さて、立原論を巻頭に置いた本書は、2011年に書かれた「「建屋」と瓦礫と」というエッセイで締めくくられている。東日本大震災による原発事故後の福島第一原発についてのエッセイである。かつて「テクノニヒリズム」―技術というものが生理的に有している、とどまるところを知らない前進運動―について書いたこともある著者にとって、これは“戦争よりもたちの悪い後日談”だった。建築家にとってどれだけ無念だっただろう。「「建築」の哀れと情けなさ」と、ため息の聞こえそうな文章を綴る。長いが、そのまま引用したい。
「いまだ廃墟になれず、かといってもはやもとにも戻れないという、どうにも行き場のない宙ぶらりんの情けなさを露呈しているからだ。
ふつうなら建築というものは、それがいかなるものであっても廃墟になると、ある風格をもつものである。なぜなら、それはルイス・カーンの指摘したように、廃墟になったときはじめて建築の建築性が純粋に立ち上がるからだ。」
「では福島第一原子力発電所はどうか。いうまでもなく、それは無残な崩壊を晒しつつ、しかしなお生きつづけるしかない建築だ。・・(略)・・建築の生からは追放されていながら、しかし死して廃墟になることは許されず、そのうえ建築にとっては予想外の、奇怪な生命を預かったとしか思えない不気味な発熱さえ帯びているのだ」
「しかもあきれたことにだれも「建築」と呼んでくれない。「建物」ですらない。そしてやっと呼ばれた名称がなんと「建屋」なのであった。」
「廃墟」を論じ、「建つ/立つ」ことを換骨奪胎したような立原の考え方が改めて対置されよう。今につながってくる。ほとんど「屹立」ともいうべき現代建築の傲慢さを思う。
写真は本書のカバー画。著者による原発石棺化のエスキースである。寝そべって見てほしい。 (この項終わり 霜田文子)
「いまだ廃墟になれず、かといってもはやもとにも戻れないという、どうにも行き場のない宙ぶらりんの情けなさを露呈しているからだ。
ふつうなら建築というものは、それがいかなるものであっても廃墟になると、ある風格をもつものである。なぜなら、それはルイス・カーンの指摘したように、廃墟になったときはじめて建築の建築性が純粋に立ち上がるからだ。」
「では福島第一原子力発電所はどうか。いうまでもなく、それは無残な崩壊を晒しつつ、しかしなお生きつづけるしかない建築だ。・・(略)・・建築の生からは追放されていながら、しかし死して廃墟になることは許されず、そのうえ建築にとっては予想外の、奇怪な生命を預かったとしか思えない不気味な発熱さえ帯びているのだ」
「しかもあきれたことにだれも「建築」と呼んでくれない。「建物」ですらない。そしてやっと呼ばれた名称がなんと「建屋」なのであった。」
「廃墟」を論じ、「建つ/立つ」ことを換骨奪胎したような立原の考え方が改めて対置されよう。今につながってくる。ほとんど「屹立」ともいうべき現代建築の傲慢さを思う。
写真は本書のカバー画。著者による原発石棺化のエスキースである。寝そべって見てほしい。 (この項終わり 霜田文子)
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