吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

生きてたら

2016-01-30 | 音楽制作覚書
ダダダ、ダダダダン♪ ♪
ダンダン♪ ♪

生きてたら良いことあるんだな、って思うのだ~♪
なんだかとてもそういう風に思うのだ~♪
つらいこととか、そういうこともそうだけど、サミシイことが多いなかでも、やっぱり嬉しいことは嬉しいのである~♪

歳とってくると、なんだか一年中、ひと恋しいのであるぞよ~♪
でも、そんななかでも良いことあるのであるぞよ~♪

自然治癒力とか~♪

その辺の道端ですごい着物美人がどんどんこっちに寄って来て声をかけてくれたと思ったら、昔の教え子が立派に大人の女性になってたりとか~♪

とりあえず歯が痛くなったら、保険で治してもらえたりとか~♪
歯医者の歯科衛生士のお姉さんがきれいな人だったりとか~♪

コンビニで挽き立て珈琲いれてくれて「どうぞ」って言ってくれたお姉さんが僕のほうみて、ニッコリ笑ってくれたりとか~♪

雪ダルマがとけかかった顔してて面白かったりとか~♪

たまには良い曲が書けたりとか~♪

火鉢で焼肉したらすごく美味しかったりとか~♪

ダダダ、ダダダダン♪ ♪
ダンダン♪ ♪


素材そのものの良さ、強さ、

2016-01-21 | 音楽制作覚書
素材そのものの良さ、強さ・・・・・
最後は結局、このあたりにゆきつくのではないだろうか。

だからといって、伝統的な勉強しなくても良いということではないけれども・・・・

本当に良い音楽って、分析しても、しても、最後の最後は分析を拒否するようなものすごく強度の高い何がある。それはもうあまりにも純度が高くて強いので、なまはんかな分析じゃ全然、歯が立たない。

まてよ・・・・

とするならば、生半可じゃない分析ならば歯が立つのだろうか!!!???

そもそも、「分析」(楽曲分析)という在り方そのものが西洋の古典的な音楽理論の上に成り立っているわけで、少しでもその領域から外れてしまった音楽にそのような手法が常に応用できるとは限らない。

音楽を作ること(演奏、作曲、両面において)、それはとどのつまりはどのくらいのクオリティの素材を準備できるのか、ということに尽きる。
多分、そうなんじゃないだろうか。

音楽に触れて「やられた!」
っていう感覚はもしかしたら、すごく魅力的なオンナの人に出会った時の感じと似てる。

理由はない。
良いものは良い。
圧倒的に良い。

それ以前の人生と、その後の人生が違う。
出会う前と、出会う後と。

素材の良さ、って多分、少なくとも、聴き手に対してこの程度の影響力は軽く備えているはず。
それこそが本当の素材の良さなんじゃないだろうか。

P.S.
このあたりのところから、いわゆる「対症療法」的なレッスンとは何かということを考えてみるといくつかのことが見えて来そうだ。

**さがなくても***らしきものは作れる。。。

2016-01-21 | 音楽制作覚書
**さがなくても***らしきものは作れる。。。経験上。
でも、それが*******ものであるのか、どうか、これはもう*********

でも**さがなければ****ということになってしまえば、それはもう**としての****が******


単純な美しさ

2016-01-21 | 音楽制作覚書

「単純な美しさ」って一番、難しい。
普通はなかなかそういうことが実現できないから、「構造としての美しさ」とか、そういう方向に逃げてしまうことも多いのではないだろうか。

本当に直接、心に迫ってくるものって、そのほとんどが「単純な美しさ」を備えている。一見、複雑な構造を備えているようにみえたとしても、本当のところはやっぱり単純。

そうなんじゃないだろうか。

でも、もちろん理論的なことが不要とか、勉強しなくても良いとか、そういうことではないのだけれども。


うたごころ

2016-01-21 | リコーダー奏法
うたごころ、結局のところ、このようなものがやっぱり大事なのではないかと思う。

リコーダーはちょっと強く吹いたり、弱く吹いたりするだけでピッチが変わってしまうから、かなり熟達した奏者であっても、やっぱり楽器の特性に合わせて自分自身のイメージを楽器の特性に合わせてしまうことが多いのだとしたら、やっぱりそれはちょっともったいないことなのかもしれない。

だからとってダイナミクスにあわせてピッチが大幅に上下するような演奏はダメだ。

でも、やっぱりそこにうたごころみたいなものが必ずなければ、何が言いたいのかよくわからないような演奏になってしまう(そもそも、何が言いたいのかよくわからないというのは演奏と言えるのだろうか???)

でもリコーダーの場合、このような危険と常に隣り合わせだ。多分。

替え指とか、スライドとか、シェードとかそういう奏法もあるけれど、それらは必ずしも常に問題なく使えるとは限らない。音域とか、その前後にある音とか、その音がフレーズのどの位置にあるのか、というような状況次第でそのような音程修正の技法は常に使えるとは限らない。

自分自身の限界をあまり下のほうにしてしまわないこと。
必要とあれば、最高に表現的な歌い手と同じくらいのなにか(とどのつまりは旋律を旋律らしく奏するということ。しかし、リコーダーという楽器にとって、これほど難しいことがあるだろうか!!!???)が出来る奏者なんだ、と自分自身を自分自身で思うこと。

自分自身の可能性を最大限に高いところに置いておくこと。
自分にはかなり、すごいことが出来るんだ、というとらえかたをしておくこと。

アマチュアだからこの程度で良いとか、そういう捉え方ではなく。
歳とって始めたんだから、この程度で良いとか、そうじゃなくて。

繰り返し書いておきたいけれど、替え指とかスライドとかシェードとか、そういうものは単なる技術にしか過ぎない。問題はそれらをどのように使うのか、ということだ。(ということは言い換えるならば、どのようにしてそれらの技法を使わない判断を下すことが出来るか、ということでもある)


多層的なコンテキストを提示

2016-01-06 | 音楽制作覚書
芸術的な作品を作る際には「多層的なコンテキストを提示」することが重要と言われる。

それはそうなのだろう。

でも、そんなの知ったこっちゃない、という在り方だって可能だ。