吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

まるで展開部みたいな再現部

2017-02-28 | 音楽制作覚書
まるで展開部みたいな再現部。。。こんなソナタ形式があったら面白いだろうなと思いながら今の曲に取り掛かっているのだけれども、そんなものはもう何百年も前にあった。何も新しいアイディアではない。
例えばベートーヴェン。
彼がやったことというのはソナタ形式を確立したこと。
それと同時に自分が確立したはずのそれ自体を創造的に破壊するチカラを内在させたこと!
しかも彼自身の手によって。
ああ!

単純な繰り返し

2017-02-26 | 音楽制作覚書
単純な繰り返しというのは芸術的な観点からするとあまり程度の高いものではないということになるのだろうと思う。
しかし、そもそも「芸術的な観点」とは一体何だろう?
クラシック音楽の様式?

でもクラシック音楽のなかにもいろいろあって民衆的な踊りのリズムがもとになって出来ている曲だってある。
交響曲みたいなものに中さえひたすらリズムが前面に押し出されているような曲もある。

例えばテレマンの無伴奏フルートファンタジア。こういうもののなかにはあきらかにバグパイプやハーディーガーディーのスタイルを模倣したとおぼしきものがあるし、ルネサンスの舞曲のようなものは繰り返されることが前提となっていたわけでその場合には入念な分割装飾が行われずに単純な繰り返しとして奏されたことだってあるに違いない。

単純な繰り返し。

こうものを頭でっかちに最初から否定してしまうと、本当に単純な繰り返しが必要な場面なのに、不必要な変化をつかなければいけないような思いにかられてしまいそうだ。

追記:
本当に面白い楽想というのは繰り返しの際に装飾などつけなくても、じゅうぶん面白さを保っていられるほどの強度を兼ね備えている。(もちろん装飾をつけても良いのだけれども・・・)


ベートーヴェンの第九交響曲は「ごった煮」

2017-02-24 | 音楽制作覚書
ベートーヴェンの第九交響曲は音楽史上に輝く傑作に違いないが形式上からみるとまるで「ごった煮」みたいなものだと言えまいか。
経験の浅い人がいきなり、こういうものを真似しても難しいかもしれないけれども、この考え方を応用することは出来そうだ。

つまり音楽を作る際に「形式」というものをどこまで尊重するのかというのはあくまでも作り手の意図に最終的にはゆだねられるということ。
当然といえば当然だけれども、やっぱりそうなのだ。

「ごった煮」方式で音楽を作る際に作り手が気をつけるべきこと。

「木で竹を継ぐような」感じになることを恐れないこと!
「どこかで聴いたようなものが出て来ること」を恐れないこと!

追記:
「木に竹を継ぐ」のはこのこと自体には良い、悪いはない。
つまり、このような効果を狙うという明確な意図があってこれを行うことは有り得るけれど、作り手の技術不足のためにこうなってしまうというのはよくない。(これ、すごく大事な点だ)

追記:
結局、作曲技術のなかでも重要なのはやはり、限られた数の素材をいかに豊かに変化・展開させられるのか、というチカラだ。(もちろんこれと並んでメロディーメーカーであること、というのもあるだろうけれども)




ペンタトニック主体の曲のどこでクロマチックを入れるのか

2017-02-24 | 音楽制作覚書
ペンタトニック主体の曲のどこでクロマチックを入れるのかという点、技術という点においては重要だ。

*ドミナント機能を持たせるために入れる。
*単純な装飾として入れる。
*拡張されたペンタトニック音階の一部として入れる。
*あたかもポリトナリティのような効果として入れる。
*クライマックスの効果を狙って入れる。
*テンションの上下にあわせてそのまま上下するクロマチックを入れる。

などなど。。。。

このあたりのヒントはリコーダー曲の場合だと北爪やよひ、菊地雅春、中西覚、デルロースト各氏らの作品に実例あり!
かなり探求しがいのある分野だ!

1回目の間奏

2017-02-24 | 音楽制作覚書
間奏が2回はいる程度の規模の曲の歌の曲の場合、1回目の間奏は2回目の間奏よりも短く作る約束事みたいなものがある。

これ、やっぱりちゃんとした理由があって、こうなっている。
どんなにヒラメキがあって、長い間奏を入れたくなっても、それが1回目の間奏だったらあんまり長くしないほうがいい。
出来れば転調もしないで済ませられるものだったら、しないほうが良い。もし転調するのだったら必要最小限にとどめておくこと!

(このあたり、ものすごく精妙なさじ加減が欲しいところ。つまり長すぎるのはダメなんだけれども2回目の歌が入って来た瞬間を聴き手が待ちわびる程度の長さは確保したほうが良いということ)

これに対して2回目の間奏についてはある程度、長くても良い。
もし必要であれば転調する場所を作って、ソナタ形式の展開部みたいな作りにすることも可能。(ここ、作り手の腕前を発揮できるところなのだ!)

ただし展開部があまりにも規模が大きくなりすぎると、別の曲みたいになってしまって、なんだか聴き手がシラケテしまう危険もあり。やっぱりここもうまいさじ加減が必要。

安全策としては2回目の間奏にはイントロ、歌の旋律、および1回目の間奏ですでに登場してきた音型を使うということ。(これ、とても大事、というか、多分、これが唯一無二の約束事!!!)

とりあえず2回までは繰り返しても良い

2017-02-24 | 音楽制作覚書
曲を作る際、同じ音型についてはとりあえず2回までは繰り返しても良い、というようなことを習った記憶がある。
3回繰り返すのはあまりにも芸がないのでちょっとした変化をつけるのか、あるいは3回目に該当する部分には新しい何かを持ってくる、というような約束事みたいなこと。

もちろん自分の作品として何かを書く際にはこういうようなことは無視してしまっても良いのだけれども、このようなことが伝えられて来ている背景は考えてみる意味があるかもしれない。

つまり、ここで言われるようなことはすべからく「変化」と「統一」ということがひとつの曲のなかで重要なのだ、ということだと読み替えてみる。

そのために、初心者に理解させるための何らかの方便としてこのようなことがあるのではないか。

思うとこういうようなこと、結構、沢山ある。

例えば学習ソナタの展開部に使われる素材は必ず提示部にあるものでなければならないとか。
(これ、学習フーガの主題提示部とエピソードの部分との関係についても同じ)

これらについて、文字通り、受け取っても良いことと、必ずしも文字通り、受け取る必要のないものとの区別をつけてゆくこと。。。


後期バロックから初期古典派、ベートーヴェンあたりまで

2017-02-24 | 音楽制作覚書
後期バロックから初期古典派、ベートーヴェンあたりまで主な楽式はほとんど全部、出揃ってしまっている。
二部形式、三部形式、変奏曲形式、ロンド形式、ソナタ形式、歌謡形式、もちろんフーガも。

このあたりの時期にすでに主な楽式が完成されていたということは何を意味しているのだろう?

名だたる天才的な作曲家たちがその後、誰ひとりとして新しい楽式を作り出すことが出来なかったということは何を意味しているのだろう?

もし、これが人間の脳の仕組み、物事の認知の在り方と密接に結びついているのだとしたら、もう今更、新しい楽式を作り出そうというような試みは必ず失敗するということになるのだろうか?

学習フーガ、学習ソナタが出来上がった背景

2017-02-24 | 音楽制作覚書
学習フーガ、学習ソナタが出来上がった背景というものを考えてみるのも面白いのではないだろうか!?

廣瀬量平の「メディテーション」におけるドミナントとトニック機能

2017-02-24 | 音楽制作覚書
廣瀬量平の「メディテーション」におけるドミナントとトニック機能について。
これ、面白いテーマになるのではないだろうか。
もちろん「ドミナント」「トニック」というのは文字通りの意味ではなく、そのような機能を持つ箇所、という意味において。

つまり廣瀬の「メディテーション」のような一見、前衛的に見える作品であっても、それぞれの音型の持つ役割を考えてみると、「緊張させる役割の音」と「緊張をゆるめる役割の音」がある、という風にとりあえず考えてみることによって見えて来るものがあるのでは?

単純な三部形式のまんなかの部分とソナタ形式の展開部の違い

2017-02-24 | 音楽制作覚書
単純な三部形式のまんなかの部分とソナタ形式の展開部の違い。
楽式の基礎。
でも、基礎にはすごく深い意味が込められていたりもする。
このあたりの点に音楽史のどのあたりのポイントをどのように読み取ることが出来るのか、ということ。
そして読み取った事柄をどのようにして新しい曲に活かしてゆくことが出来るのか、ということ。

このあたりのことを考えると、当然のことながら昔も「木に竹を継ぐ」ような方式もあったことが見てとれる。
(それは良い、悪いということの判断には直接、関わる必要もないのだけれども・・・)

そしてソナタ形式というものの登場が歴史上、どのような意味を持っていたのか、ということをどのように読み取るのか、ということ。

そしてやっぱり最後にゆきつくのは「読み取る」だけじゃダメ。
読み取ったことを自分の作品の中に活かすことが出来なければ。。。