吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

華麗対位法による2声部の音楽

2015-04-16 | 音楽制作覚書
厳格な対位法の実習のなかには定旋律を使わないで書くというものがある。

2声部だったら、そのどちらの声部も華麗対位法の様式によるものであり、その場合は定旋律を使わないので、全ての声部を自分自身で書くことになる。

このような在り方を即興で作ってゆく、そんな方法があるはずだ。

ここにかつてバッハを生み出したに違いないヨーロッパ音楽の想像も出来ないほど豊かな流れがあるはずだ。

それは2015年の今、バッハとは遠く離れた日本で新しい音楽を作るために全く無関係とは言えないはずだ。
バッハの音楽をそのまま、真似ることは出来ないにしても、バッハが目指した方向を目指すことは出来るはずだ。

即興演奏に秘められたヒントは大きい。
そこから聴こえてくるものが伝統的な西洋音楽とは遠くかけはなれたものであっても。

何故なら、今、生きるから。
2015年の今、生きてるから。
ここで。


ぬけがらみたいになっちゃったストラヴィンスキー

2015-04-16 | 音楽制作覚書
ストラヴィンスキーってもしかしたら例の3大バレエ作品を書き上げたあと、ぬけがらみたいになっちゃったんじゃなのかな。
もしかしたら彼が目指したもの「原始主義の音楽」みたいなものはひとりの作り手が一生かけて追求するほど豊かな源泉とは成り得なかったのだろうか。

でもそういうこと、どうでも良いじゃないだろうか。

だって彼自身は少なくとも3つも、彼自身のある時期を代表する作品を歴史上に残したわけだもの。

その後、ぬけがらみたいになっちゃったんだろうか。

それも良いんじゃないか。

ロッシーニとか、シベリウスとか、生涯のある時期から書かなくなった作り手も結構多いんじゃないだろうか。

もう豊かな源泉があるとか、ないとか、そういうことどうでも良いような気がして来た。

ただし、何かを作るということは、すなわちあるひとつの様式に作り手である自分自身を閉じ込めること意味するわけだ。

ということは、当然、自分がその様式を通して表現できる音楽的情緒と、そうでない情緒は区別する必要があるということになる。

バッハみたいなポリフォニーに関する感覚とか、即興演奏の能力がない以上、バッハみたいな曲は作れるはずもない。
しかし、バッハみたいな曲だけが音楽だというわけじゃない。
道がないわけじゃない。


巨大な呪縛

2015-04-16 | 音楽制作覚書
生きていくっていうのは巨大な呪縛から逃れる過程のことなんじゃないだろうか。
それはバッハだったり、ブリュッヘンだったり。

でも逃れるためにはまずその呪縛にいったんかかってしまうことが必要だ。
でなきゃ逃れることさえも出来ない。

逃れようと必死になってなけなしの頭を使うことさえ出来ない。

破綻した演奏

2015-04-16 | 音楽制作覚書
即興演奏が必ずしも破綻するわけではない。

しかし即興の途中で音楽的にあきらかに破綻しているように聴こえる瞬間には、やはりここにもとんでもない豊かな可能性が隠れているのではないだろうか。

何故ならば、聴き手はこの瞬間に演奏者が実現しようとして、実現しきれなかったもののあいだにある断絶を実際の音というかたちで認識することが出来るからだ。

これは作曲者の手書きの楽譜のなかの「間違い」に時として、大きな演奏解釈上のヒントが隠されていることと似ている。

自分自身の、あるいは他者の「間違い」からどれだけ豊かな可能性を見出すことが出来るのか、どうか、このあたりのところに注目してみたい。

演奏者がめざすべきところのひとつ。
それは破綻するのか、しないのかギリギリのところを追求するということだ。

楽譜を使って音楽を演奏する演奏者の場合には、それなりのクオリティを備えた楽曲に挑戦するということ。破綻の危険を自分自身の責任として課しながら。

即興で演奏する演奏者の場合には、やはり破綻するのか、しないのかギリギリのところまで自分自身の表現を追い詰めるということ。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

バッハが残した膨大なポリフォニック器楽作品。
彼はそれらのものをまるで彼自身が即興演奏するかのような形で生み出していったのではないか?
このように考えることも可能なはずだ。

だとしたら即興演奏の可能性というのは果てしなく大きい。

バッハみたいな音楽にはならない。というよりもバッハみたいになる必要ない。
バッハはひとりで十分だ。

でもバッハが目指したところをおなじように目指すことは可能なはずだ。
それこそが今、生きて音楽を作っているたったひとつの意味なんじゃないか。

即興演奏

2015-04-16 | 音楽制作覚書
もしかしたら、即興演奏という在り方には、とんでもなく豊かな可能性が隠れている。

聴き手の注意を引き付けることなど・・・

2015-04-16 | 音楽制作覚書
聴き手の注意を引き付けておくために必要なことのひとつは次の瞬間に何が起きるのか予測不可能という状態を継続することである。

そのためには定量記譜ではなく不確定な記譜のほうが断然、有利に働く状況があるはずである。

聴き手の正直な気持ちとして「知らない音」「聴いたことのない音」を聴いてみたいという気持ちがあるはず。

それを拡大解釈するならば「知っている曲であってもそれを今まで聴いたことのないような解釈で聴いてみたい」という気持ちにも通じるはずだ。

新しい曲であればもちろん「新しい音色」を聴きたいという気持ちに加えて「新しいタイミング」あるいは「今までに聴いたことのないような新しい展開」というようなこともあるはずだ。

そのためには既存の曲をあたかも即興しているかのように演奏するという方法、あるいはそのものずばり、その場でいきなり即興演奏してしまうという方法もある。

ただしこの場合の即興演奏というのにはもちろん事前の準備のある即興ということも大きな意味での即興演奏に含まれるものとする。

ということならば「演奏」という行為は既存の楽曲を演奏するということから、いきなりその場で即興するということまで非常に幅広い在り方があるということになる。

まとめ:

*聴き手はそれまでにその聴き手が聴いたことのないようなものを聴いてみたいという欲求がある。
ということはそれに応えられるような楽曲、あるいは演奏があれば、それはその聴き手の欲求に合致したものであるということになるはず。

*ただし聴き手にはそれぞれの好き嫌いまたは洗練の度合いの違いがあるはずで、全ての聴き手を満足させられるようなものは非現実的。

*周囲の聴き手に受け入れられずとも、その音楽は存在する意味がないとはいえない。なぜならばその音楽はまだ聴き手に出会っていないということも在り得るから。

*ただし聴き手、あるいは演奏者に出会う地点にその音楽を運ぶまでは作り手の仕事。

補足:

*聴き手には多かれ、少なかれ、演奏者がその場で破綻しそうになるぎりぎりのところで何かやろうとしているところ、つまり、こわいものみたさ、というような心理がある。
これは現実の生演奏だけではなく、そのようなものが反映された録音物に対しても同じ。