吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

相反するチカラ

2016-11-27 | リコーダー奏法
演奏の何が面白いかというと、相反するチカラが働いてせめぎあうところ。
それは音同士の関係でもそうだし、あるいは様式についてもそう。

つまり、何かがある方向を向いている際に、他の何かが別の方向を向いていることによるチカラのせめぎあい。

たとえばテレマンの無伴奏ファンタジー。
ある声部がある動きをしながらある方向をむいているならば、他の声部はそれとは異なる方向で動く。
上品な言葉で言えば声部同士の会話。
もっと激しく言えばやっぱり、チカラがせめぎあうこと。
これをひとりきりの奏者が表現する面白さ。

あるいは18世紀の曲を演奏する際に、いわゆる既存の「ピリオド」様式で演奏してみるという方向。
そして、そこにあえて19世紀風の音の扱い方を混ぜてみることによって生まれる豊かさ。

でも、もちろん、このようなことが出来るようになるためには楽曲分析が出来なければいけないし、そのためには和声、対位法の知識と経験、そしてピリオド様式とは何か、あるいは19世紀風のスタイルとは何か、こういったことを知っておく必要がある。
知っておくだけでは十分ではなく使いこなせるようにならなければいけない。

その上であえて演奏の現場でその場の空気(それはその場所独自のもの、聴き手が存在することによって生まれる何か、そして演奏者が表現しようとするものの化学作用)の一瞬、一瞬の変化と自分自身が対話すること。

様式を守るとか、意識的に壊す、というようなことはあくまでもその結果として生まれ出てくるもの。

真っ暗闇のなかを灯をともさずに進む(技術的な事柄)

2016-11-17 | リコーダー奏法
和声・対位法の知識と経験なくして演奏するというのは、真っ暗闇のなかを灯をともさずに進むことと似ている。

そこでは手がかりが全く見えない。
手がかりが全く見えなかったらどうなるか。
船だったら沈没、陸上だったらがけから落ちて転落。

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良い演奏というのは何が良いのか、というと、その良さのひとつに「強調すべき音と強調すべきでない音の区別が明瞭である」ということがある。

これ、すごく大事なことだ。

しかしながら、強調すべき音とそうでない音を区別するためには、区別するための方法を知らなくてはいけない。
その方法を知らずしてただ「さらう」だけの練習はもうある段階までで終わりにしたいのだ。

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経験が進めば進むほど、不自由な演奏しか出来なくなる人を見かける。
本当はそうじゃなくて、その反対でありたい。
勉強すればするほど、自由さがましてゆくような。

やっぱり、自分自身で楽曲の構造を分析できることは最低限の目標ではあるまいか。

主観的なこと、客観的なこと(イメージにまつわる言葉)

2016-11-17 | リコーダー奏法
レッスンあるいは練習の際に、主観的なイメージが話題になるのか、客観的な情報が話題になるのか、ということは決定的な違いになる。

例えば「星がまたたく夜にふたりきりで車のなかでいて、思わず彼の手が私のほうに伸びてきてドキドキするようなイメージ」

あるいは「この曲のこの部分からは属調のドミナントを暗示する音が出て来るから、色彩が変わるイメージ」というのでは同じイメージを扱うにしても全くその性質が異なる。

イメージという言葉を使わずとも、たとえば「ていねいに」音を出す、というような言葉は練習の際にはあまりにも漠然とし過ぎている。
「立ち上がりが速い音」なのかそれとも「立ち上がりの遅い音」なのか、あるいは「ぴったり純正の3度にする」のか「純正の3度よりも少しだけわざと高めにするのか」、とようななるべく具体的な言葉が欲しい。

イメージにまつわる言葉を練習の際にあまりにも安易に使うことに慣れてしまってはいまいか。

例えば「立ち上がりの瞬間にマルチフォニックの混ざった音」と「立ち上がりの瞬間にマルチフォニックの混じってない音」というのは客観的な区別だ。

「マルチフォニックの量」に関しても測定器があれば立ち上がりの瞬間を解析してその量を測定することは可能。

多分、レッスンとか練習の際に必要なのはこういった客観的な情報なのだ。
「ていねいに」とか、そういう主観的なイメージとして解釈されかねない言葉ではなくて。


発表会前 正しい練習法? 間違った練習法?(技術的な事柄)

2016-11-17 | リコーダー奏法
発表会前で生徒諸君は練習に余念のないところだと思う。
ちょっと最近、思うことがあるので書いておきたい。

リコーダーという楽器そのものを操作するための技術を習得すること。それはとても大事なことなのだけれども、自分の目の前にある楽譜がどんな様式のものでその音楽はどんな要素によって成り立っているのかということを理解しないまま、ただ音符をひたすら「さらう」ような練習はある段階までで終わりにしたい。

ある程度の水準を目指す奏者ならばやはり和声、対位法、楽曲分析の知識と経験は必要不可欠だ。
皆が皆、音楽大学を卒業していなければいけない、とか、留学して国際的な演奏経験がなくてはいけないとか、そういうことではなく。

たとえば古い音楽を演奏するために必須の考えかたとして「多様性」を盛り込むということがあるのだけれども、これを言葉としては知っていても実際に、それをどのような方法で実現させるのか、ということを知り、なおかつ、そのための具体的な方法を知らなければ実際の演奏に活かすことは出来ない。

楽譜に書いてある音符の意味を理解しようともせずに、ただ「さらう」ような練習は、ある段階に到達している奏者にとっては無意味とは言わないまでも、あまりにも貧しい在り方と言うほかない。

「さらう」のは必要だ。しかしどんな態度で「さらう」のかということが問題。

日本に帰って来てからもう16年めになるけれども、多くの人がその上達の段階においてある段階でその上達がとどまってしまうことを目にする。

多くの人があまりにも基本的な音楽理論である和声や対位法のことを軽視しすぎてはいまいか。

音楽は感情を表現するものだといわれる。そういう側面も確かにある。
しかしながら音楽そのものの構造を理解することなくして、感情とか、そのようなことを最初から目指すのはあまりにも貧しいやりかたという他ない。

P.S.
どんな「音色」を出そうとするのか、ということについての意識の低い演奏。これ、ダメな演奏である。
演奏というのは先ほども書いたとおり、音符を音にするだけでは全く不十分。
音符をどんな「音色」でどんな「タイミング」でどんな「アーティキュレーション」でどんな「ピッチ」で出すのか、という意識がない演奏はダメである。
その手がかりになるのは楽曲についての理解。

つまりある程度の和声・対位法に関する理解は必ず必要。(作曲とか音楽理論の専門を目指すような段階を目指す必要はないにしても)

「積極的」に「伴奏」してみる(技術的な事柄)

2016-11-08 | リコーダー奏法
「積極的」に「伴奏」してみることが出来れば演奏者としてはある程度の水準に到達していると言える。
例えばルネサンス期、バロック期における多声部様式の音楽をリコーダーアンサンブルで演奏する際に、それぞれの奏者が様々な箇所について「ここは自分は主旋律、ここは自分が伴奏」と区別することが出来ることが必要。

大事なのはそこから先。
「伴奏」だから小さい音で吹くというような試みはほとんどの場合、失敗する。ピッチが低くなり過ぎる、ということが主な理由である。

「伴奏」だからこそ「積極的」に演奏しなければ全体の音楽は決して面白いものにはならない。

人間の想像力とは極めて限られたものである。
ほとんどの場合、自分の知らないことは、想像することが出来ない。

「積極的」に「伴奏」してみる


新しい曲をやると以前やってた曲が下手になる

2016-11-01 | リコーダー奏法
新しい曲をやると以前やってた曲が下手になったりすることがあります。
特にまださほど経験のない人の場合にはこのことが顕著です。

以前、発表会で演奏して、その時はそれなりになんとか演奏できたのに、その後、新しい曲にとりかかっていてその曲に専念、そして練習をかねて以前やった曲をやろうとすると様々なところをすっかり忘れてしまってものすごく下手になってしまったりします。

本人は落ち込んだりもするのですが、これは当たり前のことなので、落ち込むことはありません。
新しいことをやっている時には以前のことはやらないわけなので、以前に出来たことが出来なくなってしまっても良いです。

経験を積むと以前やったことも忘れなくなります。
新しい曲をやっていても以前やった曲なら、ほとんどそのまま演奏できるようになります。
また新しい曲をやるにしても、よほど難しい曲でない限り、楽譜をみたらその場で演奏できるようにもなります。

経験を積んだ奏者とそうでない奏者との間にはこれほどまでに大きな違いがあるわけなので、経験の少ない奏者はやっぱりいろいろなことをうまくは出来ないわけです。

やったことのある曲ばかりやっていては当然、新しい曲も技術も習得することは出来ないわけですから、新しい曲をやることによって一時的に、以前、出来ていた曲が出来なくなってしまうことがあるにしてもやはり、新しい曲をやることが必要です。

発表会も近づいて来ているので、メモとしてこんなことを書いてみることにしました。