新しいリコーダー奏法

吉嶺史晴によるリコーダー奏法解説ブログです。上達してゆくための全般的な考えかた・生き方のヒントについても書いています。

成熟の道を

2022年05月23日 | 全般的な事柄
例えばバロック期の曲を演奏する際に、通奏低音のパートだけになる箇所があったとして、そこのテンポがそれまでのテンポと異なってしまった場合、音楽の流れが変わってしまいます。

それまでの流れよりも、もっと良くなれば最高です。

しかしながら、それまで良い流れで来たものが、そうでない方向にゆく場合は残念なことになります。

なのですが、残念なことがその時には起きたとしても、残念な状況がそのまま続くか、どうかは、演奏者次第です。

音楽的な感受性の鋭い奏者であれば、あるほど、このようなことには敏感です。
残念な状況がいったん起きてしまえば、そのことにより影響を受ける度合いも大きいかもしれません。

逆に鈍感な奏者はちょっとした違いなどにはさほどの影響を受けないので、演奏の途中で何が起きても傷ついたりすることは少ないかもしれません。

アンサンブルはうまく行く時には楽しいものですが、そうでない時もあります。
状況の良い時にはそのまま進めば良いのですが、要はそうでない時です。

そうでない時にどのような在り方で居られるのか、どうか、という点にその奏者の成熟度が如実に示されるのでしょう。


成熟した演奏者は大人っぽいです。
大人と子供の違いは何だろう?

と、ここ数日、ずっと考えています。

列挙すれば沢山出てくるはずですが、とりあえず、今の時点で言えるのは次のようなことを考えてみました。

大人の条件:
*自分の置かれた状況を客観的に、俯瞰的に見ることが出来ること
*その状況があまり良くない時であっても、途中で投げ捨てないで、そのなかでなんとかチカラを尽くそうと出来ること

演奏の場合、とくにアンサンブルの場合には、出来上がって来るテンポや表情がアンサンブルのなかの奏者の理想的な形で出て来ることはまず有り得ません。

なので、アンサンブルの奏者は曲の最初から最後まで予期できないことは起きるものだ、という構えで居るのが良いです。

その点から言っても、「練習でやったことをよく覚えて、そのまま表現する」というような形だけでは、アンサンブルは成り立ちません。

まだまだ学びが続きます。

コミュニケーションの相手

2022年05月17日 | 全般的な事柄
コミュニケーションの相手は人間とは限らない、と考えてみます。

そこには楽器というようなものがあっても良いという立場にたってみます。

とすると「楽器を操作する術」のことを「演奏技術」と呼ぶならば、それはなんだかおかしなことになります。

何故ならば「コミュニケーション」と「相手を操作する術」とは違うからです。

世間一般に、コミュニケーションの上手な人も居ます。
そうでない人も居ます。

でも、そうでないからといってそれが一概に悪いということにつながるとは限りません。

そもそも上手、とか下手、とか、それはどのようにして決まるのでしょうか。

「演奏技術」が単に「楽器を操作する術」のようなものであるならば、これほどつまらないことはありません。

重要な視点の一つ

2022年05月17日 | 全般的な事柄
重要な視点の一つは、「奏者」と「聴き手」とを音楽的に開放してやることである。

作曲・即興演奏・解釈という三つの作業は、相互に通い合うものであって継ぎ目のない状態をなすのみか、互いに充たし合うものでさえある。

人間は誰でも、行動・思考・知覚をすることで、最も日常的な意味における「作曲家」なのだ。

M.フェッター著「しじまの音 あるいは音楽は精神の身体語」より

一般的に「聴くに耐えるもの」だけを聴きたいという思い

2022年05月16日 | 全般的な事柄
一般的に「聴くに耐えるもの」だけを聴きたいという思いが、その奏者の表現をどこかで矮小化してしまっているのではないだろうか?

奏者と言えども、普段の暮らしのなかで聴き手であることは避けられない

いや、演奏のさなかであってさえも、彼は自分自身が出す音の聴き手でもある

「美しいもの」と「醜いもの」の間にある根本的な違いは?

そもそもそのような違いは本当にあるのだろうか?

音楽家は自分にしか分からない複雑怪奇な文字の類をひけらかす

2022年05月16日 | 全般的な事柄
音楽家は自分にしか分からない複雑怪奇な文字の類をひけらかす。

自分の手職の演奏技法をひけらかす。

あたかも音楽がそれとは不可分ででもあるかのようにふるまう。

そうして苦しむのは彼ら音楽家と他の追随者たち。

だが、その彼らを音楽は笑う。

音楽がうすのろで、曖昧模糊たるものであればあるほど、手風琴やハーモニカでわけなく法外な金が稼げる。

いや、そもそも本当の音楽家は、現在そこに展開する事象にただ純粋に耳を傾け、音を聴くの余り、所有の観念など忘れてしまう、真の観察者なのだ。

M.フェッター著「しじまの音 あるいは音楽は精神の身体語」より

沈黙から

2022年05月15日 | 全般的な事柄
沈黙からかすかに風が立ち、はっきりと耳に立つ呼息となる、

息吹、気息はそれとなく凝集してやがて、ささやき、声、高声となる。

いくつもの声がそれぞれ思い思いに乖離し

様々に道草を食いながら、ふたたび合してささやきとなり、風となり、風声寂滅となる。

沈黙。

M.フェッター著「しじまの音 あるいは音楽は精神の身体語」より

自明なるもの

2022年05月15日 | 全般的な事柄
自明なるものがもはや何一つないとすれば、記譜されざるものを奏者個人が形象してみる、といった観点に立って考えた場合、書かれざる制限・拘束というものもまた、もはや存在するはずがない。

結果はこう言えよう。
そもそも、いの一番に作品想像に与るもの、つまり共同制作者という観点に立ってみれば、解釈者にも、解釈者自らのためにとっておかれた演奏空間をうち開く可能性というものが残されていると。

しかもそれは解釈者自らを原作者たる作曲家に勝るとも劣らない存在たり、と認めて止まない或る種の方法をもって然りなのである。

作曲家の方は、自分の役割を演奏空間の編成にのみ限定し得る。

記述されたもの、記述されざるもの、両者相互の関係はこのようにして逆転する。

M.フェッター著「しじまの音 あるいは音楽は精神の身体語」より

思考停止

2022年05月12日 | 全般的な事柄
ある程度まで経験を積んで来た奏者が、歴史的な演奏を追求する時に陥りやすい思考停止は「**の文献にこう書いてあるからこうする」というような在り方をどんどん自分のなかに沢山取り込んで、それから離れられなくなること。

古い曲ではなく、比較的時代の新しい曲を演奏する場合であっても「ピッチは合っていなければいけない」とか「縦の線は合っていなければならない」とか「主旋律は伴奏より大きく聴こえなければいけない」とか、そのような事柄が足かせになってしまう場合が多いです。

いろいろな「**はこうあるべき」が積み重なり、それらから離れられなくなると、勉強すればするほど、練習すればするほど、経験を重ねれば重ねるほど、つまらない演奏しか出来なくなります。
(経験の少ない奏者はこの限りではありません。まずは基礎的な技術と様式を身につけることに主眼を置くこと)


J.S.バッハの曲に指のヴィブラート

2022年05月12日 | 全般的な事柄
J.S.バッハの曲に指のヴィブラートをつけても良いのか、どうか、という議論があったとします。
私自身は「バッハはイタリア様式とフランス様式の統合だから指のヴィブラートがあっても良い」と考えます。

でももっと考えてみると、「どうでも良い」というのがその答えの最終型になるのでは。
それは、それぞれの奏者が好きにやれば良いわけで、結果として良い演奏が出来てくればそれで良いわけで。
(初級、中級の人はまず基礎的な事柄を学ぶ必要はあるのですが)

そもそも、古い音楽の演奏実践を考えるために「古い文献の**のなかに***このような記述があったから」というのは一種の思考停止とも言えるからです。

クヴァンツはこう書いている、とかオトテールはこう書いている、とか、ガナッシはこう書いている、などと言うのは簡単です。
でも、そういうことよりももっと高い次元でよりよい演奏を実現するのは簡単ではありません。

バロック時代のヴィブラートを研究するためだけに一生を費やすわけにはゆきません。

ある時期までは歴史的な奏法の研究や演奏実践が刺激的かつ興味深いことでした。
それまでやったことのないことや聴いたことのない音響を刺激的に感じるのは自然なことです。

でも刺激というのは時間がたつと、それはもう刺激としての役割を果たすことが出来ません。

今、リコーダーをとりまく状況で何が起きているのか、ということを少し考えてみます。

もう歴史的に忠実な演奏スタイルの追求という在り方は、袋小路にたどりついているのでは。

何故ならば、40年前にはセンセーショナルであったはずのこのような在り方は、今、多くのモダン楽器(このような単語も今となってはナンセンスに響きます)奏者に浸透して来ているからです。

バロックのスタイルの楽器を使ってバロックの音楽を演奏するということはもはや、それだけではかつての意味を持つことは出来なくなって来ています。

リコーダー奏者にとって、オリジナルピッチのシングルホール、オリジナルのフィンガリングのような楽器を持つのは嬉しいことです。
でも、それで良い演奏が出来るのか、どうか、というのはまた別のことです。

古楽器奏者とか、モダン楽器奏者という区別がだんだん意味をなさない時代になりつつあるのでは。

この先生の素晴らしさを知っているのは、あまたある弟子のなかで私ひとりだ

2022年05月11日 | 全般的な事柄
「この先生の素晴らしさを知っているのは、あまたある弟子のなかで私ひとりだ」
という思い込みが弟子には絶対必要です。



それは恋愛において恋人のかけがえのなさを語る言葉が「あなたの真の価値を理解しているのは、世界で私しかいない」であるのと同じことです。

この先生の真の価値を理解しているのは、私しかいない。

でも「あなたの真価を理解しているのは、世界で私しかいない」という言い方は、よく考えると変ですよね。

それは「あなたの真価」というのは、大変に「理解されにくいもの」であるということですから。

つまり、あなたは、誰もが認める美人や人格者ではないということですから。

不思議な話ですけれど、愛の告白も、恩師への感謝の言葉も、どちらも「あなたの真価は私以外の誰にも認められないだろう」という「世間」からの否定的評価を前提にしているのです。

でもその前提がなければ、実は恋愛も師弟関係も始まらないのです。
「自分がいなければ、あなたの真価を理解する人はいなくなる」という前提から導かれるのは次の言葉です。

だから、私は生きなければならない。


内田樹 著「先生はえらい」より