吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

ちょっと季節はずれですが

2018-08-31 | 日常雑記
テナーリコーダー独奏曲 「桜」"Sakura" for tenor-recorder solo (2012) Fumiharu Yoshimine


ちょっと季節はずれですが以前、作曲した「桜」という曲を練習しています。
この曲を作ったのは2012年、6年ほど前です。

ついこの間のことみたいですが6年なんてあっという間にたってしまうのだ、と実感します。

小学校の頃は1年生の頃から6年生の頃までとても長く感じたのですが、この頃は時がたつのがやけに早いです。

テナーリコーダーの新しい可能性が少しでも広がって、新しい世代のリコーダー奏者たちが受け継いでくれたら、なんてそんな夢みたいなことを思っています。

もう8月も終わって、明日から9月です!

肩書きのこととか、いろいろ

2018-08-29 | 日常雑記
自分はどんな肩書きなのだろう、と時々思うときがあります。

リコーダーを演奏するのでリコーダー奏者ではあるのですが、音楽理論のレッスンをしたり、楽譜制作や販売もしてみたり、演奏会の企画などもするので、それもひっくるめて、リコーダー奏者なのかなあ、と思ったりします。

以前「芸術家としての品位」という言葉をもらって、有り難いと同時になんだか息が詰まりそうになったことがありました。

芸術的な音楽は素晴らしいものなのですが、そうではないとされる音楽もやっぱり良いものは良いです。

そもそもリコーダーという楽器のレパートリーの中心となるバロックの音楽は主に当時のアマチュアの方々が楽しむために作られたものなので、「芸術家としての品位」というような考えかたは素敵ですが、必ずしもそぐわないのでは、という感じもあります。

最近は「庭の千草」とか「サリーガーデン」のような旋律を素朴な音で歌ったり、奏でているところにとても惹かれます。

いわゆる芸術的ではないとされる音楽の良さにココロが向きます。

自分が何か演奏する時には「上手なんだか下手なんだかわからないような」そんな演奏できたら良いなあ、なんてそんなことを思っています。

より具体的には、いわゆる乱れた感じの音を出すということなのですが、「乱れてしまったのか」それとも「乱れるような音を出そうと思ってそうしたのか」ということで大きな違いがあります。その辺りのところをもう少し、追求できたらまだまだ面白い表現が出来そうな予感があります。

普通は有料の演奏会のような場合、「乱れた音」というのは排除されるべきということになっているのですが、本当にそうなのかな?

そのあたりの点をいろいろ考えたり、実験したりしています。

まだまだ暑い日、続くので勢いつけてリコーダーとヴィオラ・ダ・ガンバの練習します。

2018年9月12日Space415演奏会のお知らせ

2018-08-27 | weblog

来る9月12日(水曜日)に演奏会ならびにレッスンの企画をいたしました。演奏会の曲目は"Italian Connection vol.1"と題しましてD.カステッロ、G.B.フォンタナ、G.P.チーマなどのイタリア初期バロック作品、そして未だに真作?偽作?との論議のやまぬ"ヴィタリのシャコンヌ”そして日本の藤原豊氏の「村の生活組曲」という構成を組んでみました。

また今回共演していただく五唐亜由子氏にはD.スカルラッティのソナタをSpace415のイタリアンチェンバロで演奏の運びとなりました。

今回の目玉の曲目としましてはやはり"ヴィタリのシャコンヌ"、ならびに"村の生活組曲"ということで鋭意、練習を進めています。

特にシャコンヌに関してはその作品の備えている半音階的な転調進行がバロック様式とは大きくかけ離れているため、ロマン派時代の作曲家による偽作ではないかとの論議に未だ終止符が打たれておりません。幾世紀もの時を経てなお話題の尽きないこの作品の魅力を存分にお楽しみいただければ幸いです。

また"村の生活組曲"の作曲者である藤原豊氏は1983年イタリアのヴィオッティ国際音楽コンクール入賞、同国1987年ブッキ賞国際音楽コンクルール入賞という経歴もあり、今回"Italian Connection"のひとつをしめるところとなっています。過度の不協和音の使用や複雑なリズムなどもなく、かといって安直に流れずにひとつの堅固な構造を備えたこの曲は現代のリコーダー、チェンバロのためのレパートリーとして重要な位置を保っていると言えましょう。

演奏会が終わりましたら引き続きSpace415にてリコーダーレッスンの時間を設けてみました。初級から中級の皆様を対象としまして基本的なリコーダー奏法、そして練習方法や演奏解釈のためのヒントをお伝えできれば幸いです。

レッスンはアンサンブルの形でも承ります。どうぞ御気軽にお問い合わせください。


定点観測地点の役割を果たす曲

2018-08-26 | ヴィオラ・ダ・ガンバ

自分にとって定点観測地点の役割を果たす曲がいくつかあると楽です。

事情があって、しばらく練習時間がとれないことがあります。

そんな時は当然のことながら演奏技術が落ちてしまうのですが、そのような時にいつも弾く曲をいくつか決めておいて弾いてみます。

うまく弾けません。弾けないのですが、しばらく弾いているうちに少しずつ思い出して来ます。左手のこと、右手のこと、いろいろあります。

練習の際には、その時、自分が何を犠牲にしているのか、ということをなるべく明確に意識するようにします。

ほとんどの場合、以下のことが犠牲になります。

*テンポ
*楽器の鳴り
*全体の構築
*強弱
*アーティキュレーション
*フレージング
*様式感

つまり演奏のために必要な多くの要素が犠牲になります。

でも、それでも良いと思いながら弾き続けてていると少しずつ様々な要素の水準が高くなって来るのがわかります。

それでもすぐさま本番の舞台に載せられるようなものにはなりません。

私の場合フォルクレやマレの組曲のある特定の曲などが定点観測のための曲として役立っています。
純粋に音楽的な見地からは邪道かもしれませんが、このような練習方法もあるということで少し書いてみました。

ヴィオラ・ダ・ガンバだけではなくリコーダーや鍵盤楽器など様々な楽器に応用できる考え方かと思います。

上達を阻む要因

2018-08-24 | リコーダー奏法
楽器の上達を阻む要因にはいろいろなものがありそうです。リコーダーに特定されたことではないのですが最近、このことについて思うことがあるので少し書いてみます。

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まず本人が抱く極端な考えかた
■自分は全然ダメだからこの先、いくらやってもムダ

これは正しくないので、こういう考えかたに陥っている時はそれを自分自身で察知して、「まあ、畳の部屋でゴロゴロしてみるか」くらいの余裕があっても良さそうです。この場合にはその場で出来る気分転換のパターンをいくつか持っておくと良いです。

経験上、ダメな状況が永遠に続くということはないので大丈夫です。
(しばらく表面的にダメっぽい状況が長引く時もありますが、そういうものであっても、それがずっと続くということはないです)

そんな時は身体を動かして何かやるのも良いですよ!(卓球とか、いろいろありそうです)

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周囲の人が何か余計なことを言ってくる場合
■あなたはたいしたことない奏者なんだからこの先、いくらやってもムダ

これも正しくないです。たいしたことないのか、どうかということを決めるのは口を出してくる人ではなく演奏を聴いてくれる方々です。(奏者には得意、不得意がありますからある様式の曲を演奏するのにたいしたことない演奏しが出来ない人が、異なる様式のものだと水を得たサカナのようになることも珍しくありません)

自分自身の考えかたは自分である程度、制御することが出来ますが他人の考えかたは変えられません。もし、周囲にひとりでもこのような言葉を投げつけてくる人がいたら距離を置くべきです。

明白な悪意があって、このような言葉を投げつけてくるのだとしたら極めて危険という他ありません。フェイスブックだったらブロックする。日常生活だったらなるべくその人に近寄らない。そのような方法がありそうです。

補足:
でも、人間は変化できる生き物なので、時がたてば自分も変わるし、相手も変わることだってありますから一時的に距離を置くこと自体、今生の別れということでは必ずしもないわけです。


人生のなかの7割は「おじさん」または「おじいさん」として生きる

2018-08-23 | 思うこと

今は平均寿命が長くなっているのでとりあえず仮に90年生きるとしてみる。
そのなかでとりあえず20代くらいまでは「若者」として自他共に認める存在であることが出来るとしてみる。

すると30代以降から死ぬまで、つまり人生のなかで7割ほどの時期は「おじさん」または「おじいさん」として生きるしかないのだ、ということに気がつくのだ。

でも「おじさん」または「おじいさん」であることと、変化できない、ということは同じではない。

例えば、それまで弾けなかった曲が弾けるようになった、というようなこと。(とりあえず下手でも良い)

それはほんの些細なことに見えるかもしれないけれど、その人にとっては大きな変化だったりもするのではないだろうか。

それまで出なかった音が出るようになったとか。。。。

こんなの、演奏以前の問題かもしれない。だって音楽として成り立っていないわけだから。。。

でもそんなことであってもやっぱりその人にとってかけがえのない変化だったりもするのではないだろうか。

演奏者として生きる、というのはその人がどれほど大きなふれ幅を持って変化できるのか、どうか、ということなのでは。

ということはリコーダー奏者として出発し、ある時期から指揮に専念し全くリコーダーを演奏しなくなってしまったF.ブリュッヘンというような人は演奏者としては破格の存在だったのだろう。

でも皆が皆、破格の存在である必要はないわけで。
それぞれの人がそれぞれの地で生きてゆければそれで良いわけで。

ただし、頭の片隅に「どれだけ変化できるのか」という意識があるか、ないか、というようなことは常にその人の在り様に何らかの影響を及ぼすのではないだろうか。

「おじさん」または「おじいさん」だから変化できない、ということは必ずしもないわけで。

練習

2018-08-23 | 思うこと

(写真は原田ヴァイオリン工房の原田哲氏製作によるヴィオラ・ダ・ガンバ。弦長70センチ・2013年)

11月、12月の演奏会が終わるまでは気の休まる間もないくらいだけど下手にあせっても仕方ないので練習したり楽譜を書いたり、教材を作ったり、生徒諸君にレッスンしてあげたり、いつもと同じ暮らしぶりだ。
チケット販売のような仕事が増えたせいで問い合わせを下さった方々とメールのやりとりが増えた以外はもうずいぶんこんな暮らしが続いている。

来年の3月は勤務先の大学の管弦楽団の一員としてマタイ受難曲全曲演奏会に参加。ヴィオラ・ダ・ガンバのソロもあるのだ。

このところガンバの練習があまり出来ていなかったのでまた最近、気合を入れなおして練習再開。でも、ちょっとだけ勘が鈍っているような。。。。

少し前までは「下手になっちゃった!どうしよう!!」と言ってひとりで落ち込んだりしていたけれども最近はそういうのはあんまりなくなってしまった。

歳とったのかな。。。

というか、ひとりで落ち込んでても時間の無駄でツマラナイということが実感としてわかって来たのだと思う。

勘が鈍っている時には鈍いまま弾く。
貧弱な音しか出ない箇所はとりあえず貧弱な音のままで弾く。

これで良いのである。
少なくとも今までの経験上、ダメな状態がずっと続くということは有り得ない。

ただし鈍ってしまっているのであまり強い負荷はかけられない。休憩なしで練習する時間は比較的短めにするとか、あまり沢山の曲は弾かないとか、テンポが落ちてしまっているので曲全体の構築力にはとりあえず目をつぶる、とか、いろいろなコツはある。

このあたり、歳とるのもまんざら悪くないなあ、と思う。

簡単に言ってしまうと「その時の自分を自分で受け入れる」というようなことになるのだろうか・・・

ああ、なんだか安っぽいスピリチュアルの先生みたいでちょっとやだな。

こんなの皆、多分、当たり前にやっていることだと思うので。。。
よし、練習あるのみ!




おぼん

2018-08-14 | weblog

おぼんの一日でした。

お坊様の話も聞くことが出来ました。普段あまりそのような世界のことを考えることもないのでなんだか有り難いような不思議な気持ちでありました。

皆、そのうち御先祖様になるのかなあ、そんなこと思ったりしました。
なんだかどんどん時が流れてゆきますから、出来ること今のうちに少しずつでも良いから進めておきたいなと思うことでした。

夕方は卓球に行きました。
体育館にシャワーがあるので2時間くらい卓球した後で汗流すのは最高でした。
おぼんのせいか、なんだかいろいろなことが有り難いことでした。




11月の発表会準備

2018-08-14 | 音楽教室

リコーダー奏者の吉嶺史晴です。鹿児島市で音楽教室を運営しながら演奏活動、作曲・編曲などをしています。
(写真は教室の発表会の様子です)
毎年2回開催の発表会、次回は11月20日です。

最近、生徒の皆さんを見ながら思うことがあります。少し前まで発表会が終わるごとに「先生、次の発表会の曲を早く決めてください」という声が大きかったのですが、今、あまりそのような声が以前ほどではないように感じます。

もう8月なので後3ヶ月なのですが、皆さん、ゆったり構えているように見えます。
思うに、少しずつ自信がついて来ているのでは。

というのはレッスンでは限られた時間ではありますが、毎回、それぞれの方に合わせた水準の曲で初見または以前やったけれどしばらくやってない曲(忘れている部分は初見と同じ感覚)の曲をやっています。

このことが実を結びつつあるのではないかなという感触があって実はとても嬉しく思っています。

教室の生徒の皆さん、大人になってからリコーダーを始めた方でもだいたい5、6年ほどたつと細かい様式のことはさておきながらもオトテール、テレマンの二重奏程度の曲なら初見で出来るようになります。

読むチカラ、これが伸びてくると当然のことながら表現するチカラも伸びて来ます。

次回の発表会ではひとつ新しい方針を作ってみたいと思います。
今までは二重奏の曲はなるべく生徒の皆さん同士でやる、ということにしていました。

今度はなるべく私と一緒に二重奏をやる、ということでゆきます。
僭越ではあるのですが、格上の奏者と共に舞台を踏む、経験を重ねる、ということがどのようなことなのか教室の生徒の皆さんに少しずつなりとも伝わってゆけば嬉しいです。

また、これは毎回のことですが、アンサンブルです。三重奏あり、四重奏ありの変化で楽しくやります!
先日のレッスンでは中西覚のリコーダー四重奏曲「祭り」を生徒の皆さん、そして私でやってみました。
まず最初の週は皆でとりあえず初見で音だし。

そして次の週はそれぞれのパートを練習して来た上でアンサンブル。それは私が言うのも何ですが、なかなか良いものでした。(正直言って、私は驚きました。「ええ!教室の生徒の皆さん、こんなに上手だったかな!?」みたいな)

暑い日が続きますがレッスンの教材準備、自分の練習、作曲・編曲など勢いつけながら前進します。




レッスンの後には

2018-08-11 | weblog

今日は教室でレッスンでした。
割り当ての時間の後に隣のレッスンがない時は世間話したりします。
他愛もない話が多いですが、時々、政治経済の話にもなったりして私も勉強になります。

以前はレッスンの時間が終わると「自分は全然、上達してないみたいで悲しい」みたいなことも話題になりましたが、最近ではそのような話題は出ません。

皆さん、あきらめてしまったのか(笑)、それともそのような話題に興味なくなってしまったのか(笑)・・・

ともかくレッスンの時間は集中して音楽を作っているのでその後くらいはリラックス出来ると良いものです。

一番、長い方はもう10年ちかく通って来てくださってます。
モーツァルトやオトテールの二重奏曲を初見で音を出して音楽になるほどには進歩がありますからたいしたものです。

毎回のレッスンでその度ごとに新しい情報を伝達するような在り方、それはそれで良いものですが、昔やった曲を取り出して来て、新しい気持ちでもう一度、音を出してみたり、そんなこともしています。

しっかり練習して、発表会ではそれなりに良い演奏できた曲なのに、時間がたってみると沢山の箇所を忘れてしまっていたり・・・・

それもまた良い経験ですから。。。

今日も良い一日、有難うございました!