吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

2023年12月8日の”メディテーション”

2023-12-17 | 読み物
勤務先の大学で担当している授業のひとつに、合奏(リコーダー)というものがある。

教職課程の必修科目である。普段は声楽やピアノ、管弦打楽器を専攻している学生諸君が週に1回、この授業を履修する。
後期だけの授業なので15回の授業のなかだけで基本的なリコーダー奏法とレパートリー、そしてアンサンブルの方法について学ぶというものだ。

後期の授業も残すところあと5回というところまで到達したのが12月8日の金曜日だった。

授業開始は10時50分。
ひとしきり基本的な音階や分散和音、イントネーションを合わせる練習や、今までに授業のなかでやった曲を練習した。
ここまではいつもの授業と同じ。

授業は12時20分まで。
ちょうど12時が少し過ぎた頃に僕は学生諸君に向かって言った。

「20世紀を代表する日本人作曲家のひとり、廣瀬量平が1975年に書いたメディテーションという曲がありますが、これを聴いてみたい人は居ますか?」

学生諸君はしーんとしてた。
それはそうだろうと思う。
もしかしたら、廣瀬量平という作曲家の名前を知らない人も居るだろうし、ましてやいきなり「メディテーション」などと言われても戸惑うだろう。

僕は学生諸君にメディテーションの楽譜を見せた。
小節線もなく、なにやら見慣れない記号や図形が沢山並んでいる。

楽譜を見せながら、20世紀にリコーダーが復興して来たこと、ちょうど時期を同じくしてヨーロッパだけではなく、日本でもルネサンスやバロック音楽の復興と並んで現代的な作品が書かれ始めて、そこには当時の西洋音楽の最先端だったであろう図形楽譜や偶然性といった考え方、そして日本の伝統的な横笛や尺八の奏法が取り入れられていることなどなど、そんなことを話した。

学生諸君はそれでもまだまだ、あまり興味なさそうだった。

でも、もうそれは良い、と僕は思った。

授業の大きな目標は基本的なリコーダー奏法を習得することにあるのだけれども、そのためにはやっぱり、リコーダーとはどんな楽器なのか、どんな可能性を秘めた楽器なのか、ということを学生諸君に知って欲しいのだ。

僕は言った。なるべく感情を入れないようにして、冷めた調子で。
「はい。授業中だけど、今日はこれからミニコンサート。曲は廣瀬量平のメディテーション。メディテーションの意味は瞑想。ミニコンサートだから演奏が終わって、良いな、と思ったら遠慮しないでわ~~~っと拍手ください。管楽器専攻の人はこっちに来て楽譜見ながら聴いてください」

演奏した。
多分、演奏時間は多分、5分ちょっとくらいの間。
でも最後の音が終わってから、自分で言うのも何だけれど、ものすごくカッコイイ無音の時間があった。

教室の外からかすかに、遠くを走る車の音や、鳥の鳴き声や、学生諸君の誰かの椅子が動いてきしむ音がした。

そして、なんだか言葉にするのがもったいないような学生諸君の拍手が起きた。
そこには何か大切なものがあった。

僕も思わず拍手をしてしまった。
拍手をしてくれた学生諸君に対して。
そして曲を作ってくれた今はなき廣瀬量平先生に対して。
そして、その時間と空間に対して。

すごく、口はばったいのだけれども、祝福された空間というのはこういうものなのではないかと思った。

でも今、思い返すと、拍手をしてくれている学生諸君に向かって拍手をしている僕はまるで呆けたような、間抜けな顔をしていたのではないだろうか。
テレビで芸能人みたいな人が沢山、出演するような番組で、それぞれの出演者が紹介される時に、自分が紹介されて、自分で拍手をする芸能人を見て、「バカみたい」と僕は思っていた。

でも、僕自身がそうなってしまった。
皆の拍手につられて僕も拍手してしまった。

昔、昔、そのまた昔、日本列島には人があんまり住んでいなかったので、道端で人に会うと、互いに手を叩いて喜び合ったと聞いたことがある。
もしかしたら、ほんの少しだけ昔の日本人の気持ちに近づくことが出来ただろうか。
でも、そのきっかけは1975年当時、時代の最先端をゆく前衛音楽 廣瀬量平作曲 無伴奏リコーダーのための「メディテーション」

もうずいぶん長い間、この楽器を演奏して来た。

でも「メディテーション」はしばらくずっと吹いてなかった。
なんだか、この曲、おどろおどろしい曲だと、僕は思い込んでしまっていたのだ。

でもそうじゃないのかも。
僕はこの曲を長い間、読み取り損なっていたのだ。

2023年12月8日、その場に何かのチカラが降りて来て、「メディテーション」と再会した日。

追記:再会する、ということは自分自身が新しく生まれ変わることと似ているのだ

守安 功  雅子 Our Favorite Things in2023 

2023-01-26 | 読み物
先日の1月22日(日曜日)、東京は武蔵野スイングホールにて ”守安 功  雅子 Our Favorite Things in2023” が開催され、僕は聴きに行った。
何曲か演奏もさせてもらった。その時の模様を書いておきたい。

きっかけはこのところ自分のレパートリーが固定化されて来てしまっているのが自分でも気になり、とにかく様々な音楽を沢山聴きたいと思い、日本のアイリッシュミュージックの第一人者、守安功氏(以下守安さんと呼ぶ)のCDをインターネット経由で注文したことだった。
事務所の受付みたいな人が返信してくれるのだろうかと思っていたらなんと守安さんから直接、返信をもらってしまった。

彼とは20代の頃に何回か共演させてもらったことがあった。
しかし、僕はなんだか守安さんに対しては「取って食われそうだな」と思い込んでいたのだった。

リコーダーの演奏技術では負けてはいなかったとは思うけれども、それ以外が全く勝ち目のない感じだったのだ。
まず、背の高さと、顔で負けている。それは仕方ないと思う。
問題は頭の回転の速さでも負けていた。それもまあ、仕方なかった。

もっと問題なのは、弁舌のさわやかさである。これは仕方ないとはいえ、なんだか悔しいのである。
未だに悔しいけれども、もうそれは仕方ないのである。

年をとると良いことがいくつかあって、それは諦めが良くなることである。
もうそれらは良いことにする。

守安さんの事務所の受付の人ではなく、守安さんからいきなりメールをもらった僕は、また取って食われそうになるのはやだな、と思いながらとにかく返信の返信を書いた。
なるべく事務的に済ませたかったのであった。

だって、若い頃、取って食われそうな人から、もう何十年もたってからまた食われそうになるのは嫌だもんね。

守安さんの返信にはCDの代金はいらないとあった。
それは困る、と僕は思った。だって事務的にかたづけたいわけだから。こっちは。

数日したらCDが送られてきた。守安さん、そして雅子さん(ハープ、コンサーティーナ、バウロン奏者)の一番新しいCDがふたつ。
CDは悔しいけど、凄く良かった。

問題は、CDと一緒にコンサートのチラシが入っていたことであった。
CDが届いた旨のメールを守安さんに送ったら、返信に1月22日のコンサートを聴きにいらっしゃいませんか、とのことが書いてあった。

どうしようかな、と思った。
届いたCDは凄く良い。とにかく今まで僕が聴いたことのある様々な笛の音楽のなかでも指折りのものだった。CDでは守安功さん、そして雅子さんの演奏がそのまま録音されている。聴けるものなら生で聴いてみたい!
しかも、1月22日には僕の大好きなヴィオラ・ダ・ガンバの演奏もあるみたいだ。アイリッシュダンスや、歌など、とにかく楽しそうだ!

しかし東京は遠い。
その日には教室の振替レッスンが入っていた。
どうしようかな、と思っているうちに守安さんからほぼ1日おきくらいにメールが届くのであった。怒涛のメールであった。

困ったことに、かつ嬉しいことに、守安さんは僕のユーチューブを聴いてくれていて、めぼしい曲について、これまた嬉しい感想を寄せてくれるのであった。

とどめは「ララバイは女泣かせの名曲」なんだと。

ううう、今までこの曲のことほめてもらったことあるけれど、こんなほめられ方経験なかった。
しかも、1月22日のコンサートでララバイ演奏してみませんか、ときた。

これでとどめをさされた僕は東京行きを決めた。
振替レッスンも何のその。

~~女泣かせの名曲を吹いてと言われて吹かずにいらりょか、オトコがすたる~~

やがてコンサートの日がやって来た。
朝8時35分鹿児島空港発の羽田行きスカイマーク便で東京に向かった。

目指すはJR中央線武蔵境駅北口徒歩2分の武蔵野スイングホール。
とにかく、ここで僕は守安さんをひっくり返すような良い演奏をしなければならない、と意気込んでいた。
何故ならば若い頃は逆立ちをしても勝てない相手であり、しかも、一歩間違えたら取って食われてしまっていたかもしれないからなのである。

ことあるごとに、僕の耳には「守安さん、アイルランドでCD発売したらしいよ」とか「アイルランドのテレビで守安さんが特集された番組が作られたらしいよ」とか「オキャロランの作品集作ってるらしいよ」とか「また新しい本書いたらしいよ」とか、そういう話が飛び込んで来ており、その活躍はいやおうなしにも目にせざるを得なかったのだ。

鹿児島で開催された守安さん、雅子さんのコンサートを聴いたけれども、それはもう言葉にならないほど素晴らしかった。
でも、その頃の僕は本気で悔しがっていたのだ。今、思うと青臭いというか、バカみたいである

ヨーロッパのリコーダー奏者には誰ひとりとしてこういう思いを抱いたことはないけれども、守安さんだけにはそうなってしまうのだった。


鼻息荒く、僕は武蔵野スイングホールに到着した。
勢いあまって当初の予定より1時間も早く武蔵境駅についてしまった僕はそのあたりをうろうろ歩きまわることにした。

鼻息は荒かったが、腹がぐ~ぐ~鳴り出した。
武蔵境駅前にある、なんとか水産という和食の店で腹ごしらえをした。
煮魚の定食をがっつり、御飯大盛り、味噌汁お替りでようやくエネルギーが充填されて来つつあった。

煮魚の小骨を真剣な顔で取り除きつつ、御飯と一緒にちょっと甘辛い味付けの魚をほおばり、味噌汁をぐびぐび飲み込んだ。
ついでにコップの水もごっくんごっくん飲み込んだ。


準備万端とあいなった。


しかし、それでも時間が余ってしまった。
仕方がないので、そのあたりをぐるぐると歩き回ることにした。

まだまだ時間があまっていたけれども、歩き回ってばかりいても、本日の舞台に差し支えてはいかん。

意を決して武蔵野スイングホールに向かった。
13時25分ほどであったかと思う。

なんとそこでリコーダー奏者大塚照道さんと遭遇した。
鹿児島出発、飛行機、羽田からのモノレール、JR中央線、武蔵境駅前のなんとか水産と言う和食の店を経て、そのあたりをぐるぐる歩き回りながら、いよいよ鼻息の荒くなってきた僕は、若手リコーダー奏者大塚照道さんとばったり会った。彼も守安さんのコンサートを聴きに来たらしいのだった。

大塚さんとは昨年の12月に鹿児島で共演させてもらって、その潤滑油のようなキャラクターに僕は惚れこんだ。
スイングホールのロビーでしばし大塚さんと談笑していたら、いきなりホールのドアがあいて「お~、お~、よしみねくん、ようこそいらっしゃいましたぁぁぁ、中にどうぞ~~~」と言って声をかけてくれたのは守安功さんであった。

ここはひとつ、落ち着いた風情で大人っぽく振る舞わなけばならぬ、と瞬間的に判断した僕は大塚さんととりあえず挨拶を交わした後、演奏会場に入った。
守安さんは「会場の響きでもチェックしてくださいね」と優しかった。

そうなのである。彼は紳士的なのである。ただし演奏となると、凄く激しくなったり、彼は横笛も吹くのだけれど、これがまた素晴らしく、僕には絶対に実現できないような節回しがあって、それはもう彼だけのものなのだろう。
守安さんは自分のリハーサル、そしてゲストの方々のリハーサルは終えて、演奏前の準備をしている様子だった。

ロビーではなにやら楽し気な音楽が鳴り響いていた。
横笛と小型のアコーディオンで踊りの音楽らしきものを奏されている風だった。

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やがてコンサートが始まろうとしていた。
しかし、主役の守安さんは相変わらず舞台でなにやら、ゴソゴソやっている。
ロビーではまだ音楽が鳴っているみたいだったし、開演直前にいらしたお客さんと、守安さんは舞台越しに挨拶したりしている。

鹿児島の時の守安さんの演奏会を思い出した。
確かにこんな感じだった。
クラシックの演奏会とはこういう点が全然違うのだろう。

やがて開演5分前から「前座」の人の演奏が始まった。
中学2年生くらいの年頃に見えた娘さんがホイッスルを演奏した。
ドリア旋法の曲だったと思う。
守安さんは横笛で、そして雅子さんがアイリッシュハープで伴奏した。

不覚にもそこで涙腺がゆるんでしまった。そこで演奏される何かが僕の深いところに到達して来たような感じだった。
これは職業的に音楽に携わっている自分としては、不覚以外の何ものでもなかった。

だって、涙腺がゆるんでなんかいたら、適格な判断が出来なくなってしまうではないか。

瞬間的にその場で一番ふさわしい判断をしながら演奏したり、曲を書いたりするのが職業的な音楽家の務めだと訓練されて来た。
今でもそう思う。
少なくとも仕事で音楽やってるんだったら冷徹無比。これしかない。

(ただし、それがプロとかアマチュアとかいう枠を超えたところで、つまりただの音楽家として、どう働くべきなのか、それについてはいろいろな考え方が有ろうかと思うけれども)

不覚の瞬間はその度ごとに何回もやって来た。

歌う方が舞台でサリーガーデンやアメージンググレースを歌ってくれた時はそうだった。

守安さんは鹿児島からわざわざやって来た僕のために、18世紀初頭にロンドンで出版されたディヴィジョンフルートに収録されているリコーダーの曲を演奏してくれた。
最前列の席に座っていた僕の前で、舞台の一番前のところで守安さんは僕に向かって吹いてくれたのだった。

白黒つけてやろうじゃないの、なんて考えていた僕はすごく恥ずかしくなった。
同時にまたまた涙腺がゆるんで来てしまいそうになって困った。

一応僕はプロの奏者だから、必死に顔面の筋肉を緊張させて頑張った。

ここだけの話とは言っても、もうブログの読者の皆さんには、ばれてしまう話なのだけれども、20代の頃はすごく人と人のつながりが濃かった。もう40年くらい前だ。皆そうだったんじゃないだろうか。
僕はすごく煮え切らない若者だったので、守安さんは僕に対して、便箋で12枚くらいの手紙をくださったことがあったのだった。

そこには守安さんが考える音楽家としての在り方とか、当時の僕に必要なことが何なのか、ということを熱く書いてくださっていたのだった。
思えば熱い時代だった。
皆、熱かった。
変わった人も面白い人も沢山いた。

携帯電話もインターネットもなかった。
電話を持っていないアパート住まいの若者はその辺の公衆電話から電話するしかなかった。
駅で待ち合わせしても、携帯電話なんか誰も持っていなかったから、駅の掲示板に「おれは1時間も待ってたんだぞ!怒ってるぞ!もう帰るからな!」なんていうことが書かれたりするそんな時代だった。
まとまって伝えたいことは皆、手紙を書いて郵便でやりとりするしかなかったのだった。

その頃、彼女の家に電話したら間違って親父さんが出て来て「君は一体だれかね?」とか「娘に何の用かね?」とか電話の先で詰問されて公衆電話ボックスのなかで電話機に向かって必死で自己紹介したり(以下 略)
昔は携帯電話なんか誰も持っていなかったので仕方がなかったのである。

守安さん、雅子さんがアイルランドを旅していた頃もそういう時代の最後の時だったのだろうと思う。

2023年、1月22日、前座の娘さんのホイッスルで不覚にも涙腺がゆるんだ僕はかなり涙腺の弱った状態で「ララバイ」を吹くはめとあいなった。
涙腺だけではなく、鼻水もずるずる来てしまっていた。

非常にまずい状態であった。

「オンナ泣かせの名曲」のはずだったが、しかし、自分が泣いてちゃ話にならんので、そこは、しっかり、自分としてはキリっと気分を引き締めてなんとか演奏出来たのではないかと思う。
ララバイの演奏中に鼻水たれてこなくて良かった。

コンサートは14時と18時の2部構成であった。
それぞれが休憩をはさんで2時間半ほどの長さだったと思う。
ひとつのコンサートが始まってから終わるまで2時間半というのはかなり長い。

これもアイルランド的なのかもしれない。
何しろ守安さんいわく、80年代、90年代頃まではアイルランドではコンサートとはいっても、チラシに開演時刻の表示がなくて、19時に始まるのだろうと見当をつけて、そこに行っても誰もいなくて、20時になっても誰もいなくて、ようやく21時とか22時頃から演奏が始まって、たっぷり演奏したらそれから1時間くらいたっぷり飲んで、それから朝の2時、3時頃までまたまた、たっぷり演奏する、というそういうスタイルが日常的にあったとのこと。

今はもうどこにいっても規格化された同じような音楽になってしまったのかもしれない。

でも、2023年、東京は武蔵野スイングホールにあの頃の目撃者としての守安さん、雅子さん、そしてその当時の事を知るゲストの方々によって、それは確かなものとしてその空間に現出していたのではないだろうか。
コンサートでは印刷されたプログラムはなく、守安さんが舞台上で、「次は***ゆきましょうかぁ~」と一声かけると、ゲストの方々はそれに応えてささっと準備をして演奏。

そしてゲストの誰かが、なにか筋書きにない曲を演奏したがっている様子があると、守安さんはそれをキャッチして「よ~し、その曲でゆきましょう」と声をかけたり。
おおまかな筋書きみたいな流れはあったのかも、と推測するけれど、それでもかなりの割合はその場の空気の変化や演奏者の状態によって守安さんが作って行ったように見える。

反対の意味で涙腺がゆるくなったのは守安さん自身が作曲した「鶏卵丼」組曲というものだった。
京都のある店に、玉子を使った美味しい丼料理があるそうなのだが、それにちなんだ3楽章形式の作品となっていた。

それぞれの楽章にはモチーフとなる音型が仕込んであり、その音型の詳しい解説が作曲者である守安さん自身によって舞台上で語られるのだが、これが絶妙の話術で最高に笑えるのだ。
とにかく彼の作曲した「鶏卵丼」組曲の解説は最高で、会場内は爆笑の連続だった。

しかも、さらにすごいのはそこには演奏だけではなく、4人のダンサーによる踊りまでついて来ているのだった。
こんな贅沢な演目を味わえる機会はそうそうないのでは。

でも、これ、英国とアイルランドのバロックでも伝統音楽でもない・・・
だって鶏卵丼がテーマの曲というのは・・・・・そもそも鶏の卵の丼料理とヨーロッパの伝統音楽や、バロック音楽に何の関連があるのだろうか???

でも、それも、かつてのアイルランドのパブみたいな在り方なのかもしれない。
僕は80年代のアイルランドのパブに行ったことはない。
なのでその場の空気がどんなものか知らない。

でも筋書きにないものが突然、現れたり、そのことがきっかけて物事が想像をはるかに超えた展開をしてゆくのは演奏会だけではなく、僕らの人生がまさにそうなのだ。
もしかしたら、1月22日に東京は武蔵野スイングホールで現れたのは80年代のアイルランドのパブに象徴されるところの、もう今はなき最後の時代の空気だったのではないだろうか。

ほんの少し前まで、多分、80年代もしくはギリギリ90年代くらいまでは今の管理化された社会の前に生きる人々がまだあちらこちらに居たのだろう。
当時のアイルランドもパブでも、筋書きにない演目が突然、登場するのは日常的に起こり得ることだったのではないだろうか。

泣いて笑って圧巻の2時間半の演奏が2回。合計5時間。
2023年1月22日の ”守安 功  雅子 Our Favorite Things in2023”は終わった。

ゲストの方々によるヴィオラ・ダ・ガンバ、バウロン、コンサーティーナ、アコーディオン、ホイッスル、アイリッシュフルート、リコーダー、トラヴェルソ、歌、ダンス、そして守安さん、雅子さん。

あの時間と空間はもしかしたら夢だったのだろうか?
でも、まだ余韻が残っている。
ほっぺたつねってみる。ちゃんと痛さが伝わって来る。夢ではない。

ひとつの旅の終わり、そこには別れがある。でもそれはまた新しい旅の始まりでもあるのだろう・・・・

「光」のこと

2022-03-26 | 読み物
既存の楽曲のなかには極めて強い「光」のようなものが内在しているものがある。
今の測定装置では計測することが出来ないので、それはなかなか客観的なものとしては認められにくい。

ただし、その楽曲がふさわしい状態で演奏された時にはその空間そしてそこに居る全ての人々ががなにかこの世ならぬものによって祝福される。
その時には必ず「光」のようなものがその場に立ち現れる。




壁のなかの柱

2021-12-30 | 読み物
壁のなかにある柱は傷だらけだ。
横から来ている木がはまるための穴が開けられていたり、溝が彫られていたりする。
釘が沢山刺さってその柱のなかで錆びついていることもある。
 
カンナがかけられて綺麗なわけもない。
接着剤みたいなものが無残にくっついていたりもする。
フェイスブックでいいねをもらうこともない。
気晴らしにドライブすることもない。
綺麗な女の人から「あなたって素敵ね」なんて言われることもない。
酒飲んで、うさはらすこともない。
臨時収入がはいって「うひょ~、何使おうかな!」なんて喜ぶこともない。

誰からも見向きもされず、ありがとうの一言ももらえず傷だらけになりながら何十年も壁のなかで家の重みを支えて居る柱。

(2021年12月30日)


無伴奏テナーリコーダーのための「阿修羅」作曲イメージ

2020-02-05 | 読み物
曲作りのイメージために短いお話を作ってみました。
2月11日、13日の演奏会プログラムIのなかの曲目「阿修羅」について。

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昔、昔のお話です。
あるところに阿修羅というオトコがおりました。

乱暴、狼藉の限りを尽くしていたので、世間の人々からは大変、恐れられておりました。

似たような歳格好のオトコをみつけてはいつも戦いを挑んでおりました。

戦いだけならまだ良かったのですが、畑を荒らしてみたり、田んぼで実ろうとしている稲をむちゃくちゃにしたり、とにかく乱暴なことばかりしておりました。
世間からはたいそう恐れられ、嫌われておりましたが、阿修羅は人間でもなく鬼でもない、という哀れなオトコだったのでした。

ある日、銀河鉄道999のメーテルみたいな女の人に出会ってそのあまりの美しさに恋をしました。

メーテルは美しい娘でしたが、まわりのオトコたちから全然アプローチされないのが悩みでした。

「あたしはなんでモテないのかな。。。魅力ないのかな」とメーテルはいつも思っておりました。
オトコの常としてやはり美人を目の前にすると足がすくんでしまって声をかけられないということもあったのかもしれません。

そんな時に阿修羅と出会ったのでした。
乱暴者でありましたが、ぐいぐい引っ張っていってくれる阿修羅のことが好きになってゆきます。
なにしろデートの場所も日時も全部阿修羅の好きなように決めてしまうので、メーテルはそんなところにも惹かれていったのでした。

メーテルの女友達は言いました。
「よしなさいよ。あんなオトコ。喧嘩してるだけじゃないの。うわさによると畑や田んぼを荒らしまわったり、そんなこともしてるらしいわよ。ろくなオトコじゃないわよ。ダメ、ダメ、絶対ダメ。刑務所から出て来たっていう噂もあるみたいよ。結婚したらいろいろ物入りなんだから。国民年金とか、電気代とか、携帯電話料金とか、ガス代とか水道代とか。消費税だって上がっているし。あんなオトコと一緒になったってダメ、ダメ。オトコは経済力がなきゃダメ。喧嘩してるだけじゃダメ、ダメ」

「でも。。。。あたしみたいなオンナを好きになってくれるんだから・・・・」

やがてふたりは結ばれるのでした。
しかし幸せな時間は長く続きませんでした。

しょせん違う世界に住む者同士だったからです。
阿修羅は喧嘩、そしてメーテルは星の世界の住人なのでした。

別れの日がやって来ました。
「阿修羅、あなたと居られた日々は楽しかったわ。元気でね。あたしのこと忘れないでね」
「メーテル・・・・・」
M999星雲からやって来た宇宙軍団がゆっくりと降りて来ました。
そこから不思議な光がでて来てメーテルが宙に浮いてその宇宙船のひとつに入ってゆきました。
阿修羅は戦うオトコなので金棒を持って宇宙船に立ち向かおうとするのですが、なにしろ相手は空の上に居るので得意の金棒も届きませんでした。
仕方がないので弓を持ってきて、宇宙船を落としてやろうと試みましたが、腕自慢の阿修羅の弓から放たれた矢も宇宙船には届きませんでした。

長い年月がたちました。

風のうわさにメーテルが死んだ、ということが阿修羅の耳に入ってきました。

阿修羅もだんだん歳をとって来ました。
昔のように乱暴、狼藉を働くことのできる体力もなくなって来ました。

やがて近所の子供たちは年老いた阿修羅に石を投げつけたりするようになりました。
「や~い、乱暴者の阿修羅、くやしかったら仕返ししてみろ」と言って阿修羅をからかうのでした。

ついに阿修羅は自分が死ぬ時期が近いことを悟りました。
「ああ、俺はいままでずいぶん乱暴、狼藉を働いて来たな。。。。なんということをしてきたのだ。。。。皆さんに申し訳ないことであった。。。。。でも、こんな俺の思い出のなかでただひとつ良いことがあった。それはメーテルと出あったことなのだった。。。。。良いオンナだったなあ。。。。。俺はもうすぐ死ぬのだが、死んだらメーテルと会えるだろうか。。。。。。。情けない人生であったが、死んでメーテルに会えるのならば、それは嬉しいことであるなあ。。。。。」

やがて阿修羅は死にました。

あまりにも乱暴、狼藉のかぎりを尽くしたので、今となっては戦いの神、修羅の神として知られておりますが、若き日の阿修羅にはこんな恋の物語もあったのでした。

今となっては昔、昔のお話であります。

小学校の頃、ラジオから流れて来た音色

2018-10-03 | 読み物
小学校の頃、ラジオから流れて来た笛の音色にビビビとしびれた。
確か、母と一緒にバスに乗ってて、そのバスのラジオから流れたのだ。
今はラジオを流すバスなんてないと思うけれど、その頃はラジオを流す、というのはサービスということだったのだろう。

とにかくラジオからリコーダーの音らしきものが流れた。
隣の母に「これは何という楽器ね?」と尋ねたら「これは縦笛の音に聴こえるけどね」と教えてくれた、そんな記憶だ。

バスは田舎の道をゴトゴト走っていた。
確か夕暮れ時だったと思う。

当時、家族で住んでいた土地と父の実家(僕にとってはおじいちゃん、おばあちゃんの家)は距離があって、田舎のじいちゃんばあちゃんの家にゆくのにバスに乗っていたのだと思う。

その音色今でも耳に残っている。バスのエンジンの音、バスのタイヤが舗装してない道と触れ合う音がないまぜになっている音のなかでそのラジオから流れて来たその笛の音は僕をしびれさせた。確か、うすくリバーブがかかってた。響きがあった。

僕は小学校の3年生か4年生くらいだった。

子供心に「これは良い音だな!やってみたいな!」と思った。

「縦笛なら学校でやっている、あの縦笛だろうか!?自分にもこんな音楽が出来るようになるだろうか!?」と思った。

その頃から僕は暮らしのかで聴こえてくる曲をかたっぱしから縦笛で吹くようになった。ずいぶん昔のことなので「リコーダー」ではなく「縦笛」と言ってたのだった。確かバッハのシャコンヌを初めて聴いたのもこの頃じゃなかったかな。それは家にあったラジオから流れてきたんだっけ。

その頃の人は大人も子供も皆、「縦笛」とその楽器のことを呼んでいた。

バロックやルネサンスの曲も知らなかったのでとりあえず当時、流行っていた「ウルトラセブン」とか「タイガーマスク」とか「ひょっこりひょうたん島」の曲とか、音楽の教科書にのっている曲とか、そんなものを吹いていたのだった。

中学校にはいってプラスチックの縦笛を買ってもらった。
それは嬉しかった!

中学では音楽の教科書のほかに「器楽」の教科書というのがあってそこに「クリーガーのメヌエット」とかバロックらしい曲があってそれでますます、しびれてしまった。

そのうち木で出来た笛が欲しくなった。

御正月が来てお年玉をもらった。楽器屋さんに行ってみたら忘れもしない「モーレンハウエル」というメーカーの木製のソプラノリコーダーが手ごろな値段だった。6000円くらい。

お年玉でそれを買った。親にはだまって買った。

今、思うとずいぶん音程の悪い笛で高い音域が出にくかったりしたけれど僕にとっては始めての木製の笛だった。

その頃からリコーダーにはまった。
中学校の頃から「リコーダー」という言葉も覚えた。
近くに先生がいなかったのでひとりでやるしかなかったけれど全音から黄色いリコーダーピースを買ったり、当時でていた季刊リコーダーを買ったりした。

でも中学生だった僕には季刊リコーダーの内容は難しすぎた。

音楽の友社から出ていたR.ジョーンズ著「リコーダーのテクニック」や、M.フェッターの「笛の甘い音、苦い音」、その頃日本語訳が出た「フォンテガーラ」も買った。というか、母にねだって買ってもらったのだった。

中学生の僕にはほとんど意味不明の世界だった。
そのわからなさに僕はますます惹かれていった。

田舎のゴトゴト道を走る夕暮れ時のバスのなかで流れた笛の音、解読不可能なリコーダー専門書、高い音の出ないモーレンハウエルの笛、古いラジオ。。。

あれから何年たったのかな。あれからいろいろあったな。

FRQの演奏会、だんだん近くなって来た。
http://nangokurecords.com/flanders2018japantour.htm

バッハの「シャコンヌ」に寄せて

2018-05-04 | 読み物
バッハの「シャコンヌ」BQV1004その曲が小さいラジオから流れて来たのは僕が小学校の4年生くらいの頃だったかと思う。その頃は「ラジカセ」という名前でラジオとカセットテープレコーダーが一緒になった機械が流行っていた。
友達の家に遊びにゆくと大きなラジカセがあって僕はそれが欲しかった。

大きなラジカセは買ってもらえなかったけれど小さいのを買ってもらうことが出来て毎日、それを聴いた。いろいろな音楽がそこから流れて来た。NHKのFM「バロック音楽の楽しみ」ももちろん聴いたし、歌謡曲やオーケストラの音楽も聴いた。

小学校5年生になっていた僕はちょっとませてたところがあって夜中に親にかくれていわゆる「深夜放送」というやつも聴いてみたりした。とにかくその頃の僕にとってはその小さなラジカセが世界と自分をつないでくれる窓みたいなものだったのだと思う。

ある日、いつものようにラジオを聴いていた僕はびっくりした。最初はなにげなく聴いていたヴァイオリンの曲。伴奏も何もついてなかった。ただ1本のヴァイオリンから奏でられる音楽が最初はゆるやかに、そして徐々に激しく、やがてまるで天国にいるみたいなそんな時間があって、そしてその曲はもういちど悲しげな、でもこの世のものとは思えないような美しさをもって終わった。

番組を解説していたえらい先生が「バッハのシャコンヌでした。演奏はフェリックス・アーヨ」と言った。

たまたまその番組に限ってカセットテープをまわして録音していた僕はその放送のあともそのテープを繰り返し、繰り返し聴いた。テープが擦り切れたのかどうかしらないけれど、小さなスピーカーから出てくる音はだんだんともわもわした鈍い音になって行った。

もわもわの音になってしまったバッハのシャコンヌを僕は繰り返し、繰り返し聴いた。

それからしばらくたって大学生活のための上京した。
リコーダーがやりたかったので大竹尚之先生の門をたたいた。
先生は厳しかった。基礎的なことを叩き込んでもらった。
いろんな曲をやらせてもらった。

でも先生にだまって僕はバッハの「シャコンヌ」を吹けるようになりたかった。
20歳になって国内のリコーダーコンクールに出てみたりした。「シャコンヌ」吹きたかったけどコンクールで演奏するための制限時間を超えてしまうし、なによりも当時の僕には「シャコンヌ」を吹くことが出来なかった。

そのころは日本国内がちょうどバブルの頃だったからアルバイトみたいな形でスタジオミュージシャンみたいなまねしてフルートやクラリネット吹いたりしてた。

やがてヨーロッパに行くチャンスがめぐってきた。ベルギー政府の奨学金がもらえたのだ。
20代の頃はずっと東京でアルバイト生活みたいなことしながら「シャコンヌ」の練習してた。ちょっとずつは上達してたのかも。

ベルギーではフランダース・リコーダー・カルテットという四重奏団に所属することが出来てその間は暮らしぶりも安定してて、良かった。「シャコンヌ」もだんだん音にしてゆける実感が育って来た。

ある時、彼の地の人に「シャコンヌ」を聴いてもらった。他の人にこの曲の演奏を聴いてもらうのは初めてだった。

その頃はまだテナーをうまく吹きこなす技術がなかったので確か、アルトで吹いた。

僕の演奏が終わった後、その人は言った。

「よい演奏だったと思います。でも私にとってはあまり面白いものではない。バッハの無伴奏作品を演奏したいのであれば無伴奏チェロや無伴奏ヴァイオリンの曲ではなく、無伴奏フルートのためのものがあるのだからそのようなものをやるべきではないでしょうか。弦楽器の曲をリコーダーで演奏するのは無理が多すぎます」

というような内容だった。

やがてベルギーでの暮らしも終わって僕は日本に帰った。
カルテットでの演奏がなくなってしまったので演奏回数はずいぶん減ってしまったけれどそれでも「シャコンヌ」の練習は続けた。

アルトじゃなくてテナーでやろうと思って、テナーでやってみたらすごく感じが良かった。
でも最初はテナーが大きすぎて、重すぎて、無理なんじゃないかと思った。

でも少しずつ慣れてきた。もうその頃はシャコンヌの練習始めてからもう20年くらいたってた。
歳とってしまった。

日本に帰ってきてから数少ないけれども「シャコンヌ」を演奏できる機会も与えてもらった。
2006年、2016年のヨーロッパへの演奏旅行でも吹かせてもらった。

でも評価は半々だった。

本場ヨーロッパの人になら喜んでもらえるんじゃないか、と思って意気込んで演奏してみたりするけど、良いって言ってくれる人もいれば、つまらない、って言う人も居る。でもそれはそれで良いのかも、と思ったりもする。

テナーでこの曲を吹くことの難しさはまだ全部解決されたわけではない。やっぱり楽器が大きくて重たいから、その分の負担の大きさ。でもアルトには絶対に出せない表現がテナーにはあると僕は思うからやっぱりこの曲はテナーでやりたい。

20歳の頃からすると技術的にはずいぶん向上したと自分では思うけれど、でも僕の頭のなかにある「シャコンヌ」のそれぞれのフレーズ、それぞれの音のイメージと実際に出る音との間はまだまだ差がある。
いつも思うのはやりたいダイナミクスと実際に僕の技術で実現できるダイナミクスとの折り合いをどうつけるのか、ということ。

本当に優れたヴァイオリニストだったらそのような差はほとんのないのかもしれないな。
でも僕はヴァイオリニストじゃないからそういうことはわからない。

「つまらない」と言われることもあるだろうと思う。でもとにかくこの曲を吹きたいのだ。願わくばこの曲を吹いているちっぽけな僕なんかその曲のチカラで銀河系の端っこみたいなどこか遠い所まで飛ばされてしまいたい。

ガンバ奏者ソフィー・ワティヨンさんのこと

2016-12-08 | 読み物

ガンバ奏者ソフィー・ワティヨンさんのこと

ベルギー時代にヴィオラ・ダ・ガンバの講習会があってそこでソフィー・ワティヨンという女性ガンバ奏者のレッスンを受けたことがあった。確か、フランダース・カルテットで作ったCDのなかのひとつはリコーダー四重奏とヴィオール四重奏の組み合わせによるものがあって、そのなかでもソフィー・ワティヨンという奏者が演奏していたと記憶している。
レコーディングの時、そして講習会の時に少しだけ話をしたことがある。その後どこかの演奏会でばったり会って僕をみて挨拶してくれたから覚えていてくれたのだと思う。

僕はレコーディングと講習会以外で彼女に思いがけず会えて嬉しくて
「ソフィーちゃん、元気だった?」と日本語で問いかけた。
自分の名前のところだけは聴き取ることが出来たらしく、「ソフィー・・・・チャン・・・???」と不思議そうな顔をして僕に聞き返してきたことを思い出す。

なんだか最近、彼女のことをよく思い出している。僕は彼女のことが好きだった。というよりもただ、一方的に憧れていただけだったのだと思う。

日本の女のひとで言うと、夢千代日記の吉永小百合みたいな感じのひとだった。いつも明るくて、けなげで、そして絶対に品格を失わない、そんな感じのひとだった。もちろん素晴らしいガンバ奏者だったのだけれど、僕は彼女のガンバの腕前云々ということよりも、彼女のたたずまいが好きだった。

実は彼女のことが好きだったのは僕だけではなかったはずだ。ベルギー時代には多くのリコーダー関係の仲間たちと交流があってそのなかのひとりと彼女の話題が出たことがある。

なんのことはない、彼も僕も遠くから彼女のことをただ憧れていただけだったのだ。仕事のこととなると危険をかえりみずに突進するタイプのオトコだったけれど、素敵な女性に弱いのはなんとも情けないというか、いくじがないというか・・・・でもそれはオトコだったら誰でもそのようなところがあるのではないだろうか、とも思う。

彼女ののことを思うとまるでちょっと古い時代の日本の女の人みたいな感じがする。
彼女はその後、やまいを得て、もう先に逝ってしまった。もうずいぶんたつかと思う。

でも僕の記憶のなかには今でも彼女はずっと生き続けていて、今でもその場で素敵な、本当に素敵なヴィオラ・ダ・ガンバの演奏を聴かせてくれそうな気がする。

自分の人生のなかのほんの短い季節のなかだけでほんとうにただ、すれちがったくらいのつきあいしかなくても、強い印象を残す人がいる、ということを思う。

それは決して僕がただのほれっぽいオトコだからということだけではなく、ソフィー・ワティヨンというひとりの女性のたたずまいが本当に今でも忘れられないほど素敵なものだからだと思う。

そうそう、素敵な女性の条件のひとつ。まわりをとりまくオトコどものいささか、いや、かなり品格の劣る冗談を軽く受け流す術を心得ていること。

ベルギーあたりでは講習会はたいてい泊りがけで行われるので、昼間はみんな頑張って練習に取り組むのだけれど夜は皆、そのあたりのカフェみたいなところに集まってビールを飲む。

洋の東西を問わず、たいてい飲むとあまり品性の高いとはいえぬ冗談を連発するオトコがいるものだけれど、そんな場所でも彼女は美しかった。
そんな席ではたいていオランダ語とフランス語と英語が入り乱れているので僕には会話の全部をフォローするのは並大抵のことではなかったけれど、でも彼女がそれなりに気をつかいながら、でも決してその品格を失わずにその場にいたことはよく覚えている。

音楽的にはリコーダー四重奏とヴィオール四重奏でのレコーディング、そして僕は1回だけ彼女のレッスンを受けたことがある。
ただ、それだけのつきあいだった。
月並みな表現だけれど、それは僕の宝物だ。

泥のような苦しみのなかで音楽理論を学びながら学費を稼ぐためにリコーダー四重奏で旅を重ねていた僕にとっての宝物だ。
あれからもう、どれほどの月日がたってしまったのだろう。

2015年のムソログスキー

2015-02-14 | 読み物
2015年に書いた文章です。

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鹿児島国際大学音楽学科の吹奏楽演奏会を聴きに行った。

細かいところを言えばまだまだ磨きをかける余地のある箇所は沢山あると見受けられたけれども、全体としては非常に聴き応えのあるものだった。
圧巻はプログラム最後の「展覧会の絵」。

この演奏を聴いて、何か大切なことを僕は学んだような気がする。

例えばそれは本当の「グランディオーソ」とは何かということ、ひいては「音楽とは何か」という問いかけについてのひとつの答え。ただし日常の言葉ではなく、音楽という形での答え。
「展覧会の絵」の作曲者はムソログスキー。

おなじみのすごい肖像画。たしか彼はすごい酒飲みで身体と精神がどんどん弱ってしまって死ぬ前に入院していた頃のものと伝えられる肖像画。

今日の国際大学吹奏楽団の何が素晴らしかったかというと、最後の「キエフの大門」に到達するまで最初から最後まで聴き手をしっかりひきつけるだけのものがあったということ。

言葉で言うのは簡単だけれどもこれを実現するのは大変難しい。指揮者である東氏の手腕によるところが大きいのは言うまでもない。

ただし、今日の演奏に関して東氏がどこまで彼自身のやりたいことを実現出来ていたのかどうか、ということまでは僕にはわからなかった。学生の吹奏楽団ということでテンポその他、技術的な点について何らかの妥協があったのか、どうか。

しかし妥協があろうとなかろうと演奏は圧巻だった。圧巻という言葉は今日のような演奏についてこそふさわしい。

なんだかこの曲を聴きながらなんだか途中からすごくこみあげてくるものがあった。なんでかな。

我慢して我慢して我慢してたけれど、最後の「キエフの大門」のテーマがたからかに鳴らされて、もうだめだった。

今、この文章書きながら、さっきの演奏がまた頭のなかでよみがえってきてなんだか、まただめだ。

多分、すごく個人的な印象だと思うのだけれども、僕はこの演奏聴きながら、酒飲みすぎて、身体も精神もぼろぼろになったムソログスキーが「でもさ、それでもさ、こんな俺だけどさ、なんていうのかな、うまく言えないけど、伝えたいことがあってさ、それはさ、本当になんだか、すごくありきたりなことかもしれなくて、申し訳ないんだけど、音にするとこんな感じなんだ・・・・・・・生きてるのはさ、もしかしたら、辛いことのほうが多いかもしれないんだけど、でも、俺はもうこんなにボロボロになっちゃったけど、でもさ、俺みたいなのが言えた義理じゃないけど、なんていうか、生きてるってさ、生きてるっていうのはさ、いいもんだと思うんだ・・・・・・・・」

みたいなことをムソログスキーが僕に語りかけてくれるような気がした。

アンコールはすごく軽快で楽しい曲だったのに、もう涙腺がだめだった。


音楽は音楽。ただ、それだけ。。。。。。そう思ってた。ずっと。今まで。

でもそうじゃない。

うまく言えないけど。

そこには音楽を超えた何かがある。多分、うまく言えないけど。だからと行って音楽の勉強しなくても良いとか、練習しなくても良いとか、そういうことじゃないけど。

でも、何か音楽とか、そういう小さな枠を超えた何か大きなチカラの反映みたいなことがそこにはある。

それは多分、僕たちが生まれて、泣いたり、笑ったり、恋したり、いろんなことを経験しながら歳をとって、おいぼれてそして死んでゆくということ、そして僕たちの思いは次の世代に引き継がれてゆくということ、多分、そんなようなこと。うまく言えないのだけれども。

2015年2月13日、鹿児島市の谷山サザンホールで聴いた「展覧会の絵」を僕は死ぬまで忘れないと思う。

絶対に忘れないと思う。

がんたのお芋

2012-10-22 | 読み物
がんたのお芋

作:吉嶺史晴

昔、あるところに「がんた」という名の男がおりました。
親もなく、妻もなく、子もありませんでした。この男は言葉巧みに旅人らしい風情の人に近づいては、良い宿がある、とか、安くしてやる、などと言い、親切なふりをしながら隙を見計らってはお金やものを奪い取ってしまうのでした。ひとりで悪さをする時もあれば、仲間とたくらむこともありました。実に見下げた輩でありました。

ある朝、がんたは起きてみると自分の声がまったく出なくなっていることに気がつきました。これでは仕事になりません。なにしろ言葉巧みに人をだますのがこの男の仕事だったからです。声が出なくては食べるものを手に入れることも出来ません。その日暮らしですから蓄えなどもありません。やがて何日かして腹も減り、がんたは行き倒れとなりました。

道端に倒れているがんたにある旅人が声をかけました。
「もし、もし、そこのおにいさん、大丈夫かね?」
がんたがようやく目を開いて見上げてみますと、それはついこの間、がんたが金を騙し取った旅人でありました。
思わず逃げ出そうとするのですが、あまりにも腹が減っていて立ち上がることも出来ません。幸い、相手はがんたが盗人であるということに気がついていないようです。

「おにいさん、食べてないんだろう。ちょっと待ちなさい。これをあげよう」
旅人が取り出したのは焼いたサツマイモでした。
「なんて、うまいんだろう!この世にこんなにうまいもの食い物があるのか!」
ふんわりして見事な黄色のお芋。その甘くて豊かな味が口の中いっぱい、いや身体いっぱいに広がってゆきます。
がんたの心は震えました。何故ならばこの男はそれまでにこんなものを食べたことがなかったからです。がんただけではなく、そのあたりの人々は誰もこんな食べ物を知りませんでした。

口のきけないがんたは、ただ、がつがつとそのお芋を食べました。
「どうだい?美味いかい?これはサツマイモという食べ物だよ」
旅人は言いました。
「おにいさん、サツマイモを食べたことないのかい?それではこれをやろう。サツマイモの種芋だよ。畑に仕込んでみなさい。どんどん増えて大きくなるよ」
裕福そうな身なりの旅人はお供の者に命じて袋にいっぱいつまったサツマイモの種芋を持って来させました。
それはそれは沢山のサツマイモでした。屈強な若者であるがんたが背負ってようやく運べるほどの沢山あったのです。

その夜がんたは考えました。
「それにしても、なんて間抜けな旅人だ!俺に金を騙し取られたことにも気がつかず、芋を俺に食わせて、そのうえ、袋にいっぱいの種芋までよこすとはな!よし、こいつを増やして大儲けしてやる!」
声が出なくなったことにも全く気にもとめないがんたでありました。

がんたは独りで山を切り開いて耕し始めました。昔のことですから誰も足を踏み入れたことのないような山であれば畑にしても誰からも文句を言われなかったのです。昔の人は皆そうやって畑を作って来たのでした。

袋に背負い切れないほど沢山の種芋ですが大切な種ですから、ほんの少しだけ仕込んでみました。しかし、季節が変わっても、次の年になっても芽は出て来ませんでした。何しろ生まれてからこのかた盗みしかやったことのない男ですから畑の作り方や種の蒔き方など、いいかげんなものでした。

「この春には全く芽が出なかった・・・・・耕し方が悪かったのかもしれん・・・・」
がんたは次にはより深く耕して種を仕込んでみました。それでもいっこうに芽が出る気配はありません。
種を深く仕込んでみたり、浅く仕込んでみたり、仕込む季節を変えてみたり、いろいろな工夫をしてみてもいっこうに芽が出る気配がありません。

だんだん年月がたってゆきました。
「誰か、俺に畑の作りかたや、種芋の仕込みかたを教えてくれないものか・・・・・」
さすがのこの男もだんだんまいって来ました。しかし、こんな男に知恵を貸してくれるような人などおりません。
もう盗人稼業からも足を洗っておりましたがいまだに村の男たちはがんたを見ては
「この盗人やろうめ!まだ生きてたのか!」
と痛めつけるのでした。

村の子供たちは遠巻きにがんたを見ては
「や~い、や~い、盗人がんた!盗人がんた!」
とからかって石を投げつけて来たりしました。

でもそれでもがんたは平気だったのです。何故ならばこの男は
「おれは芋を育てて大金持ちになってやる。今まで俺を痛めつけて来た奴らには絶対にこの芋は渡さんからな!」と思っていたからです。
盗みこそしませんでしたが、相変わらず荒んだ心の男でありました。

次の年も次の年もがんたは畑を耕し、種芋を仕込み続けました。畑だけは少しずつ、少しずつ広くなって来ましたが、肝心のサツマイモの芽はいっこうに出る気配がありませんでした。

そのうちにさすがのがんたも歳をとってまいりました。
だんだん目も耳も、そして足腰も弱ってまいりました。あんなに沢山もらった種芋もだんだん残り少なくなって来ました。
もうかつてのすばしこい盗人の面影はだんだん遠くなってゆきました。

ある冬の日のことでした。がんたからすれば孫のような年格好の子供たちが、がんたをからかい、いつものように石を投げつけて来ました。
「や~い、や~い、盗人がんた!盗人がんた!」
からかいは聞き流せばよいこと、石はよければよいだけのことです。しかし、ずいぶん歳をとり、目や耳、足腰が不自由になっていたがんたは飛んで来た石をよけることが出来ませんでした。
飛んで来た石のなかでも特に大きくて、かどばったのががんたの額に当たりました。
がんたはその冬のさなかに死にました。

がんたが死んでから何年かたったある年のことでした。村は大飢饉に襲われました。実りの秋になっても何も食べるものがありません。村のなかに蓄えてあった食べ物はみんな底をついてしまいました。
村人たちは食べ物を探すため、普段は決してやって来ないような山奥に入って来ました。
そこで見つけたのは・・・・・

広い広い畑に緑の葉と力強いつるが一杯生い茂った立派なサツマイモの畑でした。
村人はそれが何という作物なのか見当もつきませんでしたが、とにかく掘ってみると大きなお芋がそれはそれは沢山出て来ました。

山奥に食べられそうなものがあるらしいということを知った村人たちがこぞってその畑にやって来ました。
昔、がんたに金を騙し取られた者も、声の出なくなったがんたを痛めつけた村の男たちも、がんたをからかって石を投げつけたかつての子供たちも、昔の盗人仲間も、年老いた者も若い者も、男も女も皆、がんたの畑にやって来ました。

見事に広がる畑を目の前にして、どうして食べたらよいものなのか村人同士はがやがやと話をしています。中には畑を掘り返して泥のついたまま、生でかじっている者もいます。

その時です。いつかの旅人が現われました。道端で行き倒れになっていたがんたに沢山の種芋を渡したあの旅人です。その人は言いました。
「これはサツマイモというものです。皆で美味しくいただきましょう」
と言いました。
その旅人は村人たちに指図をしてその場を整え、大きな大きな焚き火を作りました。旅人の指図によって村人たちはその大きな焚き火のなかに沢山のお芋を埋め込むようにしてゆきました。やがて沢山の美味しい焼き芋が出来上がりました。
村人たちの喜んだことといったらありません。村は救われたのです。

まもなくサツマイモはこの村から国じゅうに広がって飢饉に強く荒れた土地でも育つ作物として人々の暮らしを守ってくれるようになりました。

今でも田舎のほうにゆくと田んぼや畑の片隅に小さなお地蔵様みたいな神様が祭ってあるのを見ることがあります。
 これは昔の人々がサツマイモの畑を作って村人を救ったがんたを供養するためのものであるという言い伝えも一部の地域には残っているそうです。
今となっては遠い昔、昔のお話です。

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