吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

前向きにあきらめながら・・・

2018-06-20 | ヴィオラ・ダ・ガンバ
前向きにあきらめながら練習してみようと思う。
ヴィオラ・ダ・ガンバ、いきなり良い演奏は出来ない。。。。

頭のなかにある理想型と現実はもうとてもじゃないけれど、埋まらないほどのギャップがあるのだ、というような、そのようなことをガッチリ受け止めること。

今日は重音トリル、そしてバッハのト長調のソナタを練習した。
トリルのほうは音楽じゃなくて、物理的にただ音を出すだけのものだから良いけど、バッハはさすがに、もうどうしようもない感じだった。

でもこんなもんだろうな、と思いながらとりあえず全部の楽章の音だしてみた。
自分のなかの音楽スイッチはオフになってる感じ。

偉大なバッハの作品をまるで練習曲みたいなやりかたでやるのはケシカラン!と少し前まで思ってた。

でももう、そういうのは良いことにしよう。
歳とって堕落したのか、まるくなったのかわからない。

来年の3月には大きなプロジェクト。
情報解禁できるまでしばらくあるかと思うけれど、これは多分、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者としての僕にとっては今までで一番大きなプロジェクトだ。ちゃんとした演奏したい。

頭のなかにある理想型と現実のギャップを埋め合わせるには「あきらめる」しかない。
でも、それは絶望するということではなく、もっとしたたかに何かに狙いを定めることだ。


フランダース・リコーダー・カルテット東京公演チケット

2018-06-14 | weblog
12月3日フランダース・リコーダー・カルテット東京公演チケットはギタルラ東京古典楽器センター、ならびに新宿の村松フルート、吉嶺音楽事務所でも取り扱い中です。

フランダース・リコーダー・カルテット(FRQ)東京文化会館公演チケット、お早めに

2018-06-08 | weblog
FRQ東京公演のチケットは東京文化会館チケットサービス、イープラス、ギタルラ東京古典楽器センター、そして吉嶺音楽事務所でも取り扱っています。
良い席が日ごとになくなってゆきますので御希望の方はお早めにどうぞ。

スタカートとノンレガートの境界線(技術的な事柄)

2018-06-04 | リコーダー奏法
あまりにもわかりやすい表現は退屈になり勝ちだ、と考えてみる。
アーティキュレーションという側面ではどうなるだろうか。

多くのリコーダー奏者(筆者も含めて)、技術的に最も難しいのはタンギングをするレガート奏法である。(ポルタート奏法と呼ばれることもある)

ここでは便宜的にレガート奏法を2種類に分類して考えてみる。

1.タンギングをしないレガート奏法
2.タンギングをするレガート奏法

1.の場合はタンギングをせずに指の変化だけで音の高さを変えるというやりかた(これは全然難しくない。初心者でもほとんど問題なく出来る)

2.はタンギングをするのだけれども、音と音との間にある隙間の時間を最小限にしようという意図のもとに行われる奏法。ちょっと聴くだけだと1.の奏法とほとんど同じに聴こえることもある。

簡単に書いてしまったけれども筆者の経験上、2.の奏法を的確に使いこなすのは非常に難しい。多くの場合、音と音が変化する際に意図しないほどの大きな隙間が出来てしまう。

もっと、それぞれの音が短くても良いということになると、それをここではノン・レガート奏法と呼ぶことにする。問題はここからである。

ここで最初の問いにもう一度戻ってみよう!!!

奏者がアーティキュレーションという切り口で何かを意図的に「明瞭に」あるいは「不明瞭に」表現することが出来ればそれはその奏者の表現の幅がより広がる、と考えてみる。

普通は「明瞭」に演奏することが良いとされる。しかし演奏の現場では「明瞭に」区別できるものと、そうではないものがある。

Aタンギングをしないレガート奏法
Bタンギングをするレガート奏法
Cノン・レガート奏法
Dスタカート奏法

このなかでA以外は全てタンギングを行う奏法だけれども、それぞれの奏法が聴き手に与える印象は大きく異なる。
ここから問題なのだ!!!

ここでBとCの境界線、そしてCとDの境界線にどのようなアーティキュレーションが有り得るか、ということを考えてみよう。

たとえばBとCの間には「ノン・レガートっぽいけれどもタンギングをするレガートぽくも聴こえる奏法」というようなものが有り得るだろうか?

あるいはまたCとDの中間領域には「ちょっと聴くとスタカートに聴こえるけれども、よくよく聴いてみるとノン・レガートにも聴こえる」ようなそのようなアーティキュレーションが有り得るだろうか?

ここで目指したいのは、その奏者が何をやりたいのか、ということを意図的に隠す、という在り方。
そのためには聴き手がより積極的な聴き方、あるいは積極的な想像力がなければ成り立たないような演奏。

このためには意図的に「どちらともとれるようなアーティキュレーション」を使いこなせる技術があればどうだろう???

この考えかたはアーティキュレーションだけではなく様々な要素に適用できるはず。
例えば「重みがあるのか、重みがないのかわからないような音」このような音を出すことが出来ればそれは「重みのある音」「重みのない音」という二元的な在り方から離れることが出来るのではないだろうか?

例えばまた、「ロマンチック」なのか「ロマンチック」じゃないのか、というような二元的な在り方から離れるためには具体的にどんな手続きをとったら良いのか、そのあたりのところを考えるヒントになれば。。。

あるいはまたその奏者が「上手なのか」「下手なのか」わからない、というような在り方。
普通は「上手な」ことにより価値があるとされているので、そのような基準にあてはまらないような音(ひっくりかえったような音とか、あるいはフレーズの終わりでピッチが下がってしまうような音などなど)は下手なものとみなされてしまうことが多い。

しかし本当にそうなのだろうか?

「わかりやすい」ってそんなに大事なことなのだろうか?
「わかりにくい」ことだってそれと同じほど大事なのでは?

普通は明瞭な演奏が出来るようになることが良いとされる。でもあまりにも明瞭になりすぎることによって失われるものがあるとしたらどうだろう?