吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

和音が絶えず変化してゆくことイコール音楽的な豊かさ???

2016-07-27 | 音楽制作覚書
和音が絶えず変化してゆくことイコール音楽的な豊かさ、という点でルネサンス、バロック、古典派、ロマン派、そして20世紀のヨーロッパの音楽において共通だと考えてみる。
つまりこれらの音楽は主に3度の音程で積み重ねられた和音が時間的に変化してゆくことがその音楽の美しさを保つ点で必要不可欠だったとしてみる。

しかし少しだけ目を外に向けてみると、たとえば同じヨーロッパであってもハーディーガーディー、あるいはバグパイプのような楽器で奏される音楽の場合、そこではドローンと呼ばれる保続音が常に鳴っており、和音が絶えず変化する、ということとは様相が異なっている。

しかし、そこに西洋音楽の和音の用法が欠落しているということにはならない。
なぜならば単純なドローンは西洋的な和音の変化を極度にまで簡略したものと考えられるからである。

このように考えるとやはり芸術的な音楽、大衆的な音楽に関わらず、少なくとも西洋においては和音の変化、というものは音楽の構造と密接不可分の関係にあるように見える。

古臭いことと古い様式に属すること

2016-07-27 | 音楽制作覚書
古臭いことと古い様式に属することとは違うし、現代的であることイコール現代奏法を使うことでもない。

ヒント:架空の***音楽 という言葉の***のなかに自分の好きな言葉を入れてみる

たとえば、架空の「夏祭りに出かけていったら、むこう側から30歳くらいの絶世の着物美人がこっちのほうに向かってニコニコしながらどんどん接近して柄にもなくキドキする感情を描写する音楽」とか・・・・・・


音楽本位?技術本位?

2016-07-27 | 音楽制作覚書
新しい曲を書く際には新しい演奏技術を入れようとして工夫するのだけれども、その技術が音楽を表現するために意味あるものでなければ。

おのれを知れ、という言葉があるけれども、どうも僕の場合には、演奏技術が前面に出すぎた曲に対して強い拒否感があることがわかった。既存の曲であっても、自分の過去の曲であっても。

かといって演奏技術自体に何の工夫もしないまま書いてしまっても良いのか、どうか。。。

ものすごく古いタイプの曲になってしまうだろうか?
いや必ずしもそうであるとも限らないはず。

良い音楽であることと、古い様式に属する音楽であることとは全く別の事柄であるはず。
現代的な音楽だからといって現代的な奏法を使わなくてはならない約束はないはず。

ただし、無視できないことがひとつ。
新しい奏法によって作り出される新しい音響はそれ自体が作り手の創造力を刺激することが有り得るということ。

楽器が「鳴る」ように書く

2016-07-26 | 音楽制作覚書
楽器が「鳴る」ように書くことが出来ないのであれば、もう僕みたいな者がリコーダーのための曲を書く意味がないと思うようになった。
リコーダーのための曲がちゃんと「鳴る」ように書けるのか、書けないのか、ということ。

20代の頃、すごく好きだったものが今、急に頭のなかによみがえって来た。

自分ひとりでやる即興はひとりでやるだけじゃなくて少なくともひとりのなかにふたり必要

2016-07-25 | 音楽制作覚書
自分ひとりでやる即興は一瞬先に自分が出した音とその後に自分がそれに対して反応して出す音との会話みたいなものだということも出来る。

つまり、ひとり二役。
刺激する人と、刺激される人。そして次ぎの瞬間にはその役割が入れ替わる。
立場がずっと変わらないのは面白くないし、かといってあまりにも頻繁に変わりすぎるのも忙しすぎる。

紙と鉛筆の場合には、自分が書いた音に自分自身が反応しながら書き続けるという在り方。ここでもやはり、刺激する立場にあるものと、刺激される立場というふたつの在り方をひとりの人間がほとんど同時に具現するというパターン。





タブラチュア

2016-07-25 | 音楽制作覚書
実際の音の高さではなく、主に指使いとリズムを示すことによって楽譜としての機能を果たすものがタブラチュア。
この考え方を応用するならば、楽譜上には実際の音ではなく、楽器操作の方法(主に指使い)を示すということも可能。
このことによって必要以上に楽譜が煩雑になるのを避けることが出来るかもしれない。
べリオの「ジェスティ」という曲があるけれども、この辺におおきなヒントが隠されていそうだ。

時代の空気にどれだけ敏感で居られるのか、というようなこと。

あるいはまたどれだけ無関係で居られるのか、というようなこと。

どちらでも良いのだろうけれど、良い作品にはなんらかの在り方でその時代の空気が反映されているように思える。(あるいは「奏法」それ自体にも。ただし、必然性の薄い状態で使われた現代的な奏法は聴き手をして、しらじらしい気持ちにさせてしまうけれども)

タブラチュア記譜法を使うにしても、使わないにしても、その時、表現したいものが的確な状態で実現できるのかということ。

紙と鉛筆で即興するのか、楽器で即興するのか

2016-07-23 | 音楽制作覚書
結局、作曲というのは紙と鉛筆で即興するのか、楽器で即興するのか、という違いはあるにせよ、頭のなかで一瞬先に聴こえたものを楽譜という形にするのか、それとも空気の振動にするのか、ということだ。

紙と鉛筆を持っているのがより良い形で、楽器を持って即興するのはレベルが低いということにはならない。

それでは紙も鉛筆も持たず、楽器で音を出すことさえもせずに、どれほどまでに音楽的で居られるだろうか?

とにかく即興してみる

2016-07-22 | 音楽制作覚書
注文のある作曲や編曲の場合になかなか使える方法ではないかもしれないけれども、自分で書く曲の場合に使える方法のひとつ。
煮詰まったら、録音のセットしながらとにかく即興してみるのだ。
僕の場合にはリコーダーで即興することが多い。鍵盤楽器でも試みたりすることはあるけれども、なにせ鍵盤の上では指があんまりまわらないので、やっぱり、即興するならリコーダーがいい。

短い時は2、3分。長い時には延々30分超えることもある。使う音やリズムに制約を課しても良いし、課さなくても良い。
即興の録音が終わった後は使えそうな箇所だけ取り出して耳コピーなのだ。

ずいぶん原始的なやりかたかもしれないけれども、とにかく曲が出来れば何でも良いのだ。
修行時代に先生から教わったのは「とにかく作曲する際には楽器を使わないで頭のなかで音を鳴らしながら書くこと」ということがあったけれども、もうそれはそれ、これはこれなのだ。

即興したり、机の上で音符書いたりしていると、時々、思いがけない断片が浮かぶことがある。
でも断片はだまったまま、そこにあるだけ。

「ねえ~、あたしのこと見て~、ねえ~、あたし音楽史上、画期的な音型なのよ。ねえ~」なんて言わない。間違っても断片が「会いたかったわ」なんて言うはずないのだ。
断片は一瞬、頭のどこかに来て、すぐに居なくなる。それを捕まえるだけのことだ。

断片は断片のままだと、ただの断片だが、それが連なることによって、何か音楽的な物語が始まることがある。狙いはそこだ。


こざかしい音楽

2016-07-21 | 音楽制作覚書
音楽を作るうえでもっとも避けなければならないのは「こざかしい」感じになることだ。
中途半端にうまい奏者が「こうやれば客はよろこぶんだから適当にやってやれ」というような何かが見えてしまったり、あるいはまた奏者自身が他の奏者の演奏を本当は真から共感していないのに表面的に真似てしまうような場合に起こり得る。

海の詩 「シーラカンス」 廣瀬量平

2016-07-21 | 音楽制作覚書
廣瀬量平の合唱作品のひとつとして「海の詩」というものがある。
高校時代に合唱クラブに入っていたのでそこで皆で歌った。たしかクラブの演奏会で歌った記憶がある。

曲は組曲形式になっていて、わかりやすい調性で書かれているのだが、そのなかに「シーラカンス」という楽章があって、これが実に面白かった。
その楽章だけ無調で効果音として、電気的に増幅された状態でコップの水をストローでぶくぶく音を出すという音がはいっていた。

合唱クラブの皆は「海の詩」という作品を楽しく歌っていた。
もちろん「シーラカンス」も。

今の僕にとって興味深いことがひとつある。
少なくとも、しっかりしたコンセプトさえ備わっていれば、無調的な音楽というものは一般に広く受け入れられる素地は整っているのではないかということ。

もうひとつ。
組曲形式の作品を作る際に、全ての楽章の様式を統一しても良いし、しなくても良いということ。
もちろん統一しない場合には、やはりコンセプトがあることが必要。