吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

レセルカーダ

2015-05-09 | 音楽制作覚書
オルティスやヴィルジリアーノ、あるいはバッサーノの単旋律の「レセルカーダ」、そしてJ.S.バッハのポリフォニックな「リチェルカーレ」これらは、外見は大きく異なる音楽ですが、その音楽を成り立たせる精神は共通です。

つまり捜し求める、ということ。
しかも、それは即興的に、その場でその時に。ということです。
このようなことに思いをめぐらせるならば昔は「演奏する」ということ、そして「作曲する」ということが今よりもはるかに一体不可分だったのではないかと思えるのです。

多分、「即興演奏」出来るとか、出来ないというのは論外で、上手、下手の差はあれ、全ての演奏者は即興演奏するものだったのではないかと思えてならないのです。

でなければオルティスやガナッシ、オトテール、あるいはクヴァンツのような文献が成り立たなかったと思えるのです。
今より、遥かに「即興演奏」の比重は演奏者にとって重要なものだったに違いないのです。

オトテール ”プレリュードの技法”

2015-05-09 | 音楽制作覚書
必要があってオトテールの ”プレリュードの技法”という文献を調べています。
つい先日はやはり必要にせまられてオルティスのレセルカーダ集を見ていましたがそれらの文献を成り立たせる共通のアイディアに思いが至ります。

つまり、昔の人々にとって楽器を演奏できるようになること、というのは、その楽器で即興演奏できるようになることと、同じ意味だったということです。


今度の曲

2015-05-03 | 音楽制作覚書
今度の曲はもう格好なんか気にしないで作ることに決めた。
特定の楽器による即興も何でもありなのだ!

作り手自身の格好良さと作品そのものの格好良さ

2015-05-03 | 音楽制作覚書
作り手自身の格好良さと作品そのものの格好良さとは必ずしも同じじゃない。

格好悪い状態で作曲してたから出来上がって来る曲も格好悪い曲になるとは限らない。

ああ、こんなこと書きながら思ったこと。

やっぱり自分自身は「格好良さ」に憧れがあるんだ・・・ということ。

そりゃ格好悪いより良いほうが良いに決まってる。でも思い切り格好悪く、泥臭くやり続けるしかない場合も多いわけで・・・・
でも、そう言いながらもやっぱり格好良さには憧れがあるわけで・・・・・・

ヒント

2015-05-03 | 音楽制作覚書
ヒント:
修業時代には先生から様々な教えを受けるのだけれども、それらをそのまま踏襲するのか、それとも破り捨てるのか決めるのは本人だ。
具体的に以下のような事柄をどのように捉えるのか、ということでかなり大きな違いが出来るのではないだろうか

*「いまどき調性音楽などというものは芸術音楽の分野では通用しない」
*「楽器を使って音を確かめながら作曲するのは上手なやりかたではない。作曲というものは頭のなかで作ってからそれを書く行為。つまり机の上だけでも出来る程度には内的な耳が発達しているべき」
*「作曲する上で特定の楽器を即興演奏する能力はそれほど重要ではない」
*「いまどき現代的な奏法が全く入っていない曲は現代的な音楽という点においてはあまり意味がない」

まだまだいろいろあるとは思うのだけれども、ある時点でこれらに類するような考え方に疑いを持つことが必要になるかもしれない。
もちろん一般的な考え方というものは、それが現時点で定着する上で必然性があったから定着したわけで、それらは一般的な考え方、あるいは原則という点においては意味のあるものだ。

でも作曲なんって十人十色でいい。
というか十人十色だからこそ面白い。

こういう考え方にたつのであれば、ある時点で一般的な原則のようなものを自分自身で否定する、あるいは打ち破る、そのような態度が必要になるのでは。

演奏の場合にはとりあえず、目の前に楽譜があるので、一般的な原則のようなものの価値の比重は作曲に比して大きい。
でも作曲の場合はそうじゃない。

一般的な原則はあくまでも一般的な原則。

楽器を使って音を確かめながら作曲するなんて、耳の悪いから。
たしかにそれはそうかもしれない。

でも耳が悪いから作曲しちゃいけないという決まりはない。
耳が良い人は良い人のやりかたで、そうじゃない人はそうじゃない人のやりかたがあって良いはず。

それは格好悪いかもしれない。
でも格好悪い人は作曲しちゃいけない、なんていうことはないはずなんだ。

どうせ格好良く出来ないんだったら、格好悪いまま音楽を作り続けてもいいはずなんだ。

格好わるい作曲法

2015-05-03 | 音楽制作覚書
すごく格好悪い作曲法。
閃きがないからとにかく机の上で音符をこねくりまわす。
こねくりまわした音の並びをもとに即興演奏をする。
即興演奏をするけど、あんまり即興能力ないから、即興できたとしてもとても短いもの。
短い断片みたいなものをひたすらつなぎ合わせる。
とりあえず仮に録音してみる。
聴いてみて、おかしなところ(実際はおかしなところだらけ)を修正。

こんな感じ。
「閃き」とか「曲が降って来る」とか、そういう格好良い場面は一切ない。
でもこんな感じでもとりあえず曲にはなる。とりあえず楽譜にはなる。
締切があればとりあえず、間に合う。

とりあえず作る。とりあえず間に合わせる。たぶん一番大事なところはこのあたり。

メソードを超える何か

2015-05-03 | 音楽制作覚書
メソードを超える何か強いチカラがあってこそ新しい音楽が生まれるというのは自明のことだろうと思う。
その場合、何か既存のメソードの結果、新しい音楽が出来たのか、それともその作り手の閃きによってそれが生まれたものなのか、定かではない。

例えば古典派の時代に数えきれないほど生まれた群小作曲家のソナタ形式のようなものであれば、分析者としては、「これはソナタ形式という一種の作曲メソードを採用して書かれたものである」と考えることは出来るけれど、今、作られている音楽、あるいはこれから書かれようとしている音楽をそのようなひとつの切り口だけで定義付けることはほとんど不可能。

結果として「作り手の閃き」とか「曲が降って来る」とか、そういう描写になりがちだ。もちろんそのような側面もあるとは思うけれど、自分自身を訓練するための方法として、何かが降って来るのをひたすら待つ、というようなあり方は非現実的。

当然、自分自身を訓練するためのメソードが必要になる。人によってはそれはいきなり本番用の曲を書く、ということだったり、あるいはまた別の作り手によっては特定の楽器の即興演奏だったり、様々なはず。

音楽大学みたいな場所で教えられるのは、一般的に確立されたメソードだけなので、ひとりひとりの作り手が具体的にどのような作り方をしていたのか、というところまではなかなか取り扱うことは出来ない。

作曲する、という点においてはもっとも極端なふたつのメソードがある。
ひとつは楽器を使わずにひたすら机の上で書くというもの。

ひとつは書くということを一切排除して、いきなり楽器で即興演奏する、というもの。


実際の作曲はこれら極端なふたつの地点のどこかで行われることになる。そのバランスは作り手ひとりひとりによって様々に変化するはず。もっとも極端な例としては即興演奏したものをそのまま楽譜にしただけで音楽作品として成り立ってしまうというようなものだ。

ところで「何でもあり」というのはより良い作品を生み出すためのチカラになると同時に、障害にもなる。つまり「何をやっても良い」ということは、作り手自身が「何をやって良いのかわからない」ということにつながる危険を秘めているからだ。

たぶん、新しい曲を作るというのは「自分自身で自分自身に制約を課す」ということと、ほとんど同義なのだと思う。
だって人間は制約のない自由では何をやって良いのかわからなくなってしまう生き物だから。

「閃き」って必要だ。必要とまでゆかないまでも、あったほうが良い。あればあったであったほうが良い。でも、「閃き」みたいなものがなくたって、とりあえず何か自分らしいような何かを書けるだけのチカラも必要だ。というよりも、それこそがまず第一に必要なものなんだと思う。

自分自身を訓練すること。
これは演奏者であろうと、作曲者であろうと必要なことだ。
演奏者の場合はロングトーンをやったり練習曲をやったりする。作曲者だってたぶん、そうなんだ。その在り方がそれぞれの作り手によって異なっているというだけの話で。

即興メソード

2015-05-03 | 音楽制作覚書
ルネサンス期のディミニューション、バロック期のイタリア風即興装飾、そして20世紀のジャズのアドリブに関する教本類については明白な共通項がある。

もとになる音の骨組みみたいなものがまず提示され、それをどのような方法で装飾するのかということが複数提示されているという点である。

表面的に表れてくる音のイメージは大きく異なるのに、それらを訓練するためのメソードを構成する考え方は全く同じである。
ここには即興のみならず、作曲という点においてもとても大事なヒントが隠されていると思う。

古い音楽を演奏したり、演奏の現場に立ち会ったりすると思うことがある。
演奏すること、その場で即興的に何かを作り出すこと、あるいは作曲すること、それらは本当はとても密接で一体不可分の関係にあったんじゃないかということ。

たぶん、昔はその場で演奏者が何か作り出すということが今よりも、もっと当たり前のこととして行われていたはず。

で、それは今のクラシック音楽以外の場所では、当たり前のこととして行われているかもしれないこと。

バッハ、ベートーヴェン、ヘンデル、モーツァルト etc....、皆、優れた即興演奏者であったこと。
この事実と、彼らが優れた作曲者であった事実。。。。。。

それでは今、日本で行われている音楽教育の現状は???