吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

主題にふさわしい形式

2011-06-13 | 音楽制作覚書
ソナタ形式にはそれにふさわしい主題、変奏曲形式にはそれにふさわしい主題、ロンド形式にはそれにふさわしい主題・・・・・・そのようなものがあるように思われます。

音楽の世界を離れてみても、たとえば長編小説にふさわしい主題、そして短編小説にふさわしい主題というようなものがありそうです。

おなじように演奏形態によってもそのようなことが考えられそうです。

古典的な交響曲の第1楽章(ソナタ形式)にふさわしい主題があるとして、その主題を21世紀に作曲される無伴奏フルート作品のための主題とすることは難しい。

たとえば無伴奏フルート、あるいは無伴奏リコーダーというような演奏形態にふさわしい主題。
まずはこれをなんとかして探し出すことが肝要かと思われます。

曲の題名には著作権が発生しないので、もしかしたら既存の曲から題名だけもらって来るということも考えられるかもしれません。

いわゆる「無調音楽」の美点

2011-06-13 | 音楽制作覚書
いわゆる「無調音楽」を初めて聴く人は「おばけが出て来そうな音楽」とか「ホラー映画の音楽みたい」というような感想を述べることがあるのですが、それはそれで良いとして・・・・

「無調音楽」には「調性音楽」にはない美点があるように思えます。

それは必ずしも「伴奏」を必要としないという点です。伴奏を必要としないならば主旋律ひとつの音の動きだけでひとつの作品を最初から最後まで作ることが可能です。

かりに「無調」的なアプローチを取るにしてもそれぞれの音と音の音程を制御することによって、伝統的な「調性」の感じをスパイスのように混ぜ合わせておくことは可能です。

このように考えるならば、無伴奏フルートや無伴奏リコーダーのための様式としてはとりあえず伝統的な「無調音楽」の様式はひとつの大きな有力手段ではないかと思われるのです。


補足:
「伴奏」を必要としない音楽、というのは少なくとも西洋的な音楽の文脈の流れにおいては非常に特殊なものではないかと思われます。

主旋律だけの音楽がそこにあり、しかも、聴き手はその主旋律だけを聴いて音楽を音楽として感じるということ、これは少なくとも中世、ルネサンス、バロック以来の西洋の音楽の歴史においては有り得なかったことが起きているとも考えられるかもしれません。


廣瀬量平の「讃歌」について

2011-06-13 | 音楽制作覚書
この曲については以前も書いたことがあるかもしれないのですが、あらためて備忘として書いておきたいと思います。

この曲は構成上、問題を多く含む作品です。それぞれの部分と部分をつなぐ必然性が弱いために、全体がなんとなく「接続曲」といった趣があります。ただ、部分的には非常に美しいものがあり、それらの部分的な美しさがこの曲をなんとか成り立たせているように見えます。

ここでひとつ興味深いことがあります。

音楽大学みたいなところで学生が学ぶことに「構造が堅固であることの重要性」というようなことがあります。しかし、実際の音楽作品を見てみると音楽作品そのものの価値は「構造」の出来映えだけにはよらないことがわかります。

部分的な美しさが際立っていればそれはそれでその作品の魅力となるからです。

ただし、このような構造的な弱さを持つ作品が歴史の風雪にどれほど耐えられるのかどうかは定かではありません。

補足:この曲の部分的な美しさのひとつには全音階的なおおらかさがあります。多分、当時としては珍しく無調的ではないパッセージが比較的、多くこの曲のなかには取り入れられてあります。ただし、それらの「無調的でないパッセージ群」が出てくる度ごとに、聴き手は「ああ、このパッセージに伴奏があったらもっと良いのになあ」と思うかもしれないことを否定できません。

つまり、すべからく無調的でないような音の動きというものは必然的に「伴奏」声部を要求するのではないでしょうか。

ここにJ.S.バッハの犯した失敗の原因が明らかになります。つまり、彼は無伴奏ヴァイオリンや無伴奏チェロのための作品では複数の弦を同時に弾くことによる「伴奏」を楽譜に書き記しておくことが出来たけれども、ついには無伴奏フルートのための作品でははそれにかわるような手段をとることが出来なかったということです。

J.S.バッハはまさに失敗するべくして、失敗したというほかありません。

J.S.バッハほどの才能のない21世紀の作り手が彼と同じようなことをしようとして失敗しないはずがない、と考えます。

つまり通常の調性による無伴奏フルートのための作品は必ず失敗するということです。

福島和夫と廣瀬量平の成功方程式

2011-06-13 | 音楽制作覚書
福島和夫と廣瀬量平には無伴奏フルート作品、あるいは無伴奏リコーダー作品を書く上で共通の成功方程式があったのではないだろうか、と考えてみました。

それはふたつのポイントになります。

*無調音楽であること

*東洋的なこぶしをその表現手段として多少なりとも取り入れていること(多分これは副次的なこと)

J.Sバッハもテレマンも残念ながら上記のどちらの手段も持っていなかった。というよりは知らなかったし、そのようなものがあると想像することさえ出来なかった。音楽の歴史上に輝く天才であってもそのイマジネーションは非常に限定されたものであることがわかります。

さて、無伴奏フルートの音楽が無伴奏フルートの音楽として成り立つためにはその曲を聴いた人が「ああ、伴奏があったらもっと良い曲なのにねえ・・・・」というようなことを思ってはつまらない、というような前提にたってみます。

ということは最終的な出来上がりの段階において、その曲が「本来ならば主旋律と伴奏のための音楽なのだけれども、都合があってただ、なんとなく旋律だけとりだしてみました~」というような聞こえ方をしてはいけないということになります。

無伴奏フルートのその音だけで音楽として成り立っており、それ以上、それに足すことによってその音楽が損なわれるほどの、完成度がそこになくてはならない、ということを目指す必要があるのではないかと思われます。

福島和夫も廣瀬量平もこのようなことを意識的に考えていたのか、どうか定かではありませんが、とにかく出来上がったものの完成度が非常に高いことは特筆すべきことです。

そこには「伴奏があったらもっと面白く聴けるのに・・・・・・」というような中途半端な聴き手の思いを寄せ付けないような強さがあるように思えます。

優れた芸術的な音楽は多分、マンダラみたいなものなのでないかと思います。
それはあまりにも絶妙なバランスで成り立っているのでそれ以上に音を書き加える余地がほとんどありません。

そこには無駄な音がまったくないと同時に、そこに新しく音が付け加えられることをも冷たく拒否するような厳然としたたたずまいがあります。

J.S.バッハの作品だからといって

2011-06-13 | 音楽制作覚書
J.S.バッハの作品だからといって無反省に何でも賛辞を送るのは危険な態度です。
彼の作品の最良のものは大規模な宗教的な作品、鍵盤楽器のための作品、無伴奏ヴァイオリン、チェロのためのもの等ではないかと思われます。

音楽的な質から考えるならば、到底、J.S.バッハの無伴奏フルートのためのパルティータは彼の最良の部分が反映されているとは言い難いものです。そこには「無伴奏フルートだからしょうがないだろう」というような安易な妥協が見えます。

テレマンの作品についても同じです。この点においてバロック期の巨匠と呼ばれる人々は20世紀の福島和夫や廣瀬量平のなした仕事の足元にも及ばないのではないだろうか。

しかし、ここにはとても興味深いヒントが隠されているように見えます。
つまり、バッハやテレマンのように歴史上に燦然と輝く作曲家であっても、そのような安易な妥協から自由であることは出来なかったということです。

ひとつの作品を

2011-06-13 | 音楽制作覚書
ひとつの作品を仕上げるために必要なものは音楽理論というよりは「作ってやる~!!!」というような根性というか、勢いというか、そのようなものではないかと思われます。

最後の仕上がりが多少、不完全であってもそれを良し、として次の作品に向かうことが出来るのも多分、この勢いみたいなものではないかと思われます。

テレマンの無伴奏ファンタジーは独立した音楽作品としては欠点の多いものではないかと思われてなりません。しかし、このような作品を作品として作ってしまうことの出来るテレマンという作曲家はやはり凄い作曲家だと思います。ただし、凄い作曲家と真の意味で優れた作曲家とは区別されるべきものかもしれません。

それではフルートのための無伴奏パルティータを書いたJ.S.バッハはこの曲で彼本来の力量をじゅうぶん発揮しているのかどうか、ということについてはどうでしょうか。例えばこの曲の第1楽章はとても優れたものですが、アルマンド、サラバンド、最後のイギリス風の舞曲についてはいささか、安易な印象をいなめません。

もちろん凡庸な作曲家(テレマンという意味ではありません)のものに比べれば創意工夫があり、面白いものではありますが、それでも一連の無伴奏ヴァイオリンのためのソナタやパルティータに比べれば音楽的な面白さという点ではあきらかです。

多分、J.S.バッハほどの作曲家であっても、無伴奏独奏フルートという演奏形態のために第1級の音楽作品を残すことが出来なかったということを考えるのは21世紀に生きる作り手にとって何らかのヒントになるかもしれません。

その点において日本の福島和夫や廣瀬量平が残した一連の無伴奏フルート作品や無伴奏リコーダー作品群は音楽の歴史においてはるかにテレマンやバッハを凌駕するものに思えます。

ここでは「ああ、伴奏があったらもっと良い曲なのになあ・・・」というような聴き手の思いをきっぱりと打ち切るだけの強度、圧力みたいなものが厳然として存在するように思えてなりません。

テレマンの無伴奏ファンタジアについて

2011-06-13 | 音楽制作覚書
テレマンの無伴奏ファンタジアという曲集があります。トラヴェルソやリコーダーで演奏されることの多い曲です。
この曲集のなかには「本当は通奏低音がついていたら良いのになあ・・・・・」と思われるような曲が沢山あります。

それでもなんとか成り立っています。

ここはとても興味深いところです。というのは、主な旋律さえなんとかちゃんとした体裁を整えてあれば、伴奏的な声部はなくてもなんとか音楽としての形になってしまうからです。

テレマンの無伴奏ファンタジーのなかにあるいくつかの楽章はひとつの音楽作品としてみた場合に不完全なものです。しかし、たとえ、少々、不完全であってもそれが音楽であることにはかわりありません。

ということは音楽が音楽として成り立つためには、その作品が非の打ち所のないような完璧なものであるかどうか、ということはもしかしたら副次的な意味あいしかないのかもしれません。

このように考え始めるならば、21世紀に今から作られようとしている音楽がたとえ、しょうしょう、出来の悪いものであっても、それはそれで音楽として立派に成り立つものであり、それはそれとして長く演奏され続ける可能性があるものになるかもしれません。

音楽大学みたいなところで勉強してしまうと、どうしても立派な先生に立派な理論を習うことになります。それはそれで大事なことですが、歴史上で生き残っている作品を見てみると、必ずしもアカデミックな立場からみて「立派」とはほどとおい作品があることも事実です。

21世紀の凡才にも生き残る道が必ずあるように思えるのです。

(ただし、基礎的な理論なくして精密な分析力、洞察力が養えるとは思えません。若いうちに基礎を体のなかに叩き込み、しみこませることは何よりも大切なことだと思われるのです。もちろん理屈にならないような本能的かつ野生的な創造力を否定することは出来ないのですが)