吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

つぎはぎ録音または通し録音

2014-12-23 | 音楽制作覚書
たとえ多重録音であっても通して演奏したほうが楽曲全体に一貫性が生まれる。
極端に表現してしまえば目の前の高機能なDAWがあってもひとつの楽曲を最後から最後まで演奏するということ。

この場合問題になるのはやはりモニターのバランス。
ヘッドホン越しにその時自分の演奏している楽器の音が聴こえてくるようにすることはもちろん出来るのだけれども、意外と有用なのはヘッドホンを半分くらいずつずらしてかけて、自分の演奏している楽器の生音も直接耳に入ってくるようにセットすること。


「可愛げ」

2014-12-13 | リコーダー奏法
演奏の際に「可愛げ」があるのとないのでは大違いなのである。
僕などはとてもじゃないが可愛げのある容貌ではないのであるが、それでも可愛げが欲しいのである。

世の中にはたとえば俳優のような職業あるいはアナウンサーでも良いけれども人前に出る仕事をしておられる方々のなかにはやっぱり魅力的な方々がいらっしゃる。

リコーダー演奏をするためには別に可愛げがなくても出来るのである。でも可愛げのある演奏であればもっともっと良いだろうなと思う。

可愛げを演出するために「ちーちーぱっぱ」みたいな曲を演奏するとか、髪を長くしてふたつ編みにするとか、ミニスカートにするとか、かわいらしく踊りながら演奏するとか、そういうことではなくて、普通の格好をしていても可愛げがあるようなそんな演奏が出来たら良いだろうなと思うのである。

小さな子とか、かなりの高齢の方が楽器を演奏したり、歌ったりする際にはたとえ演奏がおぼつかなくてもとても魅力的に映ることがあるのだけれどもここには何か理由があるはずなのだ。

演奏技術があっても全然可愛げのない演奏もあるだろうし・・・・こんなこと書いてるとなんだか自分自身が恥ずかしくなって来てしまいそうなのであるが・・・・

たとえば職業的な歌手とか、俳優のような人々の立ち振る舞いというのはもちろん参考になるものだろうとは思う。でも本当の可愛げというのはもしかしたらその人が普段、どういう風に生活してるのか、ということが100パーセント反映されてるとしたらどうだろう?

可愛げのある生活・・・・なんだかちょっと想像しにくいけれど、違う言葉で言えばそのひとなりに一生懸命生きているようなそんな生き方。。。

可愛げとはちょっと違う言葉になるけれども「色気」というものもある。
これなどはどうだろうか。

どうやったら生徒諸君の演奏、そしてやっぱり自分自身の演奏、少しでも良くなるかなと考えているのだけれども、楽譜に書いてある音をちゃんと出す、というのはもしかしたら演奏における一部分でしかなくて、もしかしたら演奏解釈とかそういうことでさえも一部分でしかなくて、演奏の一番大事なところはもしかしたら音楽以外の点で決まってしまうのではないだろうか?

だからといって練習しなくても良いとか勉強しなくても良いということにはならないはずなのだけれども・・・・

理由のないことはやらない

2014-12-11 | 音楽制作覚書
「理由のないことはやらない」・・・・・少し前まですごく良いことだと思っていたけれど、全然そうじゃない。

少なくとも作り手の立場にあるのだったら、こんなことありえないというか、理由のない何かがあって、それが形になるようなそんなところがなければやっぱりだめなんじゃないかと最近、強く思う。

以前は新しい曲を作る時には演奏時間とか構造とか調とか拍子とかいろいろなことをなるべく沢山決めてから書いていたのだけども最近はもうそういうのが面倒くさいというか、だんだんどうでも良くなって来てしまって、いきなり下書きを書いたりする。

書くのは良いのだけれども、後で見てみると、自分が何をやりたかったのか、よくわからないところがあって、まるで自分じゃない何かが書いたような感じに見えるときがある。なんか変な感じ。

譜面がすごくきたなくて音符が読みづらいとかそういうことではなくて音符はちゃんと読めるのだけれど何が言いたくてこういう音書いたのか後になっても???なのだ。

なんというか、若い頃「理由のないことは絶対にやるなよ」という流儀で仕込まれて来たせいなのか、なんだかすごく反動が来てしまっているのかもしれない。
そういえば作曲の先生からは「曲を作るのに楽器で音を出しながら作るのは最低!音は頭のなかで鳴らすものなのだ!」と厳しく言われてきたのだけど最近はもうどうでも良くなってしまった。

ピアノのパートが入る時はピアノ、リコーダーの時はリコーダー吹きながら曲を作ったりする。
それでも全然困らないのだ。


自分の書いた下書きなのに

2014-12-11 | 音楽制作覚書
自分の書いた下書きなのに拍子がどうなっているのか、調がどうなっているのか、さっぱりわからない部分が沢山ある。
下書きの時にはとにかく勢いにまかせて書くのでそれこそあとさき考えないで書く感じなのだ。

自分では旋律書いているつもりでも、あとから落ち着いてみると旋律の体をなしていなくて伴奏だったらなんとか使えそうなものも書いてしまっている。

演奏の際にはたとえば大事な留意点として「理由のないことはやらない」ということがある。

でもこんなこと言ってたら「理由のないことはやらない」まま終わってしまいそうだ。
そんなの面白くないではないか。

魔がささない人生なんて面白くないではないか。


自分でもなんでこうなってしまったのかよくわからないんだけど後で落ち着いてみてみたらなんか面白い!そんな感じに持ってゆくためにはある段階でやっぱり「あとさき考えない」ような何かと一体化することが必要かと思う。

もちろん最初から最後まで沢山のことを計算しながら作れる人もいるのだろうけれども・・・・・

というわけで自分で書いたのに一体何がやりたかったのかよくわからない部分も沢山ある下書きを目の前にしてこれからまた少しずつ進んでゆきたいのだけれどもこれから教室でレッスンなのだ。

切り替えを上手にやってレッスンに集中するのだ!

あとさき考えずに書いた素材のなかに

2014-12-11 | 音楽制作覚書
あとさき考えずに書いた素材のなかに思わず、使えそうな音の動きを発見することがあって、嬉しいのだ!

音の動きに関して作り手(筆者)がまず思うのは主な旋律として使える程度の強度のあるものがまず魅力的に映る。

でもそればかりでは音楽は作れない。主な旋律の支えになる伴奏が必要だ。
あとさき考えず、自分ではその時には全部が主旋律だと思い込んで意気込んで書いた下書きのなかに思わず伴奏に使えそうな音の動きが混じっているのを発見することがある。

これ、すごく嬉しい!なんだか宝さがししているような感じなのだ。

みもふたもない作曲法

2014-12-11 | 音楽制作覚書
曲に取り掛かっているとすいすい進む時と、全然進まなくなってしまう時がある。
進まなくなってしまう時は、すごくみもふたもない考え方になる。

今、頭のなかにあるアイディアはこんな感じ。

*やることがなくなってしまった時には高さを変えて反復(やりようによってはこれでかなり秒数稼げるのだ)

*やることがなくなってしまった時にはとにかく細かい部分を三部形式になるようにまとめてみる(これでちょっとだけ統一感出せる。もちろん秒数も稼げるのだ)

*すごく単純に考えると、前奏、間奏、後奏をつけるだけでなんとなく曲の形そのものは整う感じにはなる。ということはまんなかに入るのはふたつの部分ということになる。ということはこれは大きくわけると5つの部分になっているからA-B-C-B'-A'というほぼ対称的な構造を作ることが可能。

*どうやったら「ドラマチック」な展開が生まれるかというと、それはもうそのものずばり、「ありえないようなことが起きる」これに尽きる。すごい淑女みたいな女性に突然、魔がさしてその後の人生がどんどん・・・・こんなイメージ。。。。
でも言葉のない器楽曲でこういう内容を表現するわけにはゆかないので、そのあたりのところを考えると・・・



新鮮に聴こえる音

2014-12-10 | 音楽制作覚書
旋法的な音楽であっても、機能和声に基づく音楽であっても、あるいは12音技法によるものであってもそこには共通点がある。

新鮮な音を尊重しようとする態度だ。

旋法、あるいは和声に基づく音楽であればそれまでに出てこない音というのはその調に属する固有の音であっても新鮮に響くものである。ましてや他の調から借用してきた音であればなおさらのこと。

12音技法の場合は状況が異なるけれども、音楽的な緊張感に変化をつける上では通常の音の連なりがあるなかで特に新鮮に響くべき音があることは意味がある。

これらはヨーロッパの音楽を貫く共通原理だと考えることができる。
ここにあるのはひとつの要素になかにある様々なものを区別しようとする態度だ。

たとえば和音であるならば協和音と不協和音の区別。
調という切り口で考えるならば固有の調とそれ以外の調。

新鮮に響く音があることはその音楽が生き生きとした表現を備える上で重要な意味がある。

しかし全部が新鮮な音であることには意味がない。それでは全部同じように聴こえてしまう。出来の悪い12音技法作品が陥りやすい点はこのあたりにもありそうだ。

いずれにせよどこかしらに新鮮に聴こえさせたい音があるのか、ないのか、それが重要だ。

具体的な作業としては曲を作る上で「反復」ということをどのように捉えるのかということ。全く同じ反復に意味がないとしてしまうと、それは自分で自分の領域をせばめていることになりかねない。しかし全く同じ反復を無条件に許してしまえばそれは多様性の乏しさになりかねない。

どこまでその作品を「わかりやすいものにする」のか、どうか決めるのは簡単ではないけれどもここが決まると後はそれほど苦しくなく進むこともありそうだ。

ただし音楽作品は「わかりやすければ良い」というような単純な価値判断で割り切れるようなものではないにしても。
かとって支離滅裂な状態でも良いということにもならないけれども。

支離滅裂であること

2014-12-10 | 音楽制作覚書
支離滅裂であることは普通は良くないこととされるのだけれども、素材を準備したり、とにかく材料の数をそろえる段階では、そのような状態になることも致し方ない。というよりもむしろそのような状態の素材が勢いを持っていることがある。

最終的な形が支離滅裂なものであってはいけないけれども、すぐれた音楽作品といわれるもののなかには支離滅裂寸前のかたちになっているものがあることを忘れないでいたいと思う。

ここで思うのは様式の境目の時期に生きた作曲家たちが残したもの。
たとえばJ.S.バッハはバロック期と古典期の境目にあり、幾多の初期バロックの作り手たちはルネサンスとバロックの間を生きた。バルトークに至っては何と表現したら良いのだろう。ロマン主義、民族主義、前衛主義のみっつの狭間のなかとでも言えようか。

特にこのなかでもやはり初期バロックの作り手たちの残したものは非常に興味深い。
ソナタと呼ばれる作品群はベートーヴェン風の整ったものとは全く似ても似つかないものだし、それこそ一歩間違えると支離滅裂に堕しかねないぎりぎりのバランスで成り立っている。

このぎりぎりのバランスに関するセンスは様式が固定化してしまうとほぼ作り手たちのなかから消え去ってしまうことも多いように見える。
古典派の作曲家たちのなかでも群を抜いて多くの交響曲を作ったハイドン。彼の音楽は美しいが、そこには新しい様式を打ちたてようともがき苦しみながら何かを創造しようとする革新的なものは乏しい。

完成された様式は一見、美しいものに見える。
作曲におけるそれも、もちろん演奏におけるそれも。

しかしそれはもしかしたら音楽の墓場みたいなものだとしたらどうだろう。
今生きている音楽家のめざすところが人真似であって良いはずがない。
ハイドンは優れた作曲家だと言われる。しかし彼は本来何も新しいものを生み出すことがなかったとしたらどうだろう。
彼は彼自身の模倣をしながら終わってしまったのだとしたらどうだろう。

伴奏つけやすいフレーズとそうでないフレーズ

2014-12-10 | 音楽制作覚書
今、作っている曲はまず旋律だけ作って、その後、もうひとつの声部をつけてゆくという方法をとっているけれども、自分で準備した旋律なのに、そのなかで伴奏つけやすいフレーズと、どうやって伴奏つけたら良いのか、かなり考えないと出てこないようなそんなフレーズがあることに気がついた。

自分で準備した材料なのに、自分自身でそれらの音の動きの持っている性質を理解しないまま、ただ書いてしまったんだろうなあと思う。

自分で自分のやってることを理解してないなんて、作り手としてはまだまだだと思うけれど、こういう状態になっている以上、自分で自分に文句言ってても始まらないのでなんとかしなければ。

そもそも伴奏のつけ方が簡単だったり、難しかったするのには理由があるはず。

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2声部の音楽は微妙なところに位置する音楽だと思う。

クラシック風な和声づけで音楽を作ることもできるし、そうでなくも出来る。しかもそうでないやりかたをしながらもたった二つの声部だけでクラシック風な和声を聴き手に想像させることも出来る。
これは2声部の音楽だけにしか出来ないところだ。
3声部になってしまうともう和音がほぼ完結してしまうので、聴き手自体の想像力の幅は響きの充実度と相反して狭くなってしまう。

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そもそも伴奏とは何だろう?
単純にクラシック風の和声をつけるだけの伴奏ももちろんあって良いけれど、それ以外の在り方は可能だろうか?
もし可能だとしたらそれは具体的にどのようなものだろうか?

みもふたもない音楽制作

2014-12-10 | 音楽制作覚書
今取り掛かっている曲についてみもふたもない作り方のメモ。

*素材を短いフレーズにわける

*短いフレーズの最後の音を長くしてそこで出来た時間にもうひとつの声部でカノン風の旋律

*何もやることがない時間では適当にもうひとつの声部の伴奏にまわる

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今取り掛かっている曲を具体的にどう作るのかというメモなのだけれども、実はこんな方法はもう何百年か前にさんざんやられている。
ただ、さんざんやられているからといって今、やりようがないということではない点がまた面白いところだ。

話はちょっと変わるけれども、例えばそれまで絵に描いたような淑女だった女性がなんだかちょっとしたきっかけで旦那さんの会社のおかねを横領してだれかと駆け落ちして逃げちゃうとか、やっぱりこのあたりにドラマがドラマたる所以があるのだと思う。

ただし、ドラマはそのみせかけはすごくドラマチックにみえるけれども、作られている現場はものすごく地味な作業の繰り返しだったり、するわけで、やっぱり音楽のような世界に長年たずさわっていると、だんだんわかって来ることもあるような気がする。

言葉にしてしまうと、みもふたもないようなこと、それをどこまでドラマチックに作ることが出来るのか、どうか、作り手の腕の見せ所なのだ!