的にきれいなだけのものでしかないから。

でも、「癒し」の音楽ってもしかしたら存在できるのかもしれない。
それは今、ある「癒しの音楽」とは似ても似つかないものかもしれないけれど。

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演奏者のやるべき仕事

演奏者は演奏していれば良い。
これはひとつの在り方。

演奏者は演奏だけではなく、曲の間の語りとか、演奏会そのものの企画、制作までそのプロジェクト全体を作るのが仕事。
これもまたひとつの在り方。

このように考えてみると、「演奏者であること」というのは同じ言葉でありながら、その内実は非常に大きく異なります。
その時代、それぞれの演奏者がそれぞれ置かれた立場によって、この在り方は違って来るはず。

その人にとってやるべき仕事とは?



誰に聴いてもらいたいプログラムなのか

2016-06-18 | リコーダー奏法
誰に聴いてもらいたいプログラムなのか、ということを意識しながらプログラムを作るのは大事なことだと言われます。それはその通りかと思われます。

しかしながら誰を意識するともなく、自分自身が好きで好きでたまらない曲というものがもしあるのならば、それを演奏したいと思うのは演奏者として自然なことであるはず。
それが現代の音楽ビジネスのなかで価値を生み出すものなのか、どうか、ということはまた別のこととしても。

なんだかいろいろな領域で、「うまくやってのける」のがとても良いことのように言われる風潮があるとしたら、それはそれ、これはこれ、と割り切ることも必要。

必ずしも「うまくやってのける」ことが必要でない分野もあるからです。
「うまくやってのける」ことが必要不可欠ならば、クラシック音楽の流れをくむ作曲者諸氏はみんな落第ということになりはしないでしょうか。

好き嫌いが激しいのは、演奏者としての弱点かもしれませんが、もしかしたら強みでもあるかもしれません。
逆もまたしかり。

本当に心の底から、演奏したい曲なのか、どうか、ということ。。。。
限られた残りの時間のなかで自分を削り落としながら、それでも演奏したい曲なのか、どうか、ということ。

すでに聴こえているものを音にするだけ

2016-06-18 | リコーダー奏法
たしか、ストラヴィンスキーだったかと思います。
「作曲というのは聴こえて来るものを楽譜に書くだけの作業」と言ったのは。

演奏も似ている側面があります。
その時の自分自身の演奏技術、知識、理解などによる制約はもちろんあるのですが、その制約のなかであっても、楽譜を見ながら聴こえて来る音があります。

演奏というのはそれを実際の音にするだけの手続き、と考えるならばそこには「ひらめき」とか「インスピレーションが降って来た」というようなわけのわからぬ段階をすべてなくすることが出来ます。

なるべく自分自身がやろうとすることをいったん、単純化してみることによって何が生まれてくるのか、それをじっと観察してみること。これもひろい意味での「練習」と捉えることが出来ます。

そこでは実際の楽器を手にすることさえ必要ではありません。(初心者の人は真似しないでください。初心の人はまず楽器を持って、音を出して、楽器自体に慣れることがまず練習の第一歩・・・・・)

ということは。。。。。

ひとくちに「練習」とは言ってもその演奏者の段階によって、何が「練習」なのか、ということはまったく別の事柄で在り得るということになります。