吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

思い上がり

2013-10-27 | 対話
「太郎、俺はこの間のお前の演奏会聴いて、はっきり言うけど、お前の演奏に興味なくなった」
「なんだと!?もう一回、言ってみろ」
「俺はもうお前の演奏に興味ない。面白くない」
「なにを!」
「聴く価値がない。俺にとって、もうお前のリコーダー演奏は意味をなさない」
「なんだと!」
「あのな・・・・・1回しか言わないからな、よく聞けよ。お前の演奏がこれからどうなってゆくのか、という期待とスリル、そういうものがお前のこの間の演奏からはまったく感じられなかった。バッハのシャコンヌも悪くなかった。テナーリコーダーでバッハのシャコンヌ吹けるのはお前くらいかもな。でもそれがどうした?」
「なんだと!俺に喧嘩売りたいのかよ!」
「あのな、お前は昔からバッハのシャコンヌ吹きたい、吹きたいって言ってたよな。20代の頃からそんなこと言ってたよな。でもあんまり難しくて吹けないもんだから、一時期あきらめたみたいになっちまってベルギーに行ったり、いろんなことしてたよな。日本に帰って来てやっとバッハのシャコンヌ吹けるようになって最初の演奏、俺は聴いたけど、音はずしまくって、ひどい演奏だったよな」
「なにを!この野郎!俺の演奏にそんなにケチつけたいのか!?」
「でもそれは客観的にみてひどい演奏だった。でも感動した。それに対してこの間のはほとんどミスもなくて音程も正確で、その点では良い演奏だった」
「お前、何が言いたいの?俺には全然わからないんだけど?」
「あのな、太郎、よ~く聞けよ。耳のあなほじってよく聞くんだぞ」
「聞いてるよ」
「今のお前の演奏には、聴き手をわくわくさせるものがない」
「なんだそりゃ?」
「それは演奏という営みのうえでもっとも重要なもののひとつだと俺は思う」
「??????」
「お前はテナーリコーダーでバッハのシャコンヌを吹ける数少ない奏者なんだろうな。世界でも数えるくらいしかいないんだろ。でもそれは聴き手にとってたいしたことじゃないんだ。そんなこと売り文句にも何もなりゃしないんだ」
「そんなことくらいわかってるよ!」
「あのな、お前がちょっと前まで持っていたような何か・・例えばそれは近づいたら斬られるんじゃないか、みたいなそういう殺気めいたものとか・・・・それさえも俺にとっては価値あるものだった。だってすごくわくわくするもん。。。。。。しかし今のお前からは全然伝わって来ない。何も伝わって来ない」
「・・・・・・・」
「それだけじゃない。今のお前の演奏から伝わって来るのは、うまいだろう、おれさまの演奏はうまいだろう、すごいだろう、という思い上がりだ」
「何を!もう一度言ってみろ!」
「何回でも言ってやる。俺にとってもはやお前の演奏は意味をなさない。お前の今の演奏から伝わってくるのは音楽じゃない。音楽じゃなくて、お前の持っている思い上がりだ。そんな演奏には俺は興味はない」
「何をえらそうに」
「えらそうにしているのはどっちだ。上から目線でおれさまはうまいんだ、うまいから聴けというような音を出して満足してるのはどこのどいつだ。思い上がるな。バッハのシャコンヌ吹けるくらいで思い上がるな。聴き手をなめたらいかんぜよ」

単純なロングトーン

2013-10-27 | リコーダー奏法
単純なロングトーンの練習。
こういうものを継続的に出来るのか、出来ないのか、という点にその奏者の明日の在り方に明白な違いが現れる。

音楽は楽しいけれど、楽しいことばかりではない。地味な練習もある。問題はその地味な練習をなんとか自分で工夫しながら継続的に出来るのか、出来ないのか、というその点に尽きる。

単純なロングトーン、あるいはシュテープスやブッケのような純粋に技術的な練習。
このふたつ。

このふたつをどれだけ継続的に集中力を持って出来るのか、否か。

P.S.
ロングトーン、そして技術的な練習。どちらもすぐにわかるような結果が出るようなものでもない。しかし、長い間かけてそれらをやった奏者とそれらに取り組んでこなかった奏者との違いは明白だ。

まとはずれでも良いから何か表現しよう

2013-10-27 | リコーダー奏法
まとはずれでも良いから何か表現しようとその奏者が思っている場合と、その曲に対して何の共感もなく、思いいれもなく、ただ義務的に音が出ているだけの演奏というのは誰が聴いても明白に違いがあきらかである。

ただ義務的に音が出ているだけの演奏、こういうものを果たして「演奏」と呼ぶことが出来るのだろうか。それはもはや「演奏」でさえもない。

意味のない音の羅列があるだけだ。
奏者自身がその作品に対して感動していないのに、聴き手がどうやったら感動できるのだろう。

日本に帰って来てから13年めになる。

ベルギーではこういうタイプの演奏は聴いた記憶がなかったから最初、何が起きているのか理解できなかった。たんなる無意味な音の羅列。

もう僕はそういうものを聴くのはいやだし、時間の無駄だからなるべくそういうところからとは離れていたいと思う。

的外れでも、音はずしても、何でも良いから、未熟でも良いから、その奏者が悩みながら、時には悩みがら、その時できる精一杯の何かを表現しようとしているその現場に居たい。

無意味な音の羅列に居合わせるためには人生は短すぎる。

演奏は最初の1分半が勝負

2013-10-27 | リコーダー奏法
演奏は最初の1分半が勝負である。
耳の良い聴き手であればだいたいそのくらいの時間があればその演奏者の格みたいなものは判断がつく。

発表会、演奏会、コンクール、オーディションしかり。

本当に聴いてもらえる演奏をするためにはその1分半を乗り越えなければならない。ここで台所事情が全部ばれてしまうような演奏をしてしまえばもうその後、どんなに頑張っても仕方がない。
なぜならばもう聴き手はその時には聴いているふりをしながら、今夜の晩御飯のこととか、何か他のことを考えているから。

問題は耳の良い聴き手にその奏者自身の台所事情をばらさないでおける時間をどれだけ長く保てるか。

ただし、これは才能があって、すごい技術があるからといって簡単にできる技ではない。
何故ならばそういう奏者はたいてい慢心しているから。

耳の良い聴き手にはその奏者の慢心の度合いまでばれてしまうから。

これは僕自身が考えたことではなくて、やっぱりヨーロッパで学んだことをただ覚書のようにして書いているだけなのだけれども。

「息」のクオリティ

2013-10-27 | リコーダー奏法
「息」には様々なクオリティがある。
最低最悪の「息」は奏者によって制御されていない息である。

それはときとして、いやほとんどの場合、ウィンドウェイにたまる水滴の最大の原因となる。

「息」を制御できない奏者に、いったいどんな音楽が創造できるというのだろう。

その奏者は満足な「音」さえも出せないのに。

「音」が出なくては音楽を作りだすことは出来ない。音を出すということ、息のクオリティを保つということ、それは音楽以前の問題だ。

「息」のクオリティを保つことの出来ない奏者に、リコーダー奏者としての未来はない。
ましてや「息」を制御できない奏者が、くねくねさせながらなにかやっている。

こういうのを笑止千万という。

音色

2013-10-27 | リコーダー奏法
楽器演奏のために重要な要素はいくつかあるが、そのなかでも最も重要はもののひとつが「音色」である。

「音色」を制御しようとする意思があるのか、希薄なのか、それともまったくないのか、という点においてその奏者はまったく別な道をたどることになる。

リコーダーという楽器は妙な楽器でしばらくの間は奏者自身に「音色を制御する」」という確固たる意思がなくても音が出てしまう楽器である。

しかし、なかにはそのことに甘えてしまって、音色を制御する意思を発達させないままの奏者も見受けられる。

その場合にどうなるかというとそのような奏者がリコーダーを演奏し始めて最初の1分か2分程度はなんとか音が出ていてもその頃を過ぎるとウィンドウェイに水がたまって来て発音不能になるのである。

音色を制御せずにリコーダーを演奏するというのはこういうことである。
このような奏者がどんな音楽を表現できるというのだろう。

音さえも出ないのに。

それは音楽以前の問題だ。

無駄な動き

2013-10-27 | リコーダー奏法
無駄な身体の動きは極力排除すべきである。

隙間の時間

2013-10-13 | ヴィオラ・ダ・ガンバ
隙間の時間を使ってほんのちょっとだけガンバの練習した。
ほんとうにほんのちょっとだけしか出来なかったので効き目はあんまりなかったかも。

でも音色は前に比べてよくなった感じがするからちょっと嬉しい。
速いパッセージとか、左手で和音をつかむ練習とか、少しずつ進めてゆこうと思う。

そうなのだ。この間、マタイ受難曲の練習の時にフルートの人から「吉嶺さん、この間のときからするとすごく良い音でてますね。雄大な感じがする」って言われてしまったのだ。

よっしゃ!

練習

2013-10-13 | ヴィオラ・ダ・ガンバ

12月までは弾く機会はないからちょっとくらい練習をしなくても良さそうな感じもあるのだけれど、ちょっと練習しないとものすごく下手になってしまうのでとにかく毎日、練習している。時間がないときにはメカニックな練習と今までやった曲の復習くらい。技術的な練習はほとんど音楽的な要素がないから、無味乾燥な感じではあるけれど、ガンバでハノンやっているようなそんな気分にもなって、なかなか良いものなのだ。

練習に取り掛かる時には音楽的にすごく盛り上がっているということはあんまりないから、すごくさめた気分で「よっこらしょ」という感じで音を出し始める。
そんなときの自分はへんな顔してるんじゃないかなと思う。

いかにもつまらなさそうな、やる気なさそうな顔。
どよ~んとした感じ。

すこしずつ身体が暖まって来ると音楽的な感じも少しずつ出てくる。それまではただひたすらすごくさめた耳とさめた気持ちで音を出すだけなのだ。

近々、チェンバロを弾かなくてはいけないこともあって、ここ数日はそのための練習に時間をとられていたのだけれど、それでもやっぱり隙間の時間を使いながらガンバの音だしは続けている。

子供の頃から始めたわけじゃないからすごくその点では遅れてしまっている。
楽器との一体感という点ではもう全然出遅れてしまっているからとにかく練習をさぼるとすぐにものすごく下手になってしまう。

自分ではうまくなっているのか、停滞しているのかよくわからない時が多い。というよりもずっと停滞しているような感じのほうが強いけれど、演奏を聴いてくださった方々によると1回ごとにうまくなっているみたいだから(御世辞も混じっているだろうけれど)、皆さんの言葉を頼りに、練習続けようと思う。


視点のこと

2013-10-08 | ヴィオラ・ダ・ガンバ
目がどこを見ているのか、というのは本当はたいしたことではないのかもしれない。
何故ならば一番、大事なことはその奏者が出したい音を出せるような態勢を彼自身で作ることが出来ているのか、そうでないかということだからだ。「要は良い音楽を演奏出来ればそれで良いのだ」という考え方ももちろんあるだろうと思う。

でもやっぱり、ここで考えたいのは楽器との一体感ということなのだけれど、たとえば歩いたり、走ったり、止まったりするような動作を人が行う時に普通、いちいち自分の足や手をみなくても出来るはずだ。

ある点を見なくても弾けるが、見ても弾ける、ということ、と見なくては弾くことが出来ないというということは何かその演奏者の根幹にかかわるような点に相違があるのではないかと筆者はやはり思う。

でもそれはたとえば左手を見なければ弾けない奏者はそのことだけでその演奏者の全てが否定されるということではもちろんないのだけれども。

あとやっぱり考えておきたいのはひとりの人間が発揮できるエネルギーには限りがあるということ。
左手を見て、左手の場所と弦やフレットとの位置関係を認識して、その情報を脳に伝達するというのはもちろんほんの一瞬で出来てしまうことなのだろうけれど、そのために神経細胞が働くためのエネルギーが費やされることには疑いない。

これはほんの少しのエネルギーだろうと思う。でも演奏の際には「ほんの少しのエネルギー」の不足が全体に大きな影響を及ぼすこともあるかもしれない。

ちょっと話が変わるけれど、大工さんの使う道具、たとえばノミとかカンナみたいなもの、もちろんノコギリでもそうだと思うけれど、良い道具はまるで体の一部になっているかのようなそんな使い心地があるらしい。
もちろんその大工さん自身にその道具をそのような水準で使いこなせる技術があってのことだけれども。

あまりにもいろいろな事を一般化して考えるのはよくないことかもしれないけれど、少なくともリコーダー演奏の場合には様々な無駄をなくそうという方向でその演奏メソードは発達して来たと思う。ということであればもちろんこれは弦楽器にもいえることだと思うのだ。