吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

1月最後の日

2019-01-31 | 日常雑記
2019年の1月、最後の日がやってきた。
この間、元旦だと思ったらもう明日から2月だ。

今日は、というか今日も早く目が覚めてしまった。
うす~い珈琲を飲みながら今日一日やることを頭のなかでイメージ。

最近はとにかくガンバの練習にチカラを入れているのだ。
練習の合間にユーチューブみたりする。
なかでもやっぱり、パンドルフォの演奏は良い。

先生、というよりは兄貴、と呼びたくなるような感じなのだ。

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マタイ受難曲の演奏会も少しずつ近づいて来る。
最初のあわせの練習が2月下旬に1回、3月に入ってからまた何回かあって、最初は鹿児島公演、そして東京、神戸、岡山。

朝ごはん食べたら、早速、練習あるのみ。
とは言っても、マタイ受難曲のソロだけ練習していても煮詰まってしまうので、今日練習するのはテレマンの無伴奏曲、とマレのシャコンヌ、フォルクレの組曲も!

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「器楽奏者は歌い手に比べて劣っている、ということを自覚すべきである」というような意味あいのことを書き残したのは16世紀のイタリアの音楽理論家ガナッシだった。

こういうもの読んでも最初の頃は「はあ?何、言ってるの?」という感じにしかならなかった。

でも今はやっぱり「そうなんだよなあ」と思ったりもする。
やっぱり人間の声が備えている表現能力にはちょっとやそっとの楽器ではかなわない。
やればやるほど人間の声とか、より仕組みの単純な楽器の可能性の大きさに思い知らされる。

たとえば横吹きのフルートは発音の仕組みについてはリコーダーよりも単純な楽器だ。
ウィンドウェイのような凝った仕掛けは一切なく、管に穴が開いているだけ。
でもこのことによって横吹きのフルートはダイナミックな表現という点ではリコーダーをはるかに凌駕した。

それにしてもフルートには出来ないけれど、リコーダーに出来ることだってあるはず。

チェロには出来ないけれどガンバには出来ることとか、いろいろあるはずなのだ。

でもやっぱり最後にはその奏者がどれだけ音楽家で居られるのか、どうか、という点にかかっているのではないだろうか。「音楽家で居られる程度、度合い」というようなものを数値で測ることは出来ないけれど、これはわかる人にはわかってしまうのでは。

高い演奏技術が備わっているとか、音楽理論の知識が沢山あるとか、沢山の楽器を演奏できるとか、必ずしもそういうことではなくて。。。
もっと深いところから出て来ざるを得ないチカラの在り様みたいな。。。

だからと言って練習したり勉強したりしなくても良いということには全然ならないわけだけれども。。。
むしろそれは練習したり勉強したりすることを通してでしか到達できない何かであるはずで。。。

しかも普通にただ言われることをやっているだけで簡単に誰にでも与えられるものでもないわけで。。。

追伸:
「高い演奏技術」って何だろう?そもそも「技術」って何だろう?

考え方次第で、それはその奏者自身に高い演奏技術が備わっていることを巧みに隠すことの出来る技術も含まれているのではないだろうか。

Diálogo de violas, con Paolo Pandolfo y Amélie Chemin

2019-01-30 | ヴィオラ・ダ・ガンバ
Diálogo de violas, con Paolo Pandolfo y Amélie Chemin

パオロ・パンドルフォ、アメリー・チェミンの二重奏

更新のお知らせ

2019-01-30 | weblog
新リコーダー奏法を更新しました。

練習ひと段落

2019-01-30 | 日常雑記
練習ひと段落。
台所に行って珈琲のんだ。
そういうひと時、有り難いなあ、と思う。

バッハの曲を練習していると、自分がすごくちっぽけに感じられる。
昔はそういうのがイヤだったけれども、もう最近はそれでも良いのだと思える。

多分、歳とったのだと思う。

でも自分の曲を書く時は別だ。やっぱり少しでも良い曲書きたいと思うから、気合が入る。
もう大学も春休みだからあとはもう自分のことをやるだけなのだ。

新しい曲は今のところ予定としては8月に東京で発表する予定。
早めに作っていろいろ仕上げてゆきたいと思う。

音楽の歴史みたいな観点からすると、歴史に残らない曲は意味がない。
今度の曲、残るかどうかわからない。

でももうそういうこと気にしてもどうしようもないから書き進めるしかないのだ。
歴史など知ったこっちゃないのだ。

前進あるのみなのだ。

この間、運転したら道端で梅が咲いてた!

必ず「鳴らす」音、と状況次第では「さほど鳴ってなくても良い音」を区別

2019-01-29 | ヴィオラ・ダ・ガンバ
練習の際には必ず「鳴らす」音、と状況次第では「さほど鳴ってなくても良い音」を区別しておくと良いのではないだろうか。

全ての音がよく鳴っている、ということはあくまでも理想であって、実際にはそのようなことは実現できないこともあるという想定をあらかじめしておくというアイディア。

つまり全部の音をよく鳴らそう、として想定外の場所で失敗してしまうよりは、あらかじめ「さほど鳴ってなくても良い音」ということを決めておいて、想定外の失敗を減らすという考えかた。

付点音符の後に続く比較的短い音符など、状況しだいでは「さほど鳴ってなくても良い音」として練習の際に区別しておくこと。

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もちろん、なるべく全部の音が「良い鳴り」を備えていることを目指したいのだけれども。。。

この考えかたは奏者のリソースがあくまでも有限である、ということと関連。

16分音符でメトロノームを出しながら練習

2019-01-29 | ヴィオラ・ダ・ガンバ
今、取り掛かっている曲は16分音符でメトロノームを出しながら練習。
テンポそれ自体はとても遅いので左手と右手の関係や付点の比率やアーティキュレーションなど様々な点を意識しやすい。

付点音符とそれに続く音符を作曲者自身が記譜したという事実そのものがすでに「ぴりっと」スパイシーな感じで演奏してほしいという意思の表れなのでは?

でなければ通常の16分音符や8分音符の連続という記譜法(フランス様式や混合様式ではイネガルで演奏されることも多い)だけでじゅうぶんなのでは、という考えかた。

弓が空中にある付点とそうでない付点

2019-01-29 | ヴィオラ・ダ・ガンバ
当然ながら、付点音符の時の弓の状態はいろいろあって、弓が空中にある時とそうでない時(つまり弦に弓が接触したままの状態)がある。

同じ弦で付点音符から次の音符にゆく場合もあれば、移弦をともなう場合もあって、本当にいろいろある。

左手に関しては付点音符から次の音符にゆく際に次の音符をもう準備していられる状態もあれば、そうでない場合もある。

総じて大きな問題は以下の通り。
付点音符については良い音質を確保できていたとしても次に来る比較的短い音符の質が落ちてしまいやすいこと。

比較的短い音だからということはその質が落ちてしまっても良い理由にはならない。

ただし鋭い立ち上がりをもって短い時間しか必要とされない場合には「じゅうぶん鳴らす」ための時間そのものを確保することができない。

この為、「鳴り」それ自体をよくすることよりも、その音のキャラクターを明瞭に表現することが優先される。(タイミングとか、アーティキュレーションなどを「鳴り」よりも優先させるということ)

付点音符と次の音との比率も、厳密に記譜通りで音を出す場合もあれば、状況次第ではもっとつめた感じにしたり、ゆるい感じにしたり変化させても良い。。。

このあたりはガンバもリコーダーもかなり共通しているのではないかと思う。
練習あるのみ!

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ひとつの曲であっても練習する際のポイントを複数持っておくこと。

言葉を変えてみると「視点をくるくる変えてみる」

弦をいろいろ試してみる

2019-01-25 | ヴィオラ・ダ・ガンバ
今度の3月のマタイ受難曲全曲演奏会では良い演奏したいと思う。
これまでの反省点のひとつ、弦の選択にまだまだ甘い点があった。

調弦の際に4度や3度を微妙に広くしたり、狭くすること。あるいはまたフレットの位置を調整することでそれぞれの弦のピッチのクセをなるべくなくすように今まではして来たつもりだった。

でもその苦労はふさわしい弦を使えば大幅に解消されるということもわかった。

とりあえず様々な弦を試していたら、おおよそ一番良い組みあわせがわかった。

調弦の安定性のために低いほうの3本の弦はウェブ上で「ヴィオラ・ダ・ガンバ用のスチール弦」と称されているものを買った。

本当にガンバ用の弦なのか、それともどこかそのあたりの適当なチェロの弦を持って来てガンバ用として売っているのかわからない。

今、そのサイトをみるとサイトがなくなってしまっていてどうもあやしい(?)
中国製だろうか?

ただ、調弦の安定性という点からみると、それまで使っていたガット銀巻きのものとは格段の差。つまり狂わないのである。これは助かる!

音色という点ではあまり好きではない。ガット弦に比べると単純で僕の耳にはあまり色気のない感じに聴こえてしまう。

でも、もうあまり贅沢言っていられる場合じゃないので、とにかく調弦の安定性ということで低いほうの3本はスチール弦で行こう。

高いほうの3本の弦の組み合わせもだいたい決まって来た。
今のところこんな感じである。

1弦0.72mm 羊ガット(TORO)
2弦0.94mm羊ガット(TORO)
3弦1.26mm羊ガット(TORO)
4弦、5弦、6弦はスチール

毎日の練習の終わりには1,2,3のガット弦にはオリーブオイルを薄く塗ってひと段落。
まるでおまじないみたいだなあ。。。。

補講

2019-01-22 | 日常雑記
12月、休講にした分を埋めるため今日も補講にゆきました。
廊下で「マタイ受難曲よろしく!」と学生諸君と声を掛け合いました。

3月に開催されるJ.S.バッハのマタイ受難曲全曲演奏会があります。

今、皆、それぞれの場所で静かに進んでいるのだなあと感じることでした。

今週もう1回、補講の後、今期最後の授業があって試験を終えたら今年度も終わりです。
学生諸君、よく頑張りました!

今日は学校への行きかえり、車を運転しながらさっきの文章のなかに書いた「圧力」みたいなものについてずっと考えていました。

それは多分、出そうと思って出るようなものというよりは、おのずからそこに放射されて来るものなのかも。
だとしたら、そんなものについて考えるエネルギー使うより、上手に練習してるほうがずっと良いな。。。

でも、それにしてもやっぱりそれは大事な問題で。。。。

何故ならば、表現する者としてこれは欠かせない、という条件はいくつもあって、そのひとつは「技術」です。

でもそれは「聴く技術」とか「判断する技術」というものもあって、もしかしたら、それは楽器を上手に操る技術と並ぶほど、いやもしかしたらそれ以上に重要な技術なのではないだろうか。。。。

だとしたら、やっぱりその場の空間にどんな圧力が放射されているのか、というようなことを聴く技術は大事です。

今日はこんなことを考えています。

奏者から出てくる圧力みたいなもの

2019-01-22 | リコーダー奏法
自分でヴィオラ・ダ・ガンバのような楽器を弾きながら思うのは楽器それ自体に備わっている表現力、その幅の広さ。

悔しいけれど多くの点でリコーダーはかなわない。
音量差も音色の変化幅も。

かろうじてアーティキュレーションの明瞭さという点ではリコーダーもガンバ程度にはそれを達成できるだろうとは思う。

しかしそれ以外の点ではガンバにはかなわない。というか、擦弦楽器の持つ果てしない表現能力にはどうしてもかなわない。

それではリコーダー奏者がヴィオラ・ダ・ガンバ奏者と同じ舞台に立った際には、彼は常にヴィオラ・ダ・ガンバに圧倒され続けなければいけないのだろううか。

そんなことはないと思いたい。
現実は難しいかもしれないけれども。

ひとつ可能性があるとしたら、演奏者自体がその空間に発する「圧力」みたいなものでなんとかしてバランスをとることが出来るかもしれない。

それは実際に耳に聴こえる音とか、そういうものも含め、通常は耳に聴こえないような微細なチカラみたいな何か。
生きるチカラみたいな。。。。

悩むチカラでも、稼ぐチカラでも。。。。あるいはまた愛するチカラとか。。。何かに抗うチカラとか。。うまく表現するのは難しいけれども。。。。

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リコーダーのような楽器それ自体が持つ可能性の幅の広さ、というのは、はっきり書いてしまえば「欠点」である。
「特性」などと一見、きれいな表現をされることもあるけれど。

醒めた見方をすればそれはまぎれもなく欠点だ。

でも欠点を多くかかえた楽器は存在してはいけない、という決まりもないはず。
欠点を多くかかえていてもそれはそこに、あって良いはず。

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ここまで書いてひとつ到達できそう。。。

その「圧力」というのは、自分がその時、もっている楽器で表現しきれないほどの何かを、現実的にその楽器の枠のなかに収めようとして苦しみもがく際に発せられる熱量みたいなもの???
(ただし苦しみもがきをそのまま聴き手の皆さんにわかりやすく見せてしまっても良いということではない。もちろん)

こういうように考えてみると、かならずしも「自由自在に」演奏するのが必ずしも望ましいということでもないのでは。

むしろ自由自在でないからこそ実現する表現の方法だってあるのかも。