吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

時間は有限

2011-05-14 | リコーダー奏法
時間は有限である。その時間を活かしてなるべく多くの音楽に触れてみたいと思うのならやはり、ある程度、楽譜を読むスピードが欲しい。
最初は楽器そのものに慣れていないのでその楽器から音を出すだけでも大変なのだが、ある程度慣れて来た時点で短い時間になるべく多くの楽譜を読んで実際に音を出す練習をしてみるのは良い。

これはもちろん楽譜を読む練習であるとともに、新しい曲に触れることによって、それまでの曲では絶対に有り得ない音の動きや身体の使い方を身に付けるという意味もある。

時間がない時にはとにかく隙間の空き時間を利用しながらでも、その楽器で音を出すこと自体に慣れること、そしてなるべく多くの曲に触れる体験が必要だ。

まだその楽器で音を出すこと自体に慣れていない段階であれば、1日練習しなければ1日分下手になるというよりは、1日練習しなければ2日分下手になる、それほど練習そのもののなす意味は大きい。

ある程度その楽器に慣れ親しんで来たらすこしくらい練習しない期間があってもすぐに取り戻すことが出来るのだが、最初の段階で練習しない期間があるということは、これはいつまでたってもスタートラインに立つことが出来ないということになる。

とにかくスタートラインに立たなければいけない。

そして、スタートラインに立った後は、その楽器における標準的なレパートリーをとりあえず演奏出来るようにすること。

ひとつの曲をひとつの音のヴァリエーションだけで

2011-05-13 | 音楽制作覚書
ひとつの曲をひとつの音のヴァリエーションだけで構成する、というアイディアがある。
例えば廣瀬量平の「メディテーション」は曲全体はファのシャープの音のヴァリエーションだと言えるかもしれない。

異種格闘技戦でまず第1に考えなければならないこと

2011-05-10 | リコーダー奏法
種々の楽器が同一のカテゴリーのなかで審査されるコンクールやオーディションをここでは異種格闘技戦と呼ぶことにする。

異種格闘技戦でまず第1に考えなければならないことは「音」である。

「音」のことである。リコーダーの場合、ピアノや声楽あるいは金管楽器や打楽器に比べると圧倒的に音が小さい。この「音の小ささ」を逆手にとりピアニシモをうまく聴かせるという表現も、もちろん戦法として有り得る。

しかしその前に考えなくていけないのは「音」すなわち「音量」、つまりそれは「楽器自体の鳴り」の問題である。

楽器自体が存分に「鳴っている」状態がどのようなものなのか、ということをイメージするチカラが必要だ。普段、自分自身が吹いている楽器であっても、それが本当に本来の「鳴り方」をしているかどうかはまた別の問題である。

もしチャンスがあればその楽器の本来の「鳴りかた」を確かめてみるというのはひとつの方法である。この場合、自分よりも2枚も3枚も上手あるいは格上の奏者にその楽器を吹いてもらうということになるかと思う。
もし出来るならばその奏者に異種格闘技戦で演奏するのと同一の曲を演奏してもらうのも良いかもしれない。

とにかく「音」、「音」、「音」である。

音が大事だ。本当に大事だ。それこそが本当に聴き手の心を打つものだ。
もちろん「演奏解釈」も大事なのだけれど、「音」本来の持つチカラに比べれば、それは二義的なものにしか過ぎないのではないだろうか。

「音」自体をうまく出すことの出来ない奏者が「演奏解釈」に走ると「こざかしい」感じの演奏に陥る。このような状況は避けたい。もちろん「演奏解釈」は大事なのだけれども、それ以前にちゃんと「音」が出ていること、このことの重要性をその奏者自身がどれほど自覚出来ているのかどうかということ。

そこでは必要とあらば、打楽器や金管楽器のフォルテに匹敵するだけの「音量」も出せる技量が求められていることは言うまでもない。物理的に大きな音を出せることもおろそかにしてはいけない。

同時に柔らかい音色は絶対に不安定になってはいけない。
特に、旋律楽器の場合、あまりにも速いタイミングで音の減衰を始めてしまうと、具合の悪いことが起きる場合があるので要注意である。

減衰させたい音を切る方法も重要だ。「ぶつっ!」と切れるのではなく「ふんわり」と音を切れるようなタンギングを必ず使いこなせるようにしておかなくてはいけない。
ただし、その場合に絶対にピッチが下がってはいけない。

中途半端に「演奏解釈」を凝らして「音」がちゃんとしていない演奏をするくらいだったら、「演奏解釈」にはまだ磨く余地があるけれど、「音」がちゃんと出ている演奏のほうがず~っと良い。

何故ならば異種格闘技戦の審査員はあまりにも沢山の演奏を聴かなければならないので、ほとんどの場合、その演奏者の最初の30秒くらい、あるいは1分間くらいしか本気で聴かないからだ。審査員は「聴くに値する」と思われる演奏しか聴かない。

つまり最初の30秒あるいは1分間でちゃんとした「音」を出すことが出来ていない奏者は戦いの前にすでに負けているということだ。

まず、聴いてもらわなければ戦うことさえ出来ない。
それが異種格闘技戦である。

最初の30秒が勝負だ。


異種格闘技戦で第2に考えなければいけないこと

2011-05-10 | リコーダー奏法
最初の30秒くらいの予備審査になんとか合格して、審査員から「聴いてもらえる」権利を獲得したと仮定してみよう。

その次に考えなければいけないことは、ふたつある。

「音」の品質を保ち続けること。つまり最初のほうで示すことの出来た楽器そのものの「鳴り」のクオリティを落としてはいけない、ということである。欲を言うならば、楽器の「鳴り」そのものは演奏が進めば進むほど、向上してゆく、くらいの勢いが欲しい。


そしてここから先の段階として重要なのは以下の点だ。

審査員を飽きさせないこと。

これである。先ほどの記事にも書いたように異種格闘技戦の審査員は沢山の演奏を聴かなくてはならないので、はっきり言ってしまえば疲れているのである。疲れた人はどうなるか。

早く家に帰って奥さんの手料理を食べたり、家にあるたたみの部屋でごろんと寝転がったり、犬と遊んだり、インターネットを見たり、彼女と電話したり、酒飲んだりしたいのである。

そのような状態にある人は目の前にあるものに興味を失いやすいのである。

いやしくも異種格闘技戦の審査員を勤めるほどの方々は音楽の専門家である。音楽の専門家であるがゆえに、目の前の演奏にほんの一瞬でもつまらない瞬間があると、その「演奏者の格」を見切るのが早い。

見切られた演奏者はその時点でおしまいである。

つまり一瞬たりとも音楽的に聴き手の興味を失わせるような瞬間を作ってはいけない。

いったん見切られた演奏者はその後にどんなに良い音で良い演奏解釈をしてみせてもそれを取り戻すのは困難である。

さて、ここでひとつ興味深い考え方が生まれて来た。それは演奏者自身に対する興味を最初から最後まで引っ張り続けておかなくてはいけないと言うことだ。

人間はどんな時に興味を失うだろうか?

目の前の人間のことを「わかっちゃった」時である。

どんなに美しいオンナの人でも家のなかで下着姿でうろうろされてはそれを見るオトコはそのオンナのひとに対する興味を失うだろう。これと同じことが演奏の現場でも起こり得る。

つまり演奏者と審査員の関係は、美しいけれど、何を考えているのはわからないオンナの人、とそのオンナの人のことが好きで好きでたまらなくて、そのオンナの人について激しい興味を持っているオトコと言うように置き換えてみることが出来る。

演奏者は最後まで自分自身をさらけだしてはいけない。
最後の最後の瞬間まで自分自身を神秘的なベールの内側につつんでおく必要がある。
だからと言って必要な音楽表現をしなくても良いということではない。

音楽表現や演奏解釈あるいは全体を構築することは当たり前のことである。それらのことは当然、行う必要があるのだけれど、それらのことを行うにあたって、自分自身のレベルとか音楽的な考え方とか、方向性とか、そういうようなことをさらけ出してはいけない。

絶対にさらけ出してはいけない。

何故ならば、目の前に見たくないものがいきなり出て来た場合、人はそれを拒否しようとするからである。

異種格闘技戦の審査員が聴きたいのは上質の音楽であって、演奏者が舞台上で自分自身をさらけだしている姿ではない。

異種格闘技戦で発生する演奏上の「ミス」について

2011-05-10 | リコーダー奏法
演奏上で間違いが生まれる際にはふたつの状況がある。

ひとつはその奏者に基本的な演奏能力そのものがまだ備わっていないために起きる「ミス」

もうひとつはその奏者に基本的な演奏能力はじゅうぶん備わっているのだけれど、たまたまその時の音のつながり具合や身体の状態によって起きる「ミス」

異種格闘技戦の審査員は百選練磨である。

ひとつめの「ミス」はそれが起きた時点でその奏者は戦う資格を失うだろう。そもそも基本的な演奏技術が備わっていないような奏者がそのような場に出ること自体が間違っている。

しかしふたつめの「ミス」はそれほど重大な欠陥ではない。このような「ミス」を恐れて思い切った身体の使い方あるいは表現が損なわれてしまうのはいかにも惜しい。

しかし審査員は厳しいから演奏のある時点で「思い切った表現の出来ない奏者」というような見切られ方をされてしまうとその時点で終わりである。

ただし、いくらでも音を間違っても良いということではない。

要は少しくらい音を間違っても聴き手の興味をひきつけておくことの出来る奏者と、全く音を間違わないのだけれど、聴き手の興味をひきつけるチカラの弱い奏者がいるということだ。

広義の「演奏技術」

2011-05-09 | リコーダー奏法
広義の「演奏技術」という言葉には「判断力」も含まれると考えてみてはどうだろうか。

その場合の判断力というのは自分自身の感受性が目的の楽曲に対して敏感であるか、それとも鈍ってしまっているのか、ということを判断出来るための能力でもある。

この「判断力」がうまく機能していれば、しかるべき時に集中的に練習したり、あるいは意識的に練習しない期間を持つというような制御を奏者自身で行うことが出来るのではないだろうか。

本当に良い演奏のためには練習しない期間の存在が絶対に欠かせない。ただし全く練習しないということであれば、それは演奏そのものが成り立たない。難しいところである。


演奏を熟成させる期間

2011-05-09 | リコーダー奏法
出来れば大事な演奏の前にはしばらくその曲を全く練習しないでおく期間が欲しい。
演奏そのものを「熟成」させる期間である。

ただし「熟成」期間があまりにも長すぎるとその曲を忘れてしまう危険もあるし、その曲に特有の指の動かし方などがおぼつかなくなることも有り得る。この点、熟成期間を演奏のどのくらい前にどの程度の長さ設けるのか、ということはデリケートな問題だ。

職業的な奏者の場合、このような悠長なことは言っていられない場合もあるけれどもそれでもやはり、出来るだけこのような考え方はあって欲しい。

ここで問題になるのはやはり「暗譜」のことだ。暗譜はあくまでも演奏をよくするための手段にしか過ぎないのであって暗譜そのものこと自体が練習の目的となってしまうとおかしなことになる。
ただやみくもに練習量を増やすだけでは暗譜は出来るかもしれないが、演奏にとって最も大切であるところの奏者自身の感受性あるいは即興性が損なわれる危険がある。

このためにも出来るだけ早い時点で暗譜を終えてしまい、適当な時期に熟成期間をおいてから演奏の直前に軽く1回か2回通す程度で本番に臨むというような感じが良いではないだろうか。

ひとつの例としては次のようなものはどうだろう。

*2週間前に暗譜を完了
*暗譜を完了した時点で誰かの前で本気で演奏してみる
*暗譜完了後は10日間は熟成期間(この期間内にはその曲は練習しないし、その曲のことも考えない。ただし目的の曲以外の曲は積極的に練習したり演奏すること)
*演奏の3日前には誰かを審査員あるいは聴衆とみなして本気で演奏
*演奏の2日前、そして直前の日には再び熟成期間(その曲の練習はしないが、頭のなかでイメージはしても良いし、もちろんしなくても良い。この期間には目的の曲以外の曲であれば積極的に練習したり演奏したりしても良いが、場合によっては楽器に触ること自体をやめてしまったほうが良いかもしれない)
*本番

これは単なるひとつの例にしか過ぎない。
このようなスケジュールを立てた場合、演奏する2週間前には全て仕上がっている、ということが条件になる。もしかしたら10日間の熟成期間は長すぎるかもしれない。状況によってもちろんこの期間は適当に調節されるのが良いかと思われる。

熟成期間の目的は奏者自身の頭を冷やすことによって奏者自身のなかに目的の曲に対する新しい感受性を育てることである。

どんなに指やあるいは発声器官がうまく働いたとしてもそこに奏者自身の感受性が働いていなければ演奏自体はつまらないものに堕してしまう。
この場合には「うまいんだけど、全然面白くない演奏」になる。
このような状況はなんとしても避けなければいけない。

重要な演奏の機会であればあるほど、熟成期間が大きな意味を持ってくるはずだ。場合によっては熟成期間が10年あるいは20年必要な楽曲さえ存在するように見える。音楽の歴史上にはそのような曲があるように見える。
西洋音楽の底知れぬおそろしさだ。
そこには西洋の音楽というものを作り上げた巨大なチカラが顔をのぞかせている。

すべからく演奏というものはこの巨大なチカラの存在を現代の聴衆とわかちあうための儀式のようなものではないだろうか。

頭を冷やす

2011-05-09 | リコーダー奏法
大事な試験やコンクールの前にはいきおい、練習量が増えてゆく。
しかし、練習量が増えることには重大なデメリットがある。

その曲に対する感受性が鈍くなってゆくということである。つまり練習すればするほど、その曲に対して悪い意味で慣れてしまい、当初の新鮮な感動がどんどんうすれてしまうのだ。

これは絶対に避けなければならない。機械的に演奏されるような音楽を聴かされるほうはたまったものではないし、何よりもそれはその奏者自身にとってあまり意味のある時間ではない。いや、ほとんど意味がない。

最初から非音楽的に作ってあり、奏者自身のメカニックな側面を鍛え上げるという目的だけに作られたような練習曲であれば少なくともある段階までは練習すればするほど良い。

しかし音楽作品は別だ。
何故ならばそこには奏者自身の感受性が働くという要素が必要不可欠だからである。

練習のし過ぎは時として奏者自身の感受性をだめにしてしまう。
大事な演奏を控えた奏者にとってはよくよく考えなければならない事柄である。

ただし曲が仕上がらない場合にはもちろん練習しなければならない。ただし、その練習の方法が問題だ。

ひとつの曲だけをあまりにも長い期間に渡って練習すると、このような症状が起きやすいことを経験している。どんなに優れた楽曲であっても、音楽史上の名曲であっても、奏者自身の感受性が鈍ってしまった状態では良い演奏など望むべくものない。

多分、人間の身体とか脳はあまりにも長い期間、ひとつのことだけを行うようには出来ていない。そこには変化という要素が必要不可欠だ。

演奏そのものが変化しなくなりはじめたら、それはもう頭を冷やさなければならない潮時なのではないだろうか。

奏者であれば最高の方法のひとつはやはり異なる曲を練習することだ。そのことによって脳がリフレッシュされるし、いったんリフレッシュされた感受性であれば、もう一度、当初から取り組んでいた曲について新しい発見があるかもしれない。

感受性を鋭くしておく、という目的のためであれば、本当は演奏の前のある期間には目的の楽曲を一切、演奏しないということさえ考えられるはずだ。

これは試験や演奏会の前にはその楽曲の練習量を増やすのではなく、逆に減らす、あるいは全く練習しない、という方法によって奏者自身の感受性を高めるということを意図するものである。

とにかく身体を

2011-05-05 | リコーダー奏法
とにかく身体を鍛え上げるというのがその楽器の初心者の心がけるべきことである。
脳も身体の一部であるわけだから、とにかく全身を鍛えなければいけない。

特定の楽器は特定の身体を要求する。非音楽的な練習曲はそのような身体を作り上げてゆくためには最良のものだ。それは筋肉、反射神経、触覚、聴覚、耐久力、といったあらゆる能力を鍛え上げるために出来ている。

非音楽的な練習曲がなければ作れば良い。それは単純な音階や分散和音の連続なのだが、音楽的な事柄をそこでは一切、考える必要がないために奏者はまるで自分自身を一人の競技者として訓練しているかのような場に置く事ができる。

ピアノのハノンにあたるものがリコーダーでは多分、シュテープスの「毎日の練習」のようなものであると考えられるが、筆者にとってはこれなどはまだまだ音楽的過ぎるように思う。もっと単純な肉体トレーニングのような練習曲があって良いのではないかと思う。 

いったん身体が出来上がってしまった奏者はことさら、このような練習曲に取り組む必然性は薄くなってしまう。それまで身体を造るために費やして来たエネルギーは少しずつ音楽そのものを学ぶためのエネルギーに方向転換させてゆくことも出来る。

ただし、いかに初心の奏者と言えども肉体を造ることばかりに気をとられていては音楽的な伸びに支障が出てしまう。まだ強靭ではないが、そのような状態でも演奏出来る音楽的な教材に取り組むのは必要不可欠ではある。

*非音楽的な練習曲の価値は高い。起きぬけで全く身体も気分も音楽に取り組むべき状態ではないけれど、それを活性化させるという働きがある。つまり「非音楽的」な音の連なりが、奏者自身の内側に内在するところの表現意欲をも活性化させる働きがあるのではないだろうか。

*ある程度の期間、非音楽的な練習曲を続けていると明らかに自分自身の肉体がより強靭な方向へと変容しつつあるのを感じることが出来るはずである。逆に言えば、自分自身がそのような方向へと変化しつるあることを感じられないようではそのような訓練を行う意味がない。