
〈担う〉

〈継ぐ〉
入場者の一人がギャラリーに入ってきて、今井作品を一目見るなりこう言った。「この人は宗教家?」。
確かに今井さんの作品には宗教的なアウラが漂っている。特に〈担う〉という作品はキリストが背負った十字架を思わせるし、十字架を担う四肢の跡のように刻まれた4カ所の傷は、まさに聖痕そのものである。
しかし、必ずしも宗教的なテーマを持っているわけではない〈九つの窓〉にも〈継ぐ〉という作品にも、宗教的なものを感じないわけにはいかない。それは作品の巨大さがもたらす質量感によるものであり、素材としての木材に刻まれた年輪がもたらす悠久の感覚によるものでもある。そしてバーナーで漆黒に焼かれた地肌がその質量感と悠久の感覚をさらに強化している。
〈九つの窓〉は1~9の面積比を持つ窓をテーマにした作品なのだろうが、どうしても見るものの眼は虚の空間としての窓よりも、実体としての木材の方に行ってしまう。それほどに素材が持っている質量感と悠久の感覚が圧倒的なのだ。

〈九つの窓〉
先日、エドマンド・バークの『崇高と美の観念の起原』という18世紀の美学の本を読んだ。それまで混同されていた崇高の観念と美の観念を峻別し、崇高の観念をもたらすものは「個人の維持」に関わる“苦”の感覚であるとし、崇高の構成要素として“恐怖”“闇”“広大さ”“継起と斉一性”などを挙げて論じた名著である。
今井さんの作品の与える感覚はある種の崇高さであって、だからこそそこに宗教性を感じないですますことは難しい。さらには地肌の漆黒が畏怖の念を呼び起こす。今井さんの作品はバークの言う崇高の要件をほとんど満たしているのである。
(私のブログ玄文社主人の書斎にバークについて書いているので、お読み頂きたい)
〈九つの窓〉はほぼ垂直と水平だけで構成された抽象的な作品である。しかし、木材の自然に由来するなだらかな曲線や悠久の時間によって刻まれ、バーナーで焼かれることによって強調された年輪の模様がその抽象性を打ち破っていく。
それは27個(真ん中が空洞なので正確には26個)の正立方体で幾何学的に構成された〈CUBE〉という作品でも同様である。そこには自然に由来する美しさがあり、焼成を繰り返して丁寧に仕上げた仕事が、その美しさをさらに際立たせている。

〈CUBE〉
エドマンド・バーク風に言えば、今井さんの作品には崇高と美の結合が見られるのである。
ところで今井さんの作品が与える畏怖の感覚を大事にしたいと思う。今日現代アートの作品を見て畏怖の念を覚えることなどほとんどないし、そのような感覚を現代アートの作家達は忘れているとしか思えない。
畏怖などという感覚が虚構でしかないと言うなら言えばいい。しかし、今井さんの作品に対峙した時、そんなことは二度と言えなくなるに決まっているのである。
(企画委員 柴野)
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