カサブランカ・ダンディ - 沢田研二
これこそ、まさに様式美の極致。
舞台芸術に関わる者の目指すべき方向の在り方。
ただしこれは当時の沢田研二しか実現することの出来なかった在り方。
クラシック、バロック系の演奏者がこのような在り方を追求することが出来るだろうか?
そもそも、そのような問いを立てること自体、おろかなことだろうか?
カッコイイ帽子ならぬ、お風呂場の洗面器みたいなものを頭にのせて腰をくねらせながら、リコーダー吹いてみるとか、そういうことでなくて。
クラシック系の演奏者にありがちな弱さがあるとしたら、それは作曲作品自体の強度に頼っていればある程度まで、外面が整えられてしまうという点なのでは。
でも、ポピュラー音楽だとこうはゆかない。
そもそも既存の楽曲を演奏することは「カバー」と呼ばれて二義的なものでしかない。
いや、待てよ。
バロックやクラシックだって、その曲が発表される時には新しい曲として発表されたはず。
沢田研二みたいな演奏者や作曲者がいなかったとは言えない。
この録画を度々、観る。
考えさせられる。
それは多分、様式美というものはこういうものだ、という答えの端的な在り方がここに示されているからではないか。
で、それはポピュラー系のみならず、クラシック、バロックを問わず全ての表現者にとって何か致命的であるほどの重要性、言葉を変えてみるならば、それがあるかないかで彼自身の世界への対峙の在り方そのものが全く質的に変容せざるをえないような何か。
これこそ、まさに様式美の極致。
舞台芸術に関わる者の目指すべき方向の在り方。
ただしこれは当時の沢田研二しか実現することの出来なかった在り方。
クラシック、バロック系の演奏者がこのような在り方を追求することが出来るだろうか?
そもそも、そのような問いを立てること自体、おろかなことだろうか?
カッコイイ帽子ならぬ、お風呂場の洗面器みたいなものを頭にのせて腰をくねらせながら、リコーダー吹いてみるとか、そういうことでなくて。
クラシック系の演奏者にありがちな弱さがあるとしたら、それは作曲作品自体の強度に頼っていればある程度まで、外面が整えられてしまうという点なのでは。
でも、ポピュラー音楽だとこうはゆかない。
そもそも既存の楽曲を演奏することは「カバー」と呼ばれて二義的なものでしかない。
いや、待てよ。
バロックやクラシックだって、その曲が発表される時には新しい曲として発表されたはず。
沢田研二みたいな演奏者や作曲者がいなかったとは言えない。
この録画を度々、観る。
考えさせられる。
それは多分、様式美というものはこういうものだ、という答えの端的な在り方がここに示されているからではないか。
で、それはポピュラー系のみならず、クラシック、バロックを問わず全ての表現者にとって何か致命的であるほどの重要性、言葉を変えてみるならば、それがあるかないかで彼自身の世界への対峙の在り方そのものが全く質的に変容せざるをえないような何か。