吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

語法って何だろう?

2019-11-30 | 音楽制作覚書
作曲や編曲に欠かせないことのひとつ「語法」。
それにしても「語法」っていったい何だろう?
話し方のこと?

話し方が上手になればその人のスピーチにはより説得力が高まるのだろうか?

でもどうでも良いような中身のことを立て板に水で話されてもつまらない。
それでは話に説得力が生まれる以前の問題だ。
どうでも良いような話を聞かされるくらいなら家で寝てるほうが良い。

それでは説得力って何だろう?
こんなことを思うと音楽と言葉は似ている。

それはやっぱりコミュニケーションのひとつの形だ。

いつか大学の授業のなかで何かのおりに「ロミオとジュリエット」の筋書きの話になった。
「これはどんなストーリーですか?」と学生諸君に問いかけたらひとりが

「金持ちのぼっちゃんと嬢ちゃんが恋して死ぬ話」と言った。
実にきっぱりした口調であった。

確かにその通りなのだけれども、そう言ってしまうとまるでミモフタモない話に聞こえてしまう。
。。。。ということはやっぱり語り口は大事だ。
もしかしたら筋書きそのものよりもずっと大事なものだ。

かと言ってだんだん歳とってくるわけで今から新しい語り口を習得するのもやっかいではある。
というわけでとにかく弾いてみる。

今、やってるのはクラリネットとファゴットの曲をピアノで弾く練習。
1960年代の曲で、調性と無調の部分が巧みに混じりあっているのがカッコイイ。
クラリネットがまるごと移調して書いてあるのでちょっと骨がおれるけれども、とにかくやってみよう。

とにかく少しずつ語彙を増やすということ。
使える単語の数を増やしてゆくこと。

8, Berio Sequenza Vb Gesti, Kees Boeke web

2019-11-26 | 音楽制作覚書
8, Berio Sequenza Vb Gesti, Kees Boeke web

ケース・ブッケ氏の演奏する”ジェスティ”(L.ベリオ作曲)の動画。
(無調・特殊奏法・ノイズ奏法 注意)

Kaoru Abe - Guitar Improvisation

こちらは阿部薫(1948-1978)のギター即興演奏(無調・特殊奏法・ノイズ奏法 注意)。

■1960年代から70年代頃に世界的な潮流としてクラシック、ポピュラーの枠を超えて無調やノイズ奏法といったものが流行していた可能性。

■「無駄な音は書かない」とか「選びに選び抜いた音だけがそこに在るように」という伝統的なクラシック音楽の作曲の考えかたは万能ではない。


作曲の材料はいろいろなところに(一粒で二度美味しい。。。)

2019-11-19 | 音楽制作覚書
Improvisations on a contrabass-recorder (2015)

作曲の材料はいろいろなところにある。
例えば自分自身の即興演奏も。
これなどはしばらく前に録音してみたコントラバスリコーダーの即興演奏なのだけれども、たとえばこういうものを何か別の楽器のために移し変えてみるという作業はどうだろう?

実際は過去のものを移し変える作業(耳コピー含む)だけれども結果としてはとりあえず作曲と言えるものにはなりそう。

楽譜を介在しない即興演奏なんて単なる遊びみたいなものにも見えるけれども、こういうもののなかにも使えそうな材料が隠されているのは面白いなあと思う。

つまり、即興演奏する際には純粋な遊びとして。
そしてそれを耳コピーして楽譜に起こす際にはもっと客観的に。

一粒で二度美味しい、みたいな。。。。


ある程度未完成なものとして作品(楽譜)を終わらせる

2019-11-19 | 音楽制作覚書
ある程度未完成なものとして作品(楽譜)を終わらせる感覚の重要性。

■作り手である自分だけで音楽を完結させる必要がないということについての自覚。つまり演奏者にある程度の割り合い、場合によってはかなり多くの割り合いをまかせてしまうことについて身をゆだねる感覚

■曲のなかに出てくる強弱やアーティキュレーションの標記は必ずしも作り手である自分自身が指定したとおりには演奏されないことがあるということについて許容できるだけの器の大きさ

■作曲作品としての楽譜の完成度の高さと実際に出てくる音楽のクオリティとは必ずしも比例しないということについて受け入れてみる

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補足:

例えばバロック期に自明のこととしてあった通奏低音の技法。
これなどは未完成どこではなく、全く楽譜そのものを書かないという在り方。(少なくとも鍵盤楽器の右手に関して)

つまり左手の動きは書くけれど、右手についてはそれを省略してしまうという方法だった。
左手についても場合によってはオクターブを変えたり、オクターブを重ねたりすることは有り得たはずで、このように考えてみると、「あえて楽譜に全部書き込まない」態度、つまり未完成なものとして自分の作曲作品を終わらせるというのは実は古くから行われていた方法だったことがわかる。

もちろん旋律楽器の声部にしても、例えばイタリア風の装飾などは楽譜自体は非常に単純なものであっても、それを奏者が即興的に装飾するという慣習があった。


書く練習

2019-11-18 | 音楽制作覚書
今日は延べ8時間ほど書いていた。
とりあえずヴィオラ・ダ・ガンバのための新曲の形が出来た。
でも、最後のほうは集中力きれそうになってしまって、とりあえず間に合わせる感じになってしまった。

わかる人が見たら、「ああ、ここで書き手は息切れして、無理やり曲を終わらせたな」というのが露骨にわかる有様になってしまった。

あまり出来は良くないけれど、それはそれとして、書く練習、みたいなことと捉えれば良いのかも。

今日、書いた素材はかなりの割り合いで使えるものがあるから、それらは活かして、また進めてみよう。

歌を入れるつもりだったのだけれど、全然はいらなかった。
そもそもテキストもないのに歌を入れようなどという了見が甘かった。
というか、頭でっかちになってしまっていたのだ。

明日の昼間、明後日でとにかく行けるところまで行ってみよう!


ヴィオラ・ダ・ガンバの新曲

2019-11-18 | 音楽制作覚書
ヴィオラ・ダ・ガンバの新曲準備進めながら思うことがあるのでメモ。

*和音が出しやすい
*長い音も短い音も、立ち上がりの強さも比較的自由に制御できる
*ハーモニクス奏法など従来はモダン楽器の奏法とされているやりかたも応用可能。

などなどいろいろな点があるけれども今、非常に興味深いのは

*弾きながら歌える

という点なのである。これはギターなどと同じ使い方が出来るということを意味する。
つまり、いわゆる「シンガーソングライター」(ちょっと死語っぽい。古臭い言葉かも。。。)のような在り方が可能ということ。

ここで問題となるのが仮に、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者がこれから出来てくる曲を演奏すると仮定した場合、ヴィオラ・ダ・ガンバの演奏技術はそれなりのものがあるとしても、歌唱技術はほとんどの場合、そうではないということだ。

これは一見、小さなことに思えるけれども、表現としてみた場合に重大な問題を及ぼしかねない。
「シンガーソングライター」のギター演奏技術を考えてみる。
彼らがフラメンコギタリストやクラシックギタリストのような演奏技術を備えていることはない。仮にあったとしてもそのような技術は「シンガーソングライター」が作るような様式の作品では必要とされないので、表現の全面に出てくることとはない。

しかし、今から僕が作ろうとしてるのはヴィオラ・ダ・ガンバのパートだけはそれなりの演奏技術を要するものだけれども、歌のパートは誰でも歌えそうなものとして作ってみたいのだ。

これは今、世間で一般的に認識されている芸術的な音楽と、そうでない音楽が同時に一人の奏者から奏されるという摩訶不思議な状況を呈することになりかねない。

「なんだか変わった曲ね」の一言で片付けられてしまうかもしれない。

とりあえずマレやフォルクレ(両者ともバロック期のヴィオラ・ダ・ガンバ音楽の巨匠)のような曲を弾くために訓練されてきた演奏技術と、素人同然の歌。
こういうものが一人の奏者から出て来るような音楽。

まずもって無条件に支持してもらえるような音楽は出来て来ないだろうと思う。
でもそれでも書くしかないのだ。

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もしかしたら歌のうまいヴィオラ・ダ・ガンバ奏者がこれから出来る曲を演奏してくれることがあるかもしれない。それはかすかな希望みたいなものだから、もうそういうものに縋り付きながら書くしかないのだ。


補足:
曲のなかでガンバの比重と歌の比重を制御。
つまり
■ガンバが主で歌(言葉)は従という曲
■歌の曲でガンバは単なる伴奏

この両者の間には様々な度合いがあるはずなのでそのあたりの点を考えてみること。
歌が多少、下手でもこの度合いの具合次第ではなんとかなるかもしれない。

旋律だけの音楽は音楽として低次元なものなのだろうか

2019-10-29 | 音楽制作覚書
曲の下書きの際には、なかなか全体像が出てこない時にはまず旋律だけ書く、ということをやっている。
その後、和音をつけたり、いろいろな楽器に割り当てたりする。

このような手順があまりにも当然になってしまうと、まるで「旋律だけの音楽」が音楽として低次元なものであるように自分で自分を洗脳してしまっているような状態になってしまうことに気が付いた。

西洋風の機能和声で出来上がっているような音楽を作曲したいのであれば、それはそうだろう。

しかし、そのような様式でない音楽を書く際に「旋律だけの音楽は音楽として低次元」などという思い込みがあると、これはまるで自分で自分を縛り付けているかのような状態になりかねない。

例えば、そんなに時代の古いものではないけれども日本の尺八の音楽。例えば本曲と呼ばれるもの。そういうものには当然のことながら和音はついていない。もちろんこれは西洋的な意味あいの「音楽」とは違うものだけれども、音による芸術的な活動であることに違いない。

もっと時代が古くなって、たとえば「能」の音楽。(これも音楽と呼べるものかどうか、というところから考える必要あり)能菅と打楽器、そして声による音響には西洋風の和音が入る余地はない。

時代が新しくなると、例えば廣瀬量平の「メディテーション」を始めとする一連のリコーダー作品。これらの音楽について「西洋風の和音が欠落しているから音楽として低次元である」というような議論は成り立たない。

今、これから書いてみたいのはヴィオラ・ダ・ガンバの音楽。
■必要な演奏技術が高くなり過ぎないようにする。
■チェロには表現できないような雰囲気を備えたものにすること。(ガンバの音色それ自体を活かしたもの)
■踊りっぽい箇所を入れてみたいけれど、中世ヨーロッパ舞曲風にはしたくない。

いろいろ細かい留意点はあるけれども、総じて問題になるのが「和音」の問題。もちろん作品の様式にもよるのだけれども。

作曲を進めるうえでその曲に伝統的な「和音」をつけるという選択肢と、そうでない選択肢。

ここで少しばかり損得勘定を入れ込んでみると、僕程度の作り手が今更、疑似バロック風の曲を作ってもフォルクレやマレの高さまで到達することはまず不可能。
ということややはり、バロック風ではない様式を採用するしかない。

ということは「和音」をどうするのか?という問題。

楽曲それ自体はバロック風でなくとも良い。しかし、そのことは「楽曲のなかにダブルストップ奏法があってはいけない」という意味にはならない。
(2019年10月29日)

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補足:

題名はどうしよう?
「霧の摩周湖」なんてどうだろうか?
どこかで聞いたことあるな。。。。。昔の歌謡曲だ。。。。。。。。
待てよ、たしか題名には著作権がないんだった。

せめて「和音」がない分、題名くらいは少しばかりロマンチックな感じがあっても良いのかもしれないけれども・・・・・


曲が出来ない時には

2019-10-24 | 音楽制作覚書
曲が出来ない時には以下のようなことを心がけてみる。

■どんな雰囲気の曲を作りたいのか
■どのくらいの長さの曲にしたいのか

このふたつの点をなるべく明らかにする。
これらが決まったら次ぎは

■拍子とテンポを決める
■形式を決める
■調を決める

その時に「音楽史上、新鮮味がない」とか「技巧上、面白みがない」とか、そのような批評はしないで置く。

拍子とテンポ、そして形式と調が決まったらあとは旋律を書くだけ。
この時の「形式」はなるべく簡単なものにする。フーガとかソナタではなくて、単純な二部形式とか三部形式。

一度に和音と旋律を書くのが難しい場合にはまず旋律だけでも良いことにする。

「初心に戻る」というのは単なる精神論ではない。
それはまるで実際、自分自身を本当の初心者のように取り扱うということ。

*自分のやっていることを批評しない
*自分自身を初心者のように取り扱う

このようなことも広い意味での「技術」だと捉えることが可能。

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注意すること

■他からの注文で作曲するのではなく自分ひとりだけで書いている場合、締め切りがない。そんな時には自分で自分に締め切りを作ること(重要!)。初心者が作るような曲でも良いということにしても良いけれど、とにかく自分で自分に締め切りを作ること。これがなければ出来るものも出来て来ない。

聴いて覚える

2019-10-23 | 音楽制作覚書
聴いて覚える、というのがとどのつまりは全ての基本なのではないだろうか。

作曲の場合は耳から聴いたものを覚えて、そのような雰囲気を備えたものを自分で作り出す。

演奏の場合は耳から聴いたものを覚えて、自分でも演奏できるようにする。

違いは自分で作るのか、それとも演奏するのか、という点にしかない。

そこまでの過程、つまり「聴く」、そして「覚える」という点は全く共通。

ということはここを強化すれば作曲、演奏という両面においての基礎力を高めてゆくことは可能。

ということはここを強化しないでおいて、いくら作曲、演奏、それだけやっていてもなかなか進歩は見込めない。

演奏の場合にはどうしても、演奏そのものが良くなければ評価を得ることが出来ないし、作曲の場合は作品それ自体の出来。

でもそのためには「聴くこと」、そして「覚えること」。このふたつなのだ。

演奏や作曲ならば各種のコンクールやオーディション、リサイタルや出版などで客観的な評価を得ることも出来るけれど、「聴くチカラ」、「覚えるチカラ」についてのコンクールなどはない。

もともと「聴く」、そして「覚える」、これらのことが十分できている人は良いけれどもそうでない場合にはそのための練習を普段からしておくことも出来そうだ。

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「聴いて」「覚える」ために楽譜は有用。
しかし、敢えて楽譜としての実体を備えた楽譜を使わない方法もある。
練習の方法としては以下の通り。

■ある楽曲(録音)を繰り返し聴く

■覚える

■頭のなかで楽譜に書き取る

■頭のなかで楽譜に書き取ったものを頭のなかで読みながら実際の音を想像する。

*この方法の利点:頭のなかの楽譜なのでいちいち鉛筆で書いたり、消しゴムで消したりする必要がない。必要ならどんどん書き換えてもかまわない。

*この方法は古典的な楽曲にも、そして現代的な音楽にも使える。

*この練習の最終段階「頭のなかで書き取った楽譜を頭のなかで読みながら実際の音を想像する」というのはよくよく考えてみると、通常の作曲をしている状態と極めて近い。

振れ幅の広さで勝負する

2019-10-17 | 音楽制作覚書
振れ幅の広さで勝負する、というのは音楽を作る上での考えかたのヒント。

つまり必要とあらば、自分自身を両極端な地点まで持ってゆくことの出来る能力というものを考えてみる。

音楽制作の場合だと、

■全く楽譜を使わないで音楽をその場で作りだす
■全く楽器を使わないで作曲する
■曲の構想から最終的な清書までなるべく多く仮録音をする
■構想から最終的な清書まで仮録音はしない

これらの両極端。どちらも出来るようにしておくこと。様々な両極端を行うにあたって自分自身のなかの何が磨かれて、何が磨かれないのか、ということを意識する。

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演奏の場合、たとえばヴィブラートについて
■全部の音にヴィブラートをかける
■ヴィブラートを全くかけない

この両極端。どちらの方法でもそれなりに音楽的な表現が出来る程度にまでは自分自身を鍛え上げておくこと。

アーティキュレーションについて
■スタカートとポルタートだけで表現する
■ノンレガートだけを使いスタカートとポルタートは一切使わない
■全ての音にタンギングする。
■全ての音にタンギングしない。

強弱について
■なるべく強弱をつけないで演奏する
■なるべく強弱を沢山つけながら演奏する

ピッチについて
■ピッチが全く上下しないように演奏する
■音痴に聴こえない程度になるべくピッチを上下させながら演奏する

このような両極端。

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楽譜についての態度
■常に暗譜で演奏する
■常に楽譜を置いて演奏する

このような両極端。

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練習時間についての態度
■なるべく沢山、練習時間を確保する
■なるべく少ない練習時間を是とする

などなど。。。。

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このような考えかた、実際は「両極端に振り切れる能力」を身につけることよりも(実際は程度の差こそあれ、そのようなことは必ずしも現実的はないので)、様々な「両極端」から自分自身がどの程度の地点に位置するのか、ということを知る手がかりとして役に立つ。

つまり、「自分が何処に居るのか」ということがわかれば、その先、自分が進むべき方向を定めることが出来るということ。