吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

「ながら」演奏できることが必要  (技術的な事柄)

2016-09-30 | リコーダー奏法
熟達した奏者と、そうでない奏者の違い。
熟達した奏者は演奏中に「ながら」演奏をすることが出来ます。つまり演奏しているのだけれども、その演奏の中身は沢山の「ながら」の事柄で出来上がっています。

*自分の音を聴くこと
*相手の音を聴くこと
*空間に響きわたる音を聴くこと
*それらの音を判断し、分析し、瞬時にそれ以降の演奏に活かすこと
*判断したこと、分析したこと、分析した結果により活かそうとしたことがうまく行ったのか、そうでなかったのかということを判断し、新たな判断をすること
*自分自身が聴きとったこと、判断したこと、それによって起きた音楽上の複数の出来事を記憶すること

などなど。。。。
つまり、熟達した奏者は演奏しながら、実は沢山のこと(認知、分析、判断、記憶の繰り返し)を同時に頭のなかで処理しているということになります。

私自身はやりませんが、ひとつの曲を完全に習得することが出来てしまえば、漫画よみながら演奏することも出来るはずです。
このように考えてゆくと、一度に複数のことを同時に行う能力というのは楽器演奏には大事なことであると言えそうです。

最初はなかなか難しいことですが、段階を追いながら目指すべきことのひとつです。

微細な違いを聴きわけられるかどうか(技術的な事柄)

2016-09-30 | リコーダー奏法
微細な違いを聴きわけられるかどうか、ということ。
これ、上達する上での大事な項目です。

例えば、微細なピッチの違い。
微細なタイミングの違い。
微細な強弱、音色の違いなどなど。

考えてみると演奏は様々な要素によって成り立っていて、それぞれの要素が微細に違っているとそれらが組み合わさって大きな違いになります。
良い演奏とそうでない演奏をわけるのはたったひとつの点が大きく違うということよりも、多くの点が細かく違うと考えてみるといろいろなことが理解しやすくなるかもしれません。

この場合、細かく、というのは普通に細かいのではなく、普通はなかなか聴きわけられない程度の微細な違いということになります。
楽器が上達してゆくということは、その楽器を操作する技術が向上する、ということに加えて、やはり演奏する人の感覚そのものがより鋭敏なものへと変化する過程とも言えそうです。

*例えば互いにピッチをあわせることが必要な状況において、場合によってはなかなか正確に聴きわけられない時も出てきます。この場合には、ピッチそのものを聴くというよりは音量を聴くと助けになる場合があります。
つまり、相手の音量、または自分の音量があきらかに大きかったり、小さかったりする場合にはピッチもそれに応じて高くなりすぎていたり、低くなりすぎている場合が多いからです。
(ただし、このやりかたはアンサンブル演奏において互いに熟達している奏者の場合にはあまり使い道がありません。熟達しているということはそれほど極端に大きい音や小さい音を出さなくなるからです。つまりリコーダー演奏において「熟達している」ということはアーティキュレーションによる表現が熟達しているということになるからです)

*このように考えると、微細な違いがなかなか聴きわけられない場合には、その奏者の段階に応じてその助けとなるやり方が存在する場合もある、ということが言えそうです。自分自身がどの程度の段階にあるのかなかなか判断しにくい場合にもあります。そのような時には、是非1回、レッスンを受けてみられてはいかがでしょうか。

鹿児島市の吉嶺音楽教室ではリコーダー、音楽理論(和声・対位法)などのレッスンを致します。


「異化作用」

2016-09-28 | 音楽制作覚書
「異化作用」。非日常的な体験をすること、と考えてみる。
目の前で普通のおじさん、おばさんみたいな人が楽器を1個もって演奏しているだけなのに、日常生活では絶対に体験することの出来ないような世界がその空間に現出する。

音楽の面白さって多分、こういうところにある。それはプロとかアマチュアとかそういうこととは関係なく。音楽そのものの持つ面白さ。

「異化作用」。これをちょっと違う言葉で「人間離れした感じ」と置き換えてみる。
目の前にいるのがいかにも人間離れした感じの人だったら、よっぽど人間離れした感じの演奏でないと人間離れした感じは表現できないかもしれない。

でも見た目が普通のおじさん、おばさん、だったらその敷居はそれほど高くないかも。

普通では在り得ないような音楽を作るためには、普通では在り得ないような楽器や音色を使わなければいけないのか、ということとそういうことでもないのも面白い。

でも曲は?曲の質は?その時使う楽器の質は?作曲者、編曲者、そして何よりも演奏者に求められる質は?

ロンド形式っぽい三部形式?三部形式っぽいロンド形式?

2016-09-28 | 音楽制作覚書
今、ある曲を編曲しているのだけれども、最初、三部形式にしようと思っていたのだけれども、途中で最初とまんなかと最後に共通の素材を入れ込んだらロンド形式ぽく作れるということがひらめいた。

つまり、A-B-C-A-C-B-A

簡素な伴奏

2016-09-27 | 音楽制作覚書
時として歌曲のような形態で極端に簡素な伴奏のものをみることがあるのだけれども、簡素であるということ、いいかげんにただ音を連ねてある、ということは別のことだ。

音の数が少ないからこそ選びぬいた音を書かなければいけない(自戒をこめて!)

人間の物理的な動く速度には限界があるけれども「のり」の良さには限界がない

2016-09-26 | 音楽制作覚書
人間の物理的な動く速度には限界があるけれども「のり」の良さには限界がないのではないだろうか。
今日、ひとりで練習しながらそんなことを考えた。
ある奏者はトランペットのような楽器で「のり」を出すのが一番得意だし、ある奏者はピアノ、また別の奏者はまた別の楽器。

ただし、専門の楽器だから「のり」を出すのが一番ラクということでもなさそう。
あまり技術的には高くないかもしれないけれども専門の楽器以外の楽器のほうが「のり」を出すのがラクな場合もありそう。

で、しかも、やっぱり「のり」の良さには限りがない。
で、「のり」の良さというのは必ずしも、その音楽がポリフォニックに出来ているのか、それとももっと簡素な作りなのか、ということも関係ないみたいだ。

「のり」の良さは楽譜には書き表すことが出来ないほどの微細なものなのでやっぱりこのあたりは録音ではなく生の演奏のほうが有利な感じは否めない。

ココロから出たものは多分、まっすぐにココロに伝わってゆく。


*補足
クラシック的なアプローチ、あるいはポピュラー的なそれであっても、いずれにしても音の数は少ないほうが「のり」を出すのには有利なのでは。
つまり、無駄な音は極力、なくしてゆく、という考え方。

スランプに落ちた時には好きな曲をふたつ持って来て足して割れば良いのだ

2016-09-24 | 音楽制作覚書
ベルギーでの学生時代、「スランプに落ちた時には好きな曲をふたつ持って来て足して2で割れば良いのだ!がはは!」って言ってた友達のことを思い出した。
最後には何でも「がはは!」っていう笑いがつくのだった。
今、思うとすごく繊細なココロの持ち主でそれを隠すための「がはは!」だったのかもしれない。
「オリジナリティ?知らん。俺はそんなこと興味ないよ。がはは!」っていうのもあった。

曲を書く時というのはやっぱりすらすら書ける時ばかりじゃないのは確かで、問題は書けない時。
それをどうするのか?

音楽を作るというのはどちらかというと裏方さんみたいな仕事なので、見た目で勝負!とか、振り付けで勝負!とかそういうことが全然できない世界なので、曲が出来るのか、出来ないのか、ただそれだけなのだ。

その友達とはかなりみもふたもない話してたのだけれど、なんだかそういうこと時々、思い出したくなるのだ。

ということでまだここには書けないけれど、新しい曲の構想が少しずつ進んでいるところなのだ。
その中身はかなりみもふたもない感じなので多分、曲が出来てからも誰にも言わないでおこう。

12音技法の音楽を聴く。考えるために聴く。なんだか面白い!(技術的な事柄)

2016-09-24 | 音楽制作覚書
練習の合間にはシェーンベルグ、ベルグ、ウェーベルンのピアノ曲が収められたCDを聴いています。
考えるヒントが沢山つまっています!
娯楽のためだけに聴くのではなく、同時に考えるために聴く。なんだかとても面白いのであります!

いくつか考えたことのうちのひとつ:
*音の使い方は古典派、ロマン派からすると、画期的なものですが、リズムに関してはかなり保守的。
もし、このような曲に調性の音を割り当てたらそのままロマン派の曲として聴こえてきそう。(曲にもよる)

*曲によっては「点描」風の音の使い方の曲があり、このようなリズムは古典派、ロマン派ではまずありえない。
ということは音構造だけではなく「リズム」にも時代様式というものがありえるのでは。


書きながら考えたこと:
*音楽を聴く際に、リズムと音の構造を区別しながら聴くと面白いヒントの得られる可能性あり。

ことごとく教科書と反することをやってみる

2016-09-17 | 音楽制作覚書
「ことごとく教科書と反することをやってみる」というのは何かを表現する際のきっかけになるかもしれないのですが、教科書を知らない人がこのようなことをやってみるというのは、あまり意味がありません。

教科書を過去の作品あるいは教則本と置き換えてみるとわかりやすくなります。

たとえばJ.S.バッハの多声部的な作品をみてみると今の和声や対位法の教科書に反することが沢山あります。
連続5度、あるいは極端に距離の近い連続8度、和声音と非和声音の取り扱い、和音が交替する頻度などなど。。。

しかしながらバッハが当時、どのような教科書を使っていたかというような詳細の情報がなかなかわからないので細かいことは推測するしかありません。

ここで何故、現代的な音楽にはつまらないものが多いのか、ということを考えてみると(自戒をこめて)、制約が少なすぎる、あるいは全くない状態で音楽を作らなければならないのがその原因のひとつなのではないでしょうか。
このような状況はすでにストラヴィンスキーあたりの時代から始まっているようにみえます。

でも、もしかしたら「現代的な音楽に何故つまらないものが多いのか」というような議論は昔からあったかもしれないのです。大昔から「今時の若いものは。。。」と老人たちは言っていたのです。

大変、平凡な結論なのですが、表現する以上は教科書に書いてあるようなことは打ち破らなければいけない。
しかしながら、教科書さえ知らないような人はそれを打ち破ることさえ出来ないわけです。

しかし、バッハの音楽は平凡ではありません。
たとえばそのなかに出て来る音の取り扱いには、まるで20世紀の無調的な音楽を思わせるものがあったりします。
こういうものに接するたびに何か言葉にならない思いがたまって来て、何か書かざるを得なくなります。

書くことが出来るのは、なんだか平凡なことばかりなのですが、歴史のなかで生き残る作品は平凡ではありません。

もうひとつ平凡かも知れない結論。
平凡でないものに共感することが出来るのは多分、その人のなかに平凡ならざるものがあるから。

今日は教室でレッスンです。
レッスンの際には時間が限られていて、生徒諸君とこんな話をすることはありませんので、とりあえず書いてみました。

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9月25日
対位法の講習会を開催します。
場所は鹿児島市の吉嶺音楽教室です。
どなたでも参加できます。
参加費は3000円、15時から17時まです
お問い合わせnangokurecords@goo.jp

自分自身の理解力を測定する

2016-09-12 | リコーダー奏法
ある曲に対して、その曲のことを自分自身がどれだけ理解しているのか、どうか。。。。
そのことを測定する方法があります。

その曲の様式で即興演奏できるのか、どうか、ということがそれです。
例えばオトテールに「プレリュードの技法」という曲集がありますが、それなどは当時、即興的に行われていたものを楽譜に記したもの、という側面があると考えることが出来ます。

楽譜にかじりついて演奏していると楽譜に書いてあることはなんとか音にすることは出来ても、いったん楽譜を離れると何も出来なくなったりします。これは楽譜に書いてある音符を音にすることは出来ても、その音楽そのものは理解していないということになります。

そのためには普段から少しずつ即興演奏する訓練をしておくと良いです。
リコーダーの場合だといきなり多声的な音楽をやらなくてはいけないような状況はありません。
まずはオトテール風に単純な旋律をつないでゆく練習をします。

ただし、テレマンの無伴奏ファンタジーのような例もあります。
このような様式のものをリコーダーで即興できるのか、どうか、ということはその奏者の到達地点を測るめやすになります。その場で旋律楽器ひとつでどこまで多声部的な音楽を即興で作り出すことが出来るのか、ということになります。

このことを書きながら忘れられない思い出が浮かびます。
ベルギーに留学してまだ間もない頃でした。

学校のカフェテリアで珈琲のんでたら、オルガン科の男の子(多分18歳くらい)がやって来て「今から即興演奏の練習するからお客さんになってくれない?」という言うのでオルガンのある部屋にゆきました。
「それでは今からルネサンス様式で2声のファンタジアをやります。最初のテーマをください」とその子は言いました。

私は最初のテーマを歌いました。「ドミソー、ソソソ」とか何とか適当に歌いました。
そしたらその子は私の適当なテーマを使いながら2声でたくみにそれらしきファンタジアのようなものを始めました。テーマの反行型が出てきたり、拡大、縮小がでてきたり、結構、本格的でした。もちろん掛留音とその解決もあります。

しかし、最初はうまく行っていたのですが、だんだん混乱しはじめて、2声のルネサンス様式のはずだったのに、左手でまるで古典派のソナチネみたいな単純な伴奏音型が出てきたり、ロマンチックな厚みのある和音の連続が出てきたりして、とてもルネサンス風とは言えないものになってしまいました。

その子はある時点でそれに気がついたようで最後は無理やりテーマに戻ってルネサンス風に終わりました。

恥ずかしそうに「ごめんね、でも聴いてくれてありがとう」とその子は言いました。
多分、私は「いろんな様式が混じってしまったけど、面白かった!」というようなことを言った記憶があります。

彼の地でも、いろいろな失敗を重ねながら、若い演奏者たちが育っているということ。
その現場に居合わせることの出来たことは私の大切な宝物になっています。

自分の理解力を測定する、なんて、なんだか味もそっけもない風に聞こえるかもしれないのですが、やっぱり即興演奏というのは偉大な挑戦です。
失敗も多いです。

いろいろな在り方でいろいろな自分自身を観てみる。
即興演奏、あるいは対位法の実習など、是非、皆さんも試してみられてはいかがでしょうか。

厳格対位法講習会
9月25日 15時~17時
鹿児島市の吉嶺音楽教室
参加費:3000円
準備するもの:五線紙、筆記用具
テキストはこちらで準備いたします。
お問い合わせ:nangokurecords@goo.jp