吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

低音が好きだ

2019-08-31 | 日常雑記
ヴィオラ・ダ・ガンバみたいな楽器を弾くと楽器と自分との接点から振動がビリビリ伝わって来る。
つまり右足と左足、そして左手の親指と弦を押さえているそれぞれの指などなど。

低い弦で大きな音を出すと、左のほっぺたに弦の振動によって起きる風が吹いてくる。
夏は扇風機の代わりにもなる。

でもリコーダーの場合、そうもゆかない。
楽器の中では風が動いている(空気柱の振動)けれども、奏者に風が吹いて来ることはないし、ガンバみたいな低音を出すためにはコントラバスリコーダーくらいのサイズが必要になって来る。

普段から使っている独奏用のテナーだと到底無理だ。
テナーとは言え、実際の音の高さでいうとソプラノ音域なのだから。

ということで、リコーダーは少なくとも低音好きにとってはいささか物足りない。
でも、それでも、やっぱり喜んでくださる方々の存在があるから、なんとか続けていられるのだ。

進みは速くないけれど新しい曲を作ることも出来る。

例えば編成のなかにバスリコーダーをひとつ取り入れるだけでもずいぶん違う。
バスリコーダーが入れられない時には自分で声を出すとか。
自分の声だったら少なくともコントラバスリコーダーとか、ガンバの低音域と同じくらいは出るのだ。

振動だって感じられる。(自分の声帯の振動だから当然と言えば、当然・・・)
う~とか、あ~とか、好きな母音だって選べるのだ。

出来る範囲のなかでしか出来ないけれども、そのなかでとにかく尽くせることを尽くしてみよう!
今日も昨日と同じく、練習と楽譜書きだ!

「手癖」をそのまま楽譜にする

2019-08-31 | 音楽制作覚書
自分が即興する時の「手癖」みたいなもの、これをそのまま楽譜にしてしまったらどういうことになるだろうか?というアイディアが浮かんだ。

例えばルネサンスやバロック期の様々な作曲家たちが書き残したフーガやリチェルカーレ、そういったものの中にはそれぞれの作り手の「手癖」のようなものが濃厚に反映している、と考えることはできないだろうか?

普通は「手癖」というと悪い意味に捉えられる。
そこでは深い考慮と閃きが統合された創造物としての作品、というような在り方にほど遠いものだとされる。

しかし、ここで考えかたを少し違う角度から。

例えばJ.S.バッハが残した大量のフーガ。こういったものは彼の即興演奏をそのまま楽譜にしただけのもの、と考えてみる。

ということは少なくとも彼自身の即興=手癖とその作曲作品(楽譜)はほとんど同義ということになる。

残念ながら、私たちにはルネサンス、バロック期を通じて彼の地で極めて日常的なこととして行われていたであろうオルガンの即興演奏を生きた形で聴く機会がない。

今でもかろうじて彼の地の教会のような場所では行われているかもしれないが、そういうものは録音として残らないので、情報時代ということになっている現在であっても、私たちの耳には届いてこない。

もう少し「手癖」というようなものを肯定的に捉えてみることは出来ないものだろうか?

いきなりJ.S.バッハのようなものは作れないだろう。しかし、彼が求めていた同じ方向に自分自身の在り方を持ってゆくことは出来るはず。

さて、それでは「手癖」より洗練されたものにしてゆくための具体的な訓練の方法は?

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アウレリオ・ヴィルジリアーノ。
音楽史の表舞台には登場してこないけれども彼の残したリチェルカーレ(単声)はリコーダー奏者にとっては重要な曲だ。
あるいはバッサーノの単声リチェルカーレのような楽曲。

結局、今、私たちがやるべきことはこのような楽譜の音をなぞることではなく、その作り手たちが目指していた方向をもう一度確かめることだ。

そのことによって新しい音楽が出来ればそれは素晴らしい。
外見はルネサンスやバロックのものとは全く異なるものになるだろう。
でもその精神は同じところに成り立っているようなそんな音楽。

出来上がってきた楽曲が素晴しいか、どうか、それはまた別の話なのだけれども。
演奏してもらえるまでに持ってゆくだけでも大変な仕事なわけで・・・・(楽譜書き!)


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補足:
その時の音楽的状況(拍子、テンポ、調、形式など)によって変化する「手癖」であれば、それは「手癖」であると同時に創造的な芽となり得るものだ。

伝統的にはこのような在り方の実践的な例としては数字付通奏低音のようなものがあった。
2019年の時点で新しい何かを作るためのヒントになり得るかもしれない。

新曲のスケッチ

2019-08-30 | 日常雑記

新曲のスケッチが出来つつある。
編成はアルト、バスリコーダーの二重奏。

ひと区切りのところまで書けたので次ぎのまとまり。
全部、書きあがるまでは仮録音もなしで、とにかく実際の楽器は鳴らさないで書いてみよう!

頭のなかにある音だけを頼りに書き続けること。
どこかで聴いたような旋律だな・・・とか、そういうことがあってもとにかく書き続けること。、

続きはまた明日!



東京のメーテル

2019-08-30 | 対話
次郎(以下、次)「この間な、東京で演奏して来たんだよ。全日本ブロックフレーテ祭」
太郎(以下、太)「おお、知ってるよ。俺も聴いてた。仕事でちょうどタイミングよく出張と重なってた」
次「どうだった?俺の演奏」
太「悔しいけど、次郎の演奏すごく良かった。今までで多分、一番良かった。」
次「そうか、そうか、えへへ。あのな、ちょっと嬉しいことがあってな。聞いてくれるか?」
太「ああ、いいよ」
次「終演後、CDお買い上げの皆さんにサインしてたんだ。そしたらな、そのなかのひとり銀河鉄道999のメーテルに似た人がいてな、すごく褒められちゃった。俺の演奏聴いてなんだか涙止まらなくなったんだと。キラキラうるんだ瞳でじ~っと見つめられちゃった。えへへ」
太「なんと!メーテルに似たオンナの人が居たのか!!!東京はすごいな。そんな美女が現実に東京というとこには生息しているのか!!!そんな美女を感動させるような演奏したのか!!!歳の頃はいくつぐらいだった?」
次「ええと・・・・・30歳くらいかな・・・・・もうちょっとかな。。。。40とか、50くらいかも。。。。もしかしたら60くらいだったかも・・・・・・・・」
太「お前、バカなの?30と60じゃえらい違いだろ。そんなこともわからんのかよ?肌のツヤとか、髪の毛の感じとか、いろいろあるだろ?」
次「ええと・・・・ええと・・・・・あの・・・その・・・・オンナの人は歳がよくわからんから・・・・化粧したら10や20、下手すると30歳くらい若返る人もいるから・・・・」
太「まあいい。それでメールアドレスはもらったのかよ?」
次「いや・・・」
太「お前、本当にバカなの?メーテル似の美女がお前の演奏はすごいって褒めてくれてキラキラうるんだ瞳で見つめてくれたんだろ?そのあたりのスマホで写真でも撮って、後で送りますから、とか言ってアドレスもらえば良かったのに」
次「なるほど。そういう手があったか」
太「お前は本当に、そういうところが抜けてる。こういうことはタイミングが全てだからな。そんなすごいチャンスはしばらくはもうないかもしれんぞ。残念だな」
次「ああああああああ」
太「まあ、良いじゃないの。また次に行け」
次「次って?そんなにもう次なんてないよ。だってもう、どんどん歳とっておっさんになって来てるから」
太「おっさんになってもな、どんどんアタックしてりゃ良いんだ。気にすんな。要は確率の問題だからな」
次「確率?」
太「そうだ。こういうことは確率だ。つまり手当たり次第に声をかけたり、アタックしまくったりすりゃ良いんだ。そうしたらそのうちの何パーセントかとはうまく行く。単純な算数だ」
次「驚いたな。お前、そんなこと考えてるのかよ」
太「普通、考えるだろ。そりゃ」
次「ああ、東京のメーテルに会いたいなあ・・・・」
太「あきらめろ。あきらめて次に行け、次に」
次「・・・・会いたいけど・・・・・正直言うと、もう、俺はそういうのだんだん良くなって来た・・・・もうめんどくさい。。。。もうメーテルのこと考えてるだけで疲れた・・・・」
太「なんだよ。メーテルが好きなんじゃなかったのかよ」
次「・・・・初音ミクでも良いかも」
太「なんだ。そりゃ。可愛いけりゃ、何でも良いのかよ」
次「・・・・そうなのかな・・・・・・・」
太「確かに、見た目は大事なんだよな。。。。俺たち、男だからな・・・・・・」
次「オンナにとっても男の見た目って大事なんじゃないの」
太「そうでもあるし、そうでもない。・つまりオンナにとっての男の魅力はやっぱり仕事が出来るとか、金持ってる、とかそういうことだから、見た目は必ずしも最重要ということでもない」
次「そうか。それだったら俺みたいなのでもチャンスあるな」
太「あるぞ!だから頑張れ。お前は音楽しか強みがなくて他は全部、ダメだから、もうとにかく、音楽で一点突破しろ。今から何か新しいことやろうとしても失敗に終わる可能性が高いからな」
次「なんだか、褒められるのか、けなされてるのかわからんな」
太「新しい曲にはもう取り掛かってるのか?」
次「うん。少しずつ。例によって筆が遅いから、あんまり進まないけどな。もう仕方ない。いろんなことがもう仕方なくなって来ちゃった・・・・」
太「そんなにいろいろなこと、仕方ないのか?」
次「まあ、いろいろ。でも頑張る」
太「そうだよな。こうなりゃ前進あるのみ」
次「あるのみ!」

縁のこと

2019-08-30 | 思うこと
つながるべき人とはつながって、切れるべき人とは切れる。
これが縁の働きだ。

自分で制御できることと、そうでないことを区別すること。

少なくとも自分が書く言葉、話す言葉、それらは自分自身で制御できるはず。(いつも堅苦しくて礼儀正しい言葉を使わなきゃいけない、とかそういうことではなくて)

その人の言葉の使い方、そしてその人のまわりに働く縁の働き、うまく表現できないけれど、ここには何らかの関係がある。

2019年、夏の終わりがだんだん近づいて来ているのだ。

この間、演奏してから

2019-08-30 | 日常雑記
この間、演奏してから明日でもう1週間になるのにこの間の演奏を評価してくださるメールがまた届いてた。
東京文化会館での演奏、高い評価もらえているみたいだ。

終演後、CDにサインして差し上げてる際にこんなこと言われた。
それはそれは品のある感じの女性からだった。
多分、30歳~60歳くらいの間の年配だと思う。

「いつもどちらで活動されてるの?」
「鹿児島です」
「まあ!そんなに遠いところで!」
「田舎ですから」
「いえ、いえ、そんなことございませんけれど、そんなところで・・・・鹿児島・・・・遠いですわね・・・・えらいわ・・・・頑張ってね」

というような感じだった。その方があんまりにも上品で、銀河鉄道999のメーテルがちょっと歳とったらこんな感じになるかな、というような雰囲気でもあった。

言葉って大事だな。
メールでも日常でも、良い言葉使う人は本当に素敵だ。
それに比べて(以下、略)

とにかく前進しよう!
今日は午前中、事務仕事をかたづけて午後は練習と楽譜書き。
またいつもの日常が戻って来た。

東京リコーダー音楽祭出演を終えて

2019-08-26 | 日常雑記

東京リコーダー音楽祭出演を終えてさきほど帰宅しました。
私の出演は1日目の昼間の演奏会でした。
名だたるリコーダー奏者の方々にまじって私も演奏させてもらいました。
自作の「阿修羅」となづけた無伴奏テナーリコーダー作品を演奏しました。

阿修羅が銀河鉄道999のメーテルに恋をするのだけれど、闘争の世界に生きる阿修羅と星の世界の住人メーテルとはあまりにも身分が違いすぎてその恋は成就しない、というようなイメージで書いた曲でした。(でもこんなものは作曲者が曲を書くためだけの極めて個人的なものなので作品の鑑賞には直接働くものではありません)

舞台で演奏が終わった後には司会の朝岡さんがインタビューをしてくださいました。
やはり、プロの司会の方は実に品格があって、それでいて堅苦しくならずに、素晴らしいです。
それに加えて朝岡さんは御自分でもリコーダーを演奏されるので、インタビューの内容が的確で、本当に良かったです。

演奏会終了時にはロビーで多くの知り合いの方々と御挨拶できました。

控え室、リハーサル室、舞台裏では出演者の皆さんとも挨拶できました。

自分の演奏以外の時間は他の出演者の方々の演奏も聴かせてもらい、おおいに刺激を受けて来ました。

自宅のコンピューターを開いてみるといくつか嬉しいメールが入っていました。
昨日の演奏がなんだかとても良かったみたいでした。
音楽祭の事務局の皆さんはじめ多くの方々に御世話になりました。

曲を作っている最中は聴き手の方々からのフィードバックが全然ない状態で進めるしかないので、限られた回数の予行演習や初演後の皆さんの反応がたよりです。

こうしてみると作曲する行為というのは一人きりで行うものではなく、やはり時間差があるとしても聴き手や、おなじ楽器の演奏者の方々との共同作業と実感します。

鹿児島空港に帰り着いて、自分の車を運転して家に向かいました。
いつもとは少し違う道を通りたい気分だったので、普段はあまり通らない海沿いの道を行きました。

左手には桜島が大きくそびえていました。

2019年の「ドミナント→トニック」

2019-08-26 | 音楽制作覚書
作曲は極めて個人的な営みである、という側面に加えて、その作り手は歴史的な文脈から逃れられない、というそんな面もある。

少なくとも盛期ルネサンス、バロック、古典派の時代を経てロマン派、20世紀に至るまで西洋の音楽の歴史は表面的な形は変わりながらも「ドミナント→トニック」の歴史だったと見てみる。(これはあくまでもひとつの切り口。切り口はいくらでもあって例えばソナタ形式の誕生、成長、完成、崩壊、というような見方とか、あるいは調性について、とかいろいろ)

ということは2019年風の「ドミナント→トニック」があっても良いのでは、という考えかた。

ここから先は作り手それぞれの個人的な手法が重要となる。
伝統的な機能和声風の外面をとった「ドミナント→トニック」があっても良いし、全くの無調という形をとりながらも「緊張→弛緩」という働きがそこにあればそれを「ドミナント→トニック」として見立てることも可能。

20世紀に入って書かれ始めたいわゆる「現代音楽」の相当の割り合いのものがこの点を考慮せずに書かれてしまったということであったならば、それは失敗するべくして失敗したということになる。(しかしこれは必要な失敗だった。なぜならばその失敗がなければ現状に至ることは出来なかったから)

「ドミナント→トニック」すなわち「緊張→弛緩」である、という捉え方があれば、そこにひとつの厳格な枠組を置きながら書く、という在り方が可能。

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作り手にとって大事な能力のひとつ。

何を持って「緊張」の場面とするのか、何を持って「弛緩」の場面とするのか、ということを決めるセンス。(別の言葉で言うならば、作品のなかで刻一刻と変化する緊張感を制御する技術)

このセンスが低ければ同じような緊張感のものが延々と続くようなだらしない音楽になるか、あるいは悪い意味で古典派風の紋切り型の音楽になる危険。

オードIII

2019-08-25 | 音楽制作覚書
廣瀬量平の重要なリコーダー作品群のなかにオードI,オードII というものがある。
これに続けてオードIIIというものが書けないだろうか、というアイディアが浮かんだ。

旋律や音型をそのまま持って来るのはまずい。
これは盗作になる。

しかしオードI,IIにある語法が成り立ったその源のあたりまで到達することが出来れば、その源から僕自身が直接、何かを得ることが出来さえすれば可能性としては有り得る。

これはルネサンス期に流行った対位法書法による楽曲構成法と通じる。
つまりあるひとつの定旋律があり、それにあうような対旋律を書いてゆく、という在り方。

オードI,IIを流れている共通の考えかた、音の組み立て方、それらを成り立たせている根本的な考えかた、あるいは世界に対するものの見方、のようなものが少しでも見えてくるならば、オードIIIは可能。

定旋律があるわけではないが、オードI,IIを流れる大きな枠組みのようなものが新しい形をとること。
ただし、そこには2019年のオードとしての必然性がなければならないことは自明のこととして。

編成としては二人のリコーダー奏者のための作品(それぞれテナー、バスを担当。持ち替えなしで6~7分程度。オードI、オードIIIを連続して演奏し、ひとつのまとまりとする。)

リズミカルに始まる部分、ゆったりした中間部分、最後はふたたびリズミカルに。

東京に到着

2019-08-23 | 日常雑記
東京に到着しました。
銀座の楽譜屋さんに行ってその後、上野のアメ横をぶらぶら歩いています。
美味しそうな食べ物屋さんが沢山あります!

東京は曇りです。
湿度がありますが、日差しが強くないので歩きやすいです。
夜は少しだけ練習して明日の演奏会に備えてみます。