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ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

新潟ギャラリー巡り

2017年01月08日 | 展覧会より
寒に入ったとは思えない穏やかな1日。游文舎も含め、柏崎はこの時期休館になるところが多い。そこで新潟市に出かけてみた。

まずは秋葉区のやまぼうし。舟見倹二さんの「ヒコーキに魅せられて」
ボックスアートと鉛筆画である。日露戦争時の地図を初めとする父の遺品が、小さな箱の中で強い存在感を放つ。ヒコーキは戦争の象徴でありながら、若き日の憧れでもある。その複雑な感情こそが次世代への証言として説得力を持つ。

ついで中央区のゆうむへ。写真は本間恵子さんの、繊細にしてちくちくと心に刺さるような作品。影も魅力的。他に佐藤裕子さんの、不思議な形の染色作品。初めて見る季村江里香さんの、布や紐が荒々しい質感となった小品に惹かれた。
KaedeGyallery+fullmoonでは「わたしの琳派」展。手法の異なる6人の作家の、それぞれの琳派風作品。色、モチーフ、空間などとらえ方はいろいろあろうが結局改めて自分に向き合い、突き詰める―こうして新たな可能性を見せてくれている。華麗だが力強い。DMから。

さらに羊画廊へ。「ガラス絵」展である。こちらはテーマは自由。バラエティーに富み、技法上の制約を逆手にとって、楽しさが溢れている。こちらもDMから。



游文舎は1月から3月までを、昨年の移転以来なかなか進まない書籍類の整理にあてさせていただきます。
毎週土曜日午後1時から4時は開館し、所蔵品の展示なども行います。気軽にお立ち寄りください。本年もよろしくお願いいたします。

もはや同じものではいられない――鴻池朋子展「皮と針と糸と」

2016年12月28日 | 展覧会より

新潟市美術館で開催中の鴻池朋子展。巨大な皮緞帳に引き込まれた。不規則な四辺形をつぎはぎした幅24mに及ぶ支持体に描かれているのは、噴火する火山から流れる骨や血管のような溶岩流に始まり、臓器や植物や冬眠する動物たち、そして美しい雪氷。右から左へと絵巻のように、始原の生命が植物や動物に分化し穏やかに眠り、やがて凍土に覆われる様を思わせる。私がとりわけ好きなのは溶岩流とともに地殻の中で蠢く、細胞のような塊や稚魚のようなもの。神話世界を構成する未分化の生命体たちだ。
人間の想像力を超える自然災害と、自然を見くびった人間の驕りを象徴する原発事故という複合災害を前に、誰もが観念の底を揺さぶられたに違いない。しかしほとんどが時間の経過の中で、その動揺をなだめ馴致させている。しかし鴻池の感受性は元に戻ることを許さなかった。
七年前の東京オペラシティギャラリーでの個展を思い出す。もともと鴻池朋子は神話世界と親しんでいた。「インタートラベラー」と題されたその展覧会は、文字通り広大な空間を地球の核まで、そして神話の世界までをドラマティックに往還するものだった。彼女は豊かな想像力で屈託なく、自在に世界の深奥へ、そして神話世界へと行き来していた。狼も彼女には甘噛みでしか接してこない、そんな親和力さえ感じられた。
今、その愛すべき獣たちの皮を使ってアートをするとはどういうことなのだろうか。筆致は相変わらず巧みだ。しかし皮は光により異様にテカリを発し、果たして支持体としてふさわしいのだろうか、とまず思う。会場には他に秋田の女性たちに作ってもらったという刺繍による民話や伝承を描いたものや、手びねりの得体の知れない陶器が並ぶ。
そこでそもそもアートとは何か、という問いを突きつけられるだろう。皮や布とはアートよりずっと以前から人類が接してきたものだ。アートと言う概念が現れたときから、それらは美術と一線を画されることになった。さらに皮を扱うことは人間の職掌の中でも周縁に追いやられた。そうした境界を鴻池は問い直す。その時、人間の営為とはそもそもが暴力的行為であることにも気づかざるを得ない。それらを排除して君臨する「アート」にどれだけの力があるのだろうか。あれほど親和的であった動物たちの皮を使う鴻池の営為は、まさに自覚的に根源的な暴力を引き受け、問い直していると言ってよい。(霜田文子)
 
 

匿名の人々の声をすくい上げる―ボルタンスキー「アニミタス―さざめく亡霊たち」

2016年12月17日 | 展覧会より

東京都庭園美術館で開催中の、クリスチャンボルタンスキー「アニミタス―さざめく亡霊たち」を観た。ボルタンスキーといえば2012年の大地の芸術祭で、メイン会場であるキナーレ中庭に膨大な数の古着を集め、クレーンでゆっくりつり上げ続けるインスタレーションが記憶に生々しい。執拗低音のように、地の底から響くような心臓音と相まって、前年の東日本大震災を思い起こさずにはいられなかった。
さて、会場に入ったものの何ら展示はなく、まずは旧朝香宮邸の室内や家具調度を見るだけかと思っていたところ、ふいに「そのネックレス、本当に良くお似合い」という女性の声がして、思わず自分の胸元に手をやり、辺りを見回した。私は日頃あまりアクセサリー類を身につけないが、偶然その日はネックレスをしていたのだった。しかし言葉とは裏腹に褒められているとは思えない、乾いた、抑揚のない声はどこから聞こえたのだろう。さらに様々な声が聞こえ始めた。「お母さん、寒い」「私の声、聞こえますか」「この階段を降りる度、ひやりとした湿った空気とすれ違う」・・・・・・。それらはいずれも感情を押し殺したように空疎に響く。繰り返し聞くうちに、次第に古い建物でかつて行き交っていたであろう人々の気配、かすかな空気の流れが立ち上ってくるように思われた。
古い壁や家具には長年そこで暮らした人たちの言霊が宿る――「さざめく亡霊たち」は、人々の集合的無意識に働きかけるフレーズを使った、「声」の展示なのであった。
ユダヤ系フランス人を父に持つボルタンスキーは、第二次世界大戦やホロコーストを想起させるインスタレーションを発表してきた。そこでは大量の人々というひとくくりではなく、匿名の声をいかにすくい上げることが出来るか、記憶をどう残すか、という試みが常になされてきた。
2019年、全国巡回予定の展覧会の前哨戦と位置づけられる今展では、影絵や眼をプリントした無数のカーテン状の布の中に金色の覆いを掛けられた塊、あるいは心臓音などのインスタレーションの他、豊島や南米での展示の映像などがあったが、新作と呼べるものは「声」の展示だけだ。しかし、鑑賞者との交錯という点でなんというインパクトを与えたことだろう。むしろ館全体をもっともっと無数の声で埋め尽くしてもよかったのではないか、というほどの鮮烈な印象と、不思議な懐かしさを与えてくれた。(霜田文子)


「新潟の美術家たち展Ⅵ」東京展始まる

2016年09月19日 | 展覧会より

4月に柏崎市ソフィアセンターで開催した「新潟の美術家たち展」のメンバー(一部除く)が、19日より東京銀座JAAギャラリー(日本美術家連盟画廊)で作品を展示します。出品者は阿部敏彦(絵画)、金川真美子(テキスタイルデザイン)、酒井大(写真)、霜田文子(絵画)、高橋洋子(版画、造形)、長谷部昇(絵画)、本間恵子(インスタレーション)、松本泰典(絵画)の8名。ご高覧くださいますようお願いいたします。。

関根哲男展「原生」―今井美術館

2016年07月15日 | 展覧会より
今井美術館ファクトリーがいよいよ閉館となる。最後を飾るのは関根哲男さんの、さまざまにアレンジされた「位牌」である。「位牌で、さらば!・・・なんまいだ。なんまいだ。」(関根さん挨拶文より)ということである。この大きな、無造作な空間が与えてくれた創造力、想像力に思わず手を合わせたくなる。板や紙を切り取ったり、新聞や雑誌を燃やして位牌形にくりぬいたり。それらはねじれ、よじれ、あるいは文化や情報を無化するかのよう。いわばやりたい放題なのだけれど、空間全体のこの整然たる様は、作者の意図するところだったのだろうか。無駄な行為の集積がもたらすのは静かで厳粛で少しばかりシニカルな笑いである。7月24日まで。なんまいだ。なんまいだ。(霜田)