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ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

「伝統とは革新の連鎖」――巌谷國士氏が語る「人間国宝・伊勢崎淳の備前焼」

2017年05月16日 | 展覧会より

写真は備前焼の人間国宝、伊勢崎淳氏の傘寿を記念した作品集である。この豪華本の著者は巌谷國士氏。昨秋、游文舎宛てに寄贈を受けた。巌谷氏と伝統的な陶芸というとちょっと意外な気がする。実際多くの人の反応もそうだったらしい。しかしページを繰るとその謎は一気に氷解する。
そこには、花器や皿といった、用途を持った作品ばかりでなく、太古の地層からむくむくと生まれ出て、蠢き出している、そんな生命感あふれるオブジェが、ごろごろしているのだった。
「物質」「生命」「風土」「有為自然」と章立てされた解説もまた、一般的な陶芸の本とは一線を画すが、何よりもこの本の特異さは年譜にある。ほとんど評伝に近い詳細な年譜は、伊勢崎氏の関心や嗜好が呼び寄せるかのように、次々と人のつながりができ、創作源となってきたことを明かしていく。若いときから少し年長で同郷のオブジェ作家・岡崎和郎と交友があったことは大きい。しかしそれも伊勢崎氏の資質がもたらしたともいえよう。そして瀧口修造や河原温、池田満寿夫、イサム・ノグチ等と親交を結び、さらに瀧口の紹介でミロの工房も訪れたという。また2015年には岡崎和郎、中西夏之との三人展を行っている。
さて、5月13日から伊勢崎氏の作品展が開催され、オープニングには巌谷氏の講演もあるという。会場は京都のギャルリー宮脇。アール・ブリュットはじめいつも意欲的な企画をしていて、游文舎でも「フランソワ・ビュルラン」展では企画協力をしていただいている。この組み合わせを見逃すわけにはいかない。
会場には割れ目や穿孔が効果的な「クレイ・ボール」や、精霊が深呼吸しているような「魑魅魍魎」「幻想植物」等が並ぶ。そして2014年に制作された「倒木再生」という、根とも幹ともつかない陶片のインスタレーション。いずれも重量感がありながら伸びやかで、陶土自体が流動し変成したかのようで、作為を感じさせない。その上で大地に根ざしていることを忘れさせない圧倒的な存在感、物質感を放っている。土と火と水が織りなす最もシンプルにして力強い、まさに「物自体」―オブジェなのだ。
巌谷氏は講演の中で、伊勢崎氏の言う「伝統とは革新の連鎖である」について、室町以前の穴窯を復活させたことが大きいとし、穴窯という古来の手法が、不安定故の偶然性も含めて、その物質性を最大限に引き出しているのだという。伝統の復活とは創造行為に他ならないのだ。そして、そこで作られた作品は、人間の営みとしての陶芸を思い起こさせ、風土、土地の記憶と結びつき、アニミズムをも感じさせ、国家の枠を超えた普遍性を持つのだと語った。
現代アートに接近するほどに、伊勢崎氏の作品は土や大地を意識させるものになっている。そして太古から生き続け、現代アートが滅んだ後も生き延びるであろう生命を想像させるのである。(霜田文子)


四半世紀を回顧――池田記念美術館で関根哲男展「原生」

2017年05月07日 | 展覧会より

細く切った生ゴムを一本一本植え込むようにして作られたパネル。1992年の作品だ。数年後、おびただしい数の布の細片を貼り重ねバーナーで焼いたものが出現する。さらに位牌や雑誌やズボン、荒縄などが登場する。5月3日から南魚沼市の池田記念美術館で「関根哲男展」が開催されている。ちょうど四半世紀にわたる関根さんの回顧展である。展示作品のほとんどをその都度見てきていたのだけれど、こうして一堂に並べてみると改めて集積行為に圧倒される。
ひたすら切る、バーナーで燃やす、泥をかけるなど、作業は実に忍耐強く、繊細にしてダイナミックだ。思いがけない技巧も凝らしている。ただしそれは小手先のものではないし職人的な精緻なものとも異なる。例えば、ズボンや荒縄を組み合わせたパネルの、切り込まれたような線は、縄を埋め込むようにしながらさらに集積を重ね、最後にその縄を切り取って作られる。そうでなければあの荒々しさや重量感に耐えられる線は生み出せないからだ。
初日には珍しく(個展としては初めてという)自身によるギャラリートークも行われた。この中で関根さんは「作業・営為・行為そのものを表現としてきた」「意味のない、無駄なことの集積」と繰り返す。「蟻塚のように」という言葉が印象的だった。
ゴム、化繊布、綿布、段ボールなどの素材そのもの、位牌や雑誌やズボンといった具体的な用途を持った製品等、扱う材料は一定期間ごとに変化しているが、いずれもありふれたものだ。しかしいったんそれらが心に引っかかったとき、まるで取り憑かれたように執拗に、徹底的に使い、もの本来の意味が剥奪されるまで続くのが関根さんの作業なのだ。
かつて関根さんとガルシア・マルケスの『百年の孤独』のラストシーンについて語り合ったことがある。近親婚によって豚のしっぽを持つ奇形の子供が生まれて一族は終焉を迎え、同時に暴風が町を一網打尽にしてしまう。町の歴史も一族の歴史も一瞬にして無に帰してしまう圧巻の終わり方に舌を巻いたものだった。それからほどなくして関根さんは豚のしっぽのように、筒状にして両端を絞った布を貼り付けた何枚ものパネルを作り、巨大な作品を生み出してしまった。(上の写真 2014年)あの鮮烈なラストの、イメージだけが増殖し、いつしか関根さんの行為と一体化し、呑み込まれていったようだ。
しかし「無意味な行為」であったはずの作品が「集積」を通して、様々なイメージを抱かせるのは事実だ。そしてシチュエーションによっても多様な表情を見せる。かけられた時間と密度が、観るものをして何か意味を見いだそうという行為に駆り立ててやまない。人類の、それぞれは無意味なはずの生が集積したとき、歴史の偶然を生み出してしまうことをも想起させる。饒舌にして静謐、不穏にして、美しく、不敵にして厳粛なのだ。(霜田文子)

新潟の美術家たち展Ⅵ―きらめき合う個性、共振する響き

2017年04月01日 | 展覧会より

12人の作家によるグループ展は、12の個性がぶつかり合いながら、会場全体には不思議な調和があった。グループ展とはいえ一人一人のスペースはかなりになる。巨大な作品やインスターレーションなど一点扱いのものだけでなく、複数点出品するにしても一つのまとまりとして、見方によっては一点と呼べそうなものもある。それだけ構想に時間をかけていたであろうことを想像させる。

第一室から。この会の発起人でありリーダー格の長谷部昇は、何層にも塗り重ねたキャンバスを削る、という手法で終末的な光景を描き出す。黒い画面から赤錆色が現れてくる作品が多い中、黄褐色の画面に刻線が縦横に走った作品が印象的だった。
赤穂恵美子は絹や麻の白生地に染色するという手法で、揺らぎ変容する光と水を表現してきた。古来からの手仕事を伝えながら、無限の色彩を含んだ宇宙空間を思わせる。
阿部敏彦の「シミにインスピレーションを得て描き出された」幻視の像は、いよいよ「時間」を内在化させるようになった。ペインティングナイフを自在に使い色彩とマチエールに磨きがかかる。

初参加、新発田市のカルベアキシロは大地を思わせる色や質感で「根源的なるもの」を追求する。古代の洞窟壁画を思わせる。そこには地霊も宿っているのだろう。
高橋洋子は様々な技法を駆使する多才な人だ。今回は工芸的な板絵を出品している。しかし「銅版画家」の矜持は見失わせない。自身の銅版画作品もコラージュしながら人間の内面に潜む悪や毒を美しい画面に仕立ててしまう。
霜田文子は卵の壊れやすさ、孤独感を油彩「風の卵」シリーズとして描き続けている。そこでは、壊れるだけではなく絶えず壊れては生まれる生命のダイナミズムをも表現しようとしている。


もう一人、初参加の佐藤美紀は大胆な色と構図で圧倒する。自動記述かと思わせる、スピード感あふれるストロークのような筆遣いに絵画の原点を見る。
松本泰典は今年も会場に合わせた巨大な絵画を出品した。根っこと立ち上がる木や新芽は、一貫したテーマでもあり、それが作品の大きさと呼応し、観るものに説得力を持って迫ってくる。
金川真美子は眠っていた古い布を丹念につなぎ合わせたタペストリー。一見パッチワークのようだが、無作為に接ぎ合わせることによって意想外の効果を生む。そして祖母の、先祖の脈々たる歴史をあぶり出すのである。
酒井大はプロ写真家として魚沼の自然や人を感性豊かに撮り続けている。雪の中の木々を縦構図に切り取った写真に暖かさと厳しさを見た。展示方法にも注目したい。
「出身地豊栄の福島潟に対するイメージを布の暖かさを使い表現しました」という簡単なメッセージが添えられた竹石莉奈の作品であるが、これほど簡にして要を得たコメントはないのではないか。柔らかく染められた布に細やかなステッチ。包み込まれるような優しさを醸し出す。
本間恵子は昨年に続き、洋服の接着芯を使った人体を林立させる。直立した人体の、(描かれていないはずの眼の)透徹した視線の先を思わず追いかけてしまう。
制作とは実に孤独な作業だ。どんなテーマであろうと畢竟自分と対峙することに他ならない。しかしそれぞれが独自に問い続けたものが集まったとき、自ずと時代や社会や環境が立ち現れてくる。あえてテーマを設けているわけではない。集合展の魅力でもあるだろう。

新潟の美術家たち展Ⅵ 4月1日から

2017年03月30日 | 展覧会より


4月1日より、柏崎市立図書館ソフィアセンターで「新潟の美術家たち展」が始まります。参加者は以下の12名。
赤穂恵美子(新潟市・テキスタイルアート)、阿部敏彦(柏崎市・絵画)、金川真美子(長岡市・テキスタイルアート)、カルベアキシロ(新発田市・絵画)、酒井大(魚沼市・写真)、佐藤美紀(新潟市・絵画)、霜田文子(柏崎市・絵画)、高橋洋子(新潟市・造形)、竹石莉奈(新潟市・テキスタイルアート)、長谷部昇(新潟市・絵画)、本間恵子(長岡市・造形)、松本泰典(長岡市・絵画)
柏崎では3回目となりますが、新たなメンバーを加え、春一番の出品にそれぞれ意欲的に取り組んできました。広い会場を生かし、見応えのある作品や個性あふれる作品が今年も並びそうです。ぜひご高覧ください。

想像力が試される―ラスコー壁画

2017年02月15日 | 展覧会より

簡潔に形態を写し取った線刻。落ち着いたアースカラー。複雑で豊潤なマチエール。現代アートと見まがうが、れっきとした2万年前の洞窟壁画なのだ。現代人と同じDNAを持つクロマニヨン人の“作品”を前にして、科学技術こそ蓄積され進歩しているけれども、感性は何ら進化していないのだとつくづく思う。それどころか、限られた道具や技術を駆使してあれだけのものを作り上げた創造力や想像力は、われわれを遙かに凌駕していたのだろう。
日頃上野界隈は美術館しか訪れないが、ポスターに引きずり込まれるように国立科学博物館で開催中の「ラスコー展」を観た。ラスコー洞窟壁画の再現展示である。
くびれたり、くねったり、分岐したりしながら続く洞窟に、全長約200mに渡って600頭に及ぶ動物たちが描かれているという。それぞれの特質が描き分けられているだけでなく、岩質に合わせて彩色画にしたり、線刻画にしたり、それらを組み合わせたり、と技法も使い分けられている。それどころか重なり合うように駆ける動物たちや、でっぷりと太った牛など、動きや遠近や肥痩も巧みなのだ。わずかな灯りの中でこれだけのものを描くには多くの人を要し、世代をまたぎ、長い年月をかけたであろうことは想像に難くない。画中にはいくつもの記号めいた物がある。表現=認識を共同体が共有し、伝える手段だったのだろうか。空間ごとの統一感を見るとき、文字こそ持たないが、高度な伝達体系が存在していたことに驚く。
また「井戸状の空間」と呼ばれる穴には、槍が突き刺さり腸(はらわた)がはみ出たバイソンと、鳥の頭を持った男性が倒れている図が描かれている。洞窟中唯一、物語性のある場面だ。同じドルドーニュ県のヴィラール洞窟にも同様の場面があるという。前期マドレーヌ文化の神話の一場面らしい。他にも尻を向けたサイや装飾のある武器等が描かれており、様々な象徴が複雑に絡み合っていることを思わせる。
ところで図録解説の「自然主義的に描かれた」という表現には違和感を覚えた。抽象表現を体験した現代人にこそ自然主義的とかリアリズムとかいった表現区分があり得るが、三次元を二次元で表すこと自体がすでにリアリズムではないし、さらには「荒々しい」、「強い」、あるいはスピード感といった概念を表そうとする意志が明確に見てとれるのだ。
それにしてもなぜわざわざ闇の奥底で描いたのだろうか。胎内に回帰するような、本能的なものだろうか。ゆらめく灯りの中で、描かれた動物たちも揺らぎ、迫り、遠ざかり、共に儀式に参加していたのかもしれない。時には「どうだい、強そうだろう」とか「でかいなあ」とか言い合っていたのだろうか。となると、作品としての価値も生まれていたことになる。人が表現するということを、芸術の根源を、考えずにはいられない。そして2万年を隔てて忽然と現れた遺跡と対峙するとは、われわれの想像力も試されていると覚悟しなければならない。(霜田文子)