5月24日の演奏会アンコールの曲の楽譜を書いています。
一度ユーチューブにアップロードした曲を主旋律、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロのために書き直しているところです。
書き直してひと段落しながら、まだマタイ受難曲のこと考えています。
楽曲それ自体のことや、共演者の皆さん、指揮のハイルマン先生、そして裏でささえてくださった智子先生、京子先生、スタッフの皆さん。
本当に沢山の方々のチカラがひとつになりました。
練習中、そして4回の本番を通していろいろありました。
ここではあまり細かく書けないのですが、それらも宝物になりました。
音楽的にはいくつかの発見がありました。
僕が今まで多分、小さな自分自身の周辺に起きて来た経験上から得た題目みたいなことがいくつか壊れました。
そのひとつは「どんなにテンポが遅くてもある程度の前進するチカラは保たれていなけれならない」というものです。
でもそれはもしかしたらちっぽけな思い込みだったのかもしれない。
例えば今回の公演を通じて、受難曲第2部でイエスが息をひきとった後に歌われるコラールがあるのですが、それは音量も極めて小さく、しかもテンポも遅いものでした。器楽はなし。
音楽が前進する最低限のチカラがそこにはなかったのでは、とハイルマン先生の演奏解釈に触れたときに僕はそう思いました。「これは音楽として成り立っていないのでは」と僕は思ってしまったのでした。
でもそれはそうあるべくしてそうなった必然性がハイルマン先生のなかにはあったのだろうと、今となっては思います。
で、あの時の舞台ではハイルマン先生の指揮のもとに歌う、という必然性がひとりひとりの歌い手のなかにあったからこそあのような表現が可能になりました。
最後の岡山公演ではそのコラールの一番最後の音は期せずして本当の純正三和音が成り立っていたように僕には聴こえました。
練習を通して、純正の三度を正確にとる、というようなことはさほど強調されていなかったとしたら、そこで起きた響きはひとつの奇跡のようなものだと僕には思えたのでした。
僕などが思うこと、書くことなどちっぽけなのですが、それでも書いておきたいです。
演奏の世界では「最先端」とか「周回遅れ」とか、いろいろな言葉でその演奏のクオリティが評価されます。学問的な成果を積極的に取り入れるという点において、いわゆる「ピリオド奏法」というものは一定の成功を収めました。
しかしそれはそれ、これはこれ。
これはこれ、それはそれ。
ピリオド楽器使っていても、ダメはものはダメだし、モダン楽器であっても良いものは良いです。
ロマンチックなヴィブラートつかってるからダメだとか、良いとか、そういうものではないです。
前進するチカラがあれば良いというものでもないし、だからと言って前進するチカラのない演奏はやっぱりダメです。
こういうこと書いたり、思ったりしている時点で自分自身を青臭いと思います。
でも、そういう人が居ても良いのではないか、とも思います。
最後の岡山公演は3月24日でした。まだ4日しかたっていません。
でももうずいぶん昔のことみたいに思えるのであります。
でもずいぶん昔のことの割りには僕のなかにその記憶がまだ昨日のことのように、あるいはたった今、終わったばかりのことのように、その記憶が残っているのであります。
一度ユーチューブにアップロードした曲を主旋律、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロのために書き直しているところです。
書き直してひと段落しながら、まだマタイ受難曲のこと考えています。
楽曲それ自体のことや、共演者の皆さん、指揮のハイルマン先生、そして裏でささえてくださった智子先生、京子先生、スタッフの皆さん。
本当に沢山の方々のチカラがひとつになりました。
練習中、そして4回の本番を通していろいろありました。
ここではあまり細かく書けないのですが、それらも宝物になりました。
音楽的にはいくつかの発見がありました。
僕が今まで多分、小さな自分自身の周辺に起きて来た経験上から得た題目みたいなことがいくつか壊れました。
そのひとつは「どんなにテンポが遅くてもある程度の前進するチカラは保たれていなけれならない」というものです。
でもそれはもしかしたらちっぽけな思い込みだったのかもしれない。
例えば今回の公演を通じて、受難曲第2部でイエスが息をひきとった後に歌われるコラールがあるのですが、それは音量も極めて小さく、しかもテンポも遅いものでした。器楽はなし。
音楽が前進する最低限のチカラがそこにはなかったのでは、とハイルマン先生の演奏解釈に触れたときに僕はそう思いました。「これは音楽として成り立っていないのでは」と僕は思ってしまったのでした。
でもそれはそうあるべくしてそうなった必然性がハイルマン先生のなかにはあったのだろうと、今となっては思います。
で、あの時の舞台ではハイルマン先生の指揮のもとに歌う、という必然性がひとりひとりの歌い手のなかにあったからこそあのような表現が可能になりました。
最後の岡山公演ではそのコラールの一番最後の音は期せずして本当の純正三和音が成り立っていたように僕には聴こえました。
練習を通して、純正の三度を正確にとる、というようなことはさほど強調されていなかったとしたら、そこで起きた響きはひとつの奇跡のようなものだと僕には思えたのでした。
僕などが思うこと、書くことなどちっぽけなのですが、それでも書いておきたいです。
演奏の世界では「最先端」とか「周回遅れ」とか、いろいろな言葉でその演奏のクオリティが評価されます。学問的な成果を積極的に取り入れるという点において、いわゆる「ピリオド奏法」というものは一定の成功を収めました。
しかしそれはそれ、これはこれ。
これはこれ、それはそれ。
ピリオド楽器使っていても、ダメはものはダメだし、モダン楽器であっても良いものは良いです。
ロマンチックなヴィブラートつかってるからダメだとか、良いとか、そういうものではないです。
前進するチカラがあれば良いというものでもないし、だからと言って前進するチカラのない演奏はやっぱりダメです。
こういうこと書いたり、思ったりしている時点で自分自身を青臭いと思います。
でも、そういう人が居ても良いのではないか、とも思います。
最後の岡山公演は3月24日でした。まだ4日しかたっていません。
でももうずいぶん昔のことみたいに思えるのであります。
でもずいぶん昔のことの割りには僕のなかにその記憶がまだ昨日のことのように、あるいはたった今、終わったばかりのことのように、その記憶が残っているのであります。