吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

今度の曲は最初から

2013-05-16 | 音楽制作覚書
今度の曲、なんでこんなに時間がかかったのかということがわかった!
今までの曲と全然、違う作り方をしたんだった!

今までの曲はまず最初に細かく部分、部分をわけてそこにどういう感じのものを持ってくるのか、ということを準備してから書き始めていたのだけれど、今度の曲はそれぞれの楽章を書くのに、雰囲気だけ決めておいて、何も決めないまま、えいや!っと言って、いきなり書き始めたのだ。

そうだった。そうだった。途中で何回も行き詰まってしまった。今思うと、それはそうなんだろうな。ひとつの楽章が6分半くらいになるのだけれど、6分半のものを最初から最後までいきなりすらすら書くというようなやりかた、したことなかったのだ。

でもそのせいなのか、曲の進みかたは意外な展開も少しはあって面白いものになったような感じはある。そうなんだな・・・慣れないことをいきなりやろうとするのは、こういうことなんだな。

ものすごい時間がかかってしまったな。曲を書いている時間よりも天文館をぶらぶら歩いている時間のほうが長かったかも・・・・

バルトーク 弦楽四重奏第4番 最終楽章

2013-05-04 | 音楽制作覚書
バルトークが弦楽四重奏第4番 最終楽章で行ったことはいったい何だったのだろう、とずっと考えている。

もしかしたら単純な合いの手にはさまれた主題の変奏が延々と続いているだけなのではないだろうか。

計算され尽くした複雑な構造ではなく、こういう単純な構造のなかにどれだけ豊かなものを盛り込むことが出来るのか、という点、ここは作り手としての力量が問われるところだと思う。

ソナタ形式完成はソナタ形式堕落の始まり

2013-05-04 | 音楽制作覚書
ベートーヴェンはソナタ形式を完成させるという偉大な功績を成し遂げた。
でも、彼がやったのはそれまでの豊かなソナタという名称を持つ音楽の面白さを切り捨てて公式化することだったとも言えるのではないか。

ただひとつ救いがあるとしたら彼はその晩年のピアノソナタや弦楽四重奏でまるでソナタ形式なのか何なのかよくわからないようなものを残していることだ。

たとえばカステッロのソナタ第1番はどうだろう。
ソナタという名称を備えながらもベートーヴェン風の型にはまったようなところはどこにもない。それでいて、ひとつの独立した音楽作品としてちゃんと成立している。これは公式をたよりに作曲するような作り手には絶対に到達することのできない境地だ。

残念だけれどベートーヴェンの出現によって、ソナタというものの本来備えていたはずの途方のない豊かさがベートーヴェン流に型にはまったものになってしまったことは僕にとっては疑いのないところなのだ。

こんな文章、書いているヒマがあるのなら少しでも曲を進めなければいけないのだけれども、どうにもこうにも止まらないのである。

休みなく吹き続ける

2013-05-04 | 音楽制作覚書
バロックのリコーダーソナタのリコーダーパート、ほとんど例外なく、休みなく吹き続けるというのがそのスタイルとして確立している。
これはベートーヴェン以降の近代的なソナタと大きく異なる点なのではないだろうか。

とにかく吹き続ける。
休みなく吹き続ける。とにかく何らかの音が必ず鳴っていなければいけないし、それはたとえ次々に新しい主題や動機が現れて来るというような今ふうの考え方からすると、まるで「接続曲」として落第点をもらいかねないものでも有り得るのだ。

初期のソナタになるともっとこの点がはなはだしくなってしまう。
少なくともテレマンやヘンデルのソナタの場合はひとつの楽章はひとつの楽章としてのまとまりのある構成を備えているように見えるけれど、フォンタナやチーマあるいはカステッロあたりの曲になるともうほんとうにあちらこちらから材料を集めてきて適当にくっつけてしまったような感じにみえないこともない。

しかし、これが面白いところでフォンタナやチーマの才能はそれにもかかわらず曲全体はなんとなく、ひとつの曲として成り立っているように僕にはみえる。

これはすごく面白いヒントを提供している。

つまり、普通、僕たちは次のように考えてしまい勝ちなのだ。すなわち、ひとつの曲がひとつの統一したまとまりを備えているためにはそれを形作る材料の数は少なければ少ないほど良いということ。
多分、ベートーヴェンはこういう考え方を始めた最初の世代のひとりなのだと思う。

でもそれよりもほんのちょっとだけ昔にさかのぼるだけで、つまりヘンデルやテレマンの時代くらいまではこういう考え方はまだ少数派だったと考えることは出来ないだろうか?

ヘンデルやテレマンはベートーヴェンよりも、もっと、何というべきだろうかな、モーツァルトに近いところにいるような気がする。同じドイツ圏の作り手でもこんなに色合いが違うというのはやっぱりすごく面白いと思うのだ。

たとえばテレマンのメートーデッシュソナタ。
これなど見ても、もちろんひとつの楽章を形作るまとまりは、そのまとまりとしてちゃんとなりたっているのだけれど、たとえば二部形式の曲があるとしても、前半だけにしか出てこない音型とか、後半だけにしか存在しないような音型に出くわすことがある。

これ、厳格な作曲のレッスンの場合だと多分、減点の対象になりかねない。
少なくとも僕が受けて来た訓練だとそうだ。

つまり1回出てきた主題は少なくとも変化、変容、あるいは展開されてそのあと少なくとももう一度現れなければいけない、という教えがそれだ。
多分、曲の統一性を作るための教科書的な教えとして、これは間違っていないのだと思う。

でも実際にはこういう考え方を平気で破ってしまうのが優れた作曲家なのではないだろうか。
もちろん力量のない作り手が簡単に真似できるものでもないのだろうけれども。




ヘンデル、テレマンのリコーダーソナタ

2013-05-04 | 音楽制作覚書
ヘンデル、テレマンのリコーダーソナタを見てみると、曲によっては次から次へと新しい動機が現れて来るものがある。

普通はそういう書き方は作品全体の統一性を損なうものとして、音楽大学の作曲のレッスンみたいな場では大抵、嫌われるものではないかと思うのだ。

でもヘンデルやテレマンの場合はそれが作品全体を豊かにするものとして働いているのだとしたらどうだろう!?

次から次へと新しい動機、新しい主題が現れて来るのは多分、保守的な作曲レッスンの場ではよくないことなのかもしれないけれど、今は古典とされているはずのヘンデルやテレマンが実際に彼らの曲のなかでそういうことをやっているというのはどう考えたら良いのだろうか?!

それは多分、掟やぶりなのだ。

でも、掟やぶりがなければ音楽は面白くない。

掟やぶりがなければ作曲も、演奏も面白くない。

多分、ヘンデルやテレマンはこんな感じのことを考えていたのではないだろうかと僕は思うのだ。
そういえば保守的なはずの作曲のレッスンで、僕は先生からこういうことを言われたことがあるのを思い出した。

「音楽の面白さは、それまでの規則が破られるところにある」

先生がどういうつもりでこういうことをおっしゃったのかどうか今となってはもうわからないし、先生もそんなこと言ったかな、というよな感じかもしれない。

多分・・・・・僕が思うに・・・・・・


掟やぶりをやろうとするからには・・・・・・


掟をやぶらざるを得ないようなすごく強烈な何かが作り手、あるいは演奏者の奥深いところにある必要があるのではないだろうか。
それがあって掟を破るのか、それがないのに、ただ単に掟をやぶっているような外見を装うのか、ということで出てくるものはまったく違うものとして現れて来るのではないだろうか。

ヘンデルやテレマンが何を考えていたのか今となっては知る術もない。
第4番の弦楽四重奏を書いていた頃のバルトークにインタビューすることなんか出来ない。

でも残された楽譜から何かをたどることが出来ないとは言えない。
あまりにも過去の先輩たちが偉大すぎて自分なんか、もうちっぽけな砂粒みたいな感じもする。
でも砂粒にも砂粒なりに出来ることがあるのではないかと思いたいのだ。

なんだか遠いなあと思う。
鹿児島と昔のヨーロッパ。
すごく遠いなあと思う。やっぱり。
でもここでやってゆくのだ。鹿児島で。
ここで。

原始主義、それにまつわることなど

2013-05-04 | 音楽制作覚書
バロック期のリコーダーソナタなどの楽譜を見てみると、やっぱりすごく良くリコーダーが鳴るように書かれているなあと思うのだ。
曲によっては次から次に新しい旋律が現れて来てつぎはぎ細工みたいな感じになってしまっているのもあるけれど、それでもやっぱり、リコーダーがリコーダーらしく取り扱われているからそれだけでも音楽としてちゃんと成り立っている感じがある。

この場合、「鳴る」というのは実はそんなに難しいことではなくて、リコーダーの音域のなかでリコーダーにとって現実的に不可能ではない音の動きが適切に配置されているということだ。
あんまり短い音が続きすぎると、全体の響きが貧弱な感じになり勝ちだから、よく出来た曲の場合には短い音が続いたらその後はちゃんと長い音を吹いても良いような仕組みが施してある。

長いものだと60小節あるいはそれ以上になるものもあるのだけれど、だいたいず~っと吹きっぱなしである。昔の人は休みなく吹き続けるということを美徳としていたのかどうかしらないけれど、通奏低音は文字通り、音は出ていてそれがやむことはなくて、旋律楽器もだいたい音が出ていてずっと鳴り続けている感じの曲がほとんどなのだ。

このあたりは今の作曲者の感覚から言うとちょっと芸がなさすぎる感じかもしれない。
しばらく旋律楽器が休んで伴奏楽器だけになるというのも変化があって面白いものだと思う。

話は少し変わるのだけれども、最近、改めてバルトークの弦楽四重奏の録音を聴いてみた。
第4番の最終楽章。
アルバンベルク四重奏団の演奏なのだけれど、これはもう何というべきか・・・・・

「弦楽器がよく鳴る」とか、そういう次元を遥かに通り越してしまって、20世紀が始まったばかりのバルトークを含む限られた数の作曲家達(多分、ストラヴィンスキーも・・・・やりかたはバルトークとは全然、異なっていたけれど)が文字通り、「原始主義」みたいな、そのような音楽をひたすら目指していたということがわかるような気がするのだ。

これは「弦楽器が鳴るように作られている」音楽ではない。
そんな生易しいものではないのだ。
作曲者の目指していたものがいかなる方法によってか、僕にはもう知ることは出来ないけれど、とにかく、それが楽譜上にしるされて、それが類まれなる演奏者達によって実際に音にされたという記録だ。

ただし、バルトークはもちろんいかなる場合でも理性を失うことはなかった。
楽譜に書いてあることはすべてヴァイオリンやヴィオラ、チェロといった楽器で実現可能なことばかりだ。ただし、そこには20世紀初頭にうずまいていたはずの「原始主義」を反映するような、そんな時代の空気が色濃くただよっている。

バルトーク自身は多分、体質として彼自身のなかに「原始主義」のようなものに反応しやすい何かを備えていたのかもしれない。ストラヴィンスキーとか、そういう人よりも遥かに濃厚な何かを。
僕自身は楽器編成が小さくなったせいなのか、どうなのかしらないけれどストラヴィンスキーの「春の祭典」のような音楽よりも、バルトークの弦楽四重奏のほうにより「原始主義」的な何かを感じる。

これはバルトークに限らないことだけれども、とてもよく出来た音楽作品はまるで作曲者自身の即興演奏をそのまま楽譜にしてしまったような、そんな感じを受けることがある。
これはいったい、どういうことなのだろうかな・・・・といつも思う。

ひとつの作品を作るのに、何回も何回も主題を練り直したことが伝えられているベートーヴェンの作品だってそうだ。彼自身はモーツァルトみたな才能はなかったのかもしれない。ひとつの主題を決めるのに、何回も推敲を重ねなければいけないようなそんなタイプだったのだ。多分、ベートーヴェンというひとは。

でも、それでも彼の作品はやっぱり最終的な姿としてはとても自然で、まるで最初から、これ以外の形では有り得ないようなそんな完成度を備えているように見える。

反行、逆行、そして逆行の反行。
これらの3つの音列操作の方法、これは調性音楽にも無調音楽にもどちらにも適用できる方法なのだけれど、無反省にこれらの方法を使うとたいてい、すごくへんてこりんなものが出来上がってしまう。
何が言いたいのか、よくわからない音の動き、あるいは何が言いたいのか全然伝わらないようなそんな妙ちくりんな曲が出来上がることが多い。僕の経験上。

反行、逆行、そして逆行の反行。
これはたとえばバロック風のフーガみたいなものを作る時にも、12音技法の曲の場合にも使えるけれど、音楽を作るということの本質的なところと、こういうテクニックとはすごく遠いところに互いに位置しているように僕には思える。

今、僕が思うのは多分、すごく的外れかもしれないのだけれども、音楽を作るということの本質にすごく近いのは次のようなことではないかと思うのだ。

それは・・・・

締め切りに間に合わせること!
多少の不出来には目をつぶりながら、とにかく間に合わせること!
夜中のコンビニで珈琲のんで時間つぶしたりしても良いけれど、その分、しっかり取り戻して、とにかく間に合わせること!

自分の才能のなさとか、勉強不足とか、そういうことを言い訳にしないで締め切りに間に合わせること!