吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

カサブランカ・ダンディ - 沢田研二

2020-06-27 | 思うこと
カサブランカ・ダンディ - 沢田研二

これこそ、まさに様式美の極致。
舞台芸術に関わる者の目指すべき方向の在り方。
ただしこれは当時の沢田研二しか実現することの出来なかった在り方。

クラシック、バロック系の演奏者がこのような在り方を追求することが出来るだろうか?
そもそも、そのような問いを立てること自体、おろかなことだろうか?

カッコイイ帽子ならぬ、お風呂場の洗面器みたいなものを頭にのせて腰をくねらせながら、リコーダー吹いてみるとか、そういうことでなくて。

クラシック系の演奏者にありがちな弱さがあるとしたら、それは作曲作品自体の強度に頼っていればある程度まで、外面が整えられてしまうという点なのでは。

でも、ポピュラー音楽だとこうはゆかない。
そもそも既存の楽曲を演奏することは「カバー」と呼ばれて二義的なものでしかない。

いや、待てよ。
バロックやクラシックだって、その曲が発表される時には新しい曲として発表されたはず。
沢田研二みたいな演奏者や作曲者がいなかったとは言えない。

この録画を度々、観る。
考えさせられる。

それは多分、様式美というものはこういうものだ、という答えの端的な在り方がここに示されているからではないか。

で、それはポピュラー系のみならず、クラシック、バロックを問わず全ての表現者にとって何か致命的であるほどの重要性、言葉を変えてみるならば、それがあるかないかで彼自身の世界への対峙の在り方そのものが全く質的に変容せざるをえないような何か。

昨日は

2020-06-27 | 日常雑記
昨日は週1回だけの大学での授業の日でした。
音楽理論関連の科目をふたつ担当しています。
ひとつは楽式論。もうひとつは創作・編曲法というものです。

楽式論ではイタリア初期バロックのチーマのトリオソナタ、そして創作・編曲法ではルネサンスのウィリアム・バードのファンタジアを取り扱いました。

普段、耳にすることの少ない初期バロックやルネサンスの器楽曲の構造や響きに学生諸君、興味持ってくれたようでした。

それにしても時代の端境期にある音楽はやはり面白いです。
ルネサンスとバロックの境目とか。(多くの初期イタリアバロックの作り手たち)
あるいはまたバロックと古典派の境目(J.S.バッハとか)
古典派とロマン派の境目(ベートーヴェン!)

ソナタと名づけられていても、それはベートーヴェン風のソナタとは似ても似つかぬようなものでもあり、しかし独立した器楽曲(当時としては多分、画期的なことだった)としては共通しています。

また初期バロックのソナタはそれ以前のルネサンスのファンタジアや、JS.バッハのフーガ(特に二重・三重フーガなど)と強い関連があることがわかります。

このあたりの観点を持ってくることによって「ソナタ」あるいは「ソナタ形式」というものに対する視点を増やすことが出来ます。

でも理屈っぽくなり過ぎるとつまらなくなります。

でも、考えることをまるっきり放棄してしまうと、それもやっぱりつまらない。全然面白くない。

理想は考えて、沢山、考えて、沢山練習して、これ以上できないというほど練習して演奏したり作曲したりすることですが、そういう状況はなかなか現実には起きないので、どこかでなんとかして帳尻あわせながらやることになります。

今日はひとこまだけレッスンです。行ってまいります!

無垢の杉板床

2020-06-23 | 日常雑記

無塗装の無垢杉板で玄関の床を張ってみました!


玄関の床板張替え準備

2020-06-18 | 日常雑記

教室の玄関の床板を張替えすることにした。
古い木造家屋なのであちこちガタが来ているのだ。

玄関もしかり。
場所によって微妙にしずみ込む箇所があって、床下にもぐりこんで部分的に補強していたのだけれども、もう床板それ自体を張替えようと思う。

今日はいつも行くホームセンターに行ってみた。
表面の仕上げてある杉板を買った。全部で17枚くらい。ちょうど3.3平方メートルくらい。

作業としては古い床板を撤去してから、12mmの構造用合板を下地として根太にビス留め。
その上から新しい床板を張るという寸法。

最終的には釘で固定することになるのだが、釘打ちする前に、ただの無垢板だけが並んでいるところに寝転がってみた。

なんというか、その、気持ち良いのである。

うっとりするような心地というべきであろうか。

木の香りがあたり一面にただよっていて、ほっぺたとか手の平に杉板のさわり心地が伝わってくるのであった。

あまりにも気持ちよいので靴下を脱いでみた。
当然のことであるが足の裏にも無垢の杉板から発せられる精妙な振動が届いてくるようであった。

さらに気持ちよくなったのでついでにズボンとシャツを脱いでパンツ一枚になって無垢の杉板の上でごろごろ転がってみたら、はっと気がついた。
「あれれれれ、自分は何をしているのだろうか」
「これでは教室に来てくださる生徒さん方はわたくしがパンツ一枚でごろごろ転がりまわった板を必ずレッスンの度ごとに通過しなければならないということになるのである」
「もし、ここに誰か近所の人が回覧板でも持ってきたら、今まで築き上げてきた御近所の皆様方との信頼関係に傷がつかないとも限らない」
「もし、今、大地震が起きたらどうしよう」
「もし、今、泥棒が来たらどうしよう」
「もし、今、空からミサイルが落ちて来たらどうしよう」
「もし、今、ここに生徒さんのひとりが忘れ物を取りに突然現れたらどうしよう」
などと、ありとあらゆる「もし」が私の頭のなかを巡った。

我に帰って服を着始めたら、遠くから、カラスが
「アホー、アホー」と言った。

ララバイ

2020-06-14 | 音楽教室
F. Yoshimine - Lullaby (2013)


ドイツの素晴らしいリコーダー奏者Solange Komendaさんによる吉嶺史晴作曲「ララバイ」です。

鹿児島市で音楽教室を運営しているのですが、昨日は教室の生徒さんがこの曲の楽譜をお求めくださいました。
無伴奏のテナーリコーダー作品です。

教室の生徒さんのなかにもようやくこのような曲に挑戦できるような人が育って来てくれたことが嬉しいです。
この曲は今までにドイツ、オランダ、アメリカ、イギリス、ロシアなど様々な国で演奏されています。

鹿児島で演奏してもらえるのは何時かなと楽しみです!

リフォーム

2020-06-14 | 音楽教室

空いた時間を使いながら教室の補修作業をしています。
素人なのでリフォーム工事とよべそうなしゃれたものではありません。
とにかく家の機能が損なわれないように工夫しながら進めています。

幸い、生徒の皆さんが来てくれるところは建物の中なのでそんなに傷んでいないのですが、外側はいろいろです。

今年に入ってから窓枠まわりに水漏れや雨戸や戸袋の修理、木製雨戸レールの交換作業や柱の部分的な交換作業をしました。
おかげで木造家屋の構造に詳しくなりました。

建物の屋根裏には湾曲した立派な梁が入っています。
それが見えるように天井板を撤去しようかなと考えています。

雨水が入って来そうな箇所はとりあえず全部、補修できたので、内装を工夫できるところは工夫しています。
梁が見えるような大きな空間が出来たら、そこでリコーダー吹いたりするのもなかなか良いのでは、と考えています。

鹿児島地方はまだ梅雨が続いていますが、今は曇り加減です。
ほんの少しだけ青い空も見えます。

今日は

2020-06-06 | 日常雑記

今日は教室でのレッスンでした。
長い方はもう10年近く、新しい方はこの2月から。
全部で7こまのレッスン。
読む練習をしたり、対位法の答え合わせをしたり、アンサンブルをしたりいつもの日常が戻って来ました。

上手なのか下手なのかわからない奏者

2020-06-05 | リコーダー奏法
聴き手の立場からすると、不可解な奏者というものが存在する。
それは「上手なのか下手なのかわからない奏者」である。

普通のレッスンは「上手に演奏できる」ようになるために行われるものなので、その最終的な到達地点は「上手な奏者」である。

しかし私が目指したいのは上手なのか下手なのかわからない奏者である。

ひとつだけ具体的なイメージがある。
フランスブリュッヘンの師として名高いケースオッテンのリコーダーリサイタルに行った。
東京の石橋メモリアルホールで開催された。
伴奏はリュートのつのだたかし氏だった。

アンコールで演奏されたビバップ風のジャズは今だに忘れられない。
会場の熱狂的な盛り上がりも。

その時のケースオッテンの演奏は今思うと「上手なのか下手なのかわからない」ものだった。
もしかしたら本当にあまり上手じゃなかったのかもしれない。
だとしたら彼の演奏は私に衝撃を与え、その衝撃はもう何十年もたった今になってさえも残り続けているけれども、それは私の目指したい方向ではない。

目指したいのは本当に上手なのか、下手なのかわからない奏者だ。
出来るだろうか。

可能性としてはないことはない。

演奏様式が確立してしまっているような曲でそれを行うのは難しいかもしれない。なぜならばそこでは「上手なのか下手なのかわからない」という方向では単に「下手なだけ」になりかねないからだ。

新しい編曲やあるいは自分自身の曲ならばそれは可能性としては有り得るはず。
たとえば「ララバイ」とか。
この曲の初めての録音(2013年)のなかに出てくるピッチのずれとか、音がひっくり返ってしまった箇所は上手なだけの奏者にはなかなか出せない部分だ。

「ララバイ」だけではなく、ポピュラー的なあるいはまた民族音楽的な様式を備えたような楽曲の場合にはこのような方向は有効に働くのでは。

もう少し早くこういうことに気がつけば良かったと後悔する。
でも、それはそれで良いからとにかく新しい方向で進みたい。

例えばひとつの演奏会のなかでバロックの曲をそれこそ優等生みたいな演奏して、新しい編曲または自作の曲をまるで別人(下手な方向に自分を化粧する)みたいな演奏する。
可能だろうか?

普通は上手な演奏者はひとつの演奏会のなかでは上手なだけで終わってしまうから、こういうことはなかなか起こりにくい。

でもなかなか起こりにくいことと、絶対起こらないこととは違う。

でも進もうとしていたら、その途中で歳とってしまって演奏できなくなるのだろう。
でもそれもまた良いのではないかと思う。

リハビリみたいな練習

2020-06-05 | 日常雑記

3月に開催される予定だったバッハの「マタイ受難曲」全曲演奏会。
延期ということでとにかく何時かはどこかで演奏できることを願いたい。

この曲のなかにある2曲のガンバのソロ。
全曲のなかでも重要な場面だ。
また練習を始めよう。
しばらくちゃんと音を出していなかったのでまずは簡単な音階のようなものから。

音階が出来たら分散和音。
とてもゆっくり。

自分で音を出しながら、「まるでリハビリしてるみたいだ」と思う。
でもこういうのもやっぱり必要になる時がある。
リハビリなしでいきなり弾ける奏者がうらやましいけれども、そんなこと言い始めたらいろいろな人がうらやましくなってしまってどうしようもない。

きれいな顔とか、素晴らしい運動神経とか、頭の回転速度とか、面白い話術を持ってる人とか、もうとにかく世の中にはうらやましくなりそうなものを沢山、持っている人が沢山いるのだけれども、それはそれなのだ。

多分、演奏者の在り方のひとつとして、大事なのは、こういうような気持ちを持ちながらも、とりあえずそれは置いといて、練習する(すごく単純なロングトーンとか、音階とか、そういうの)こと。

というか、自分自身を「ああ、今、他人をうらやましがってるんだね。まあそういう時はそういう時で良いんじゃないの」みたいに突き放せる態度みたいな。その辺り。

これもひろい意味での技術と考えることが出来るかも?

だとしたら「技術」というのはとんでもなく深い。というか、その演奏者のココロの在り方それ自体を決める重要なものだ。

というようなことをゴチャゴチャ考えたり書いたりするヒマがあったら練習したほうが良いのであろう。

春に決まっていた演奏会が

2020-06-05 | 日常雑記
春に決まっていた演奏会が9月に延期となり、結局中止。
また別の演奏会は延期日程の候補は上がったけれども実際に開催されるかどうかは未定。
この数ヶ月、僕の周りにもそういう話ばかりだ。
勤務先の大学には地元鹿児島、または九州県内で開催されるものを中心に演奏会チラシを置いてあるコーナーがあるのだけれども、最近はそこも空っぽだ。

来年のオリンピックもどうなるかどうかわからない。

こんな状況でどうやって進めるのか、ということを考えてみる。
考えてばかりでも始まらないから出来ることはやってみる。
失敗もある。

でもそれも含めて生きているということなんだろうと思う。

今日は週に1回の大学での授業の日だった。
担当している科目のひとつは楽式論というもの。

二部形式、三部形式、変奏形式やロンド形式、ソナタ形式といったものはどういうものか、ということを学ぶ科目。
本に書いてあるようなことは本を読めば良いわけで、授業という形ではやっぱりプラスアルファが欲しい、といつも僕自身は思う。

毎年同じことを念仏みたいに唱えているような先生の授業なんてつまらない。
もしかしたら僕も同じようになってしまっている時がある。
多分、ある。
そんな時の僕はつまらない顔しているのではないだろうか。

その埋め合わせという訳でもないけれど、今日の楽式論では授業の終わりに「上手な奏者なのか、下手な奏者なのか、わからないようなそんな演奏者というものを想定することが可能だろうか?」という問いを学生諸君に出してみた。

10人を少し超える程度の数の履修学生諸君の果たして何人にこういう問いが届いたのかどうかわからない。
でもやっぱりその時、その時を一瞬、一瞬を大事にしながら生きるしかない。

と、こんなことを考えながら帰りの車を運転していて赤信号で止まったら、横断歩道を昔、中学校の時、好きだった隣のクラスの美和子チャンという娘によくにた女の人が歩いていて、なんだかひとりでバカみたいにドキドキ、ホンワカ、デレデレした気分になったら、後ろの車から思い切りクラクションを鳴らされてしまい青信号になっていたのに気がついた。