60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

父のこと

2012年11月09日 09時03分45秒 | Weblog
 朝、出勤前に池袋のセルフ式の喫茶店に寄るのが毎日の日課である。カウンターから珈琲をトレーで運び席に座る。そこで思わず、「ハア~」というため息が漏れた。その「ため息」がいかにも父のそれと似ていることに気が付く。そのタイミング、長さ、声の質、これはまさに親父ではないか?・・朝夕、鏡に映る自分の顔を見つめると、そこに親父がいるのではと、まじまじと自分の顔を見つめることがある。顔全体の輪郭なのか、太い眉であろうか、それとも口もとか、歳を取るごとに親父の顔に近づいてくる感じである。「まあ仕方ないか?遺伝子の半分は親父から引き継いでいるのだから」

 父は5年前に亡くなった。新潟で父と同居している弟から、父が入院したと電話がある。体力的な問題で充分な検査は出来ないが、多分肺がんが進んでいて肝臓にも転移している、というのが医者の所見だそうである。一週間前に父と電話で話した時は声はカスレていたものの、なんの異状も訴えてはいなかったのに、・・・・・。「とうとう来るべきものがきた」そんな思いで弟の話を聞いていた。

 1年ぶりに見た父の表情は苦悩に満ちたものだった。鼻に酸素吸入の管を当て、それでも肩で息をしている。弟に詳しく聞くと、レントゲン検査では肺の2/3は白くなり、日々進行の度合いを早めいて次第に呼吸が困難になっているという。体が日に日に衰弱しており、病気を特定するための細胞の採取も出来ず、今は適切な治療が出来ないようである。しかし病状から見ると進行性の早い肺がんだろうということであった。父は部屋の中にあるトイレでさえ何分もかけて行き、ベットに帰ればハアハアと大きな息をする。食事を採れば新陳代謝が増して呼吸が苦しくなるからと、ここ一両日は食事も全く手をつけないようだ。今はただ点滴と注射による現状維持をしているだけである。翌日一番上の兄も見舞いに来る。兄弟3人が集まり、治療方針を話し合う。検査で病気が肺がんと確定しても、今の父の様子では抗がん剤や放射線照射治療は無理である。92歳の父にこれ以上の苦しみを味合わせたくない。あとは穏やかにあって欲しい。3人の意見は一致する。

 病名も、自分の置かれている状況も、可能性も、何も知らされない状態で、ただただ苦しい時を耐えている父。自制心が強い父ではあるが、そのことから来る苛立ちが私に伝わってくる。「もう夏は越せないと思っている」、「もう退院は無理だよ」、死が迫っている自覚はあるものの、どういう経過をたどろうとしているのか、先の見えない状況が父には一番の苛立ちのようである。あまり背が高くないものの、がっしりした体格の父を、私は子供のころからライオンをイメージしていた。ベットの上にすわり肩で息をしている父見るとき、「ナルニア国物語り」に出てくる傷ついたライオンのように思えた。物語ではライオンはよみがえるが、目の前の父の復活はありえないのだろう。

 見舞い3日目、病院に行き弟と交代する。父は昨日より若干楽なようで、ベットを斜めにして新聞に目を向けていた。しかしその目線は動かず、呆然としたした感じで時々目をつむり、何か考えているようでもあり、思い出しているようにも見える。私も持ってきた本を読みながら、時折父に目を向ける。2人の間に沈黙と静寂の時間が続いていく。父が元気なとき、新潟の実家で父と2人で沈黙があったとしても、それはさして苦痛でもなく、お互いが勝手な時間を楽しんでいるという風であった。しかし今はお互いがどう接すれば良いのか、考えながらも何も出来ず、重い空気が流れているだけである。父の息は相変わらず荒く、苦しい時間をただひたすら耐えているように見える。午後の3時を過ぎ、そろそろ東京に帰る時間になる。「じゃあ、俺は帰るけど、また見舞いに来るよ。頑張ってね」と声をかけ、父の手を握る。父も私の手を握り返し「あまり心配するな」と、たどたどしい言葉が返ってきた。これが父との最後の会話になった。

 その後、父の様態は瞬く間に悪くなっていった。翌週の土曜日に新潟へ行った時はすでに意識はなく、酸素マスクを口にあて、呼吸の間隔も長く、時折荒い呼吸をしている状態であった。弟によると、父は苦しがって点滴の管をはずまでになり、その苦しみを和らげるためにモルヒネの量を増やし、それでも苦しがるからと、今日は麻酔の処置を施したということである。目の前に横たわる父はもう二度と自分の意思を伝えることも出来ないであろう。死期を早める処置ではあるが、苦しむ父を見るのは辛い。家族にとってこれが最良の処置なのである。昨夜から徹夜の弟夫婦を家に帰し、病室は私と父の二人になった。昏睡状態の父に何を語りかけても反応はない。もう自分は何をしてもあげられない。父のそばに座ったまま新聞を手にしたり、寝息に耳を傾けたり、時おり病室をでて休憩室で珈琲を飲む。

 弟を帰して2時間が経過したころから、父の呼吸の間隔がしだいに長くっていることに気づく。 等間隔の呼吸が時折長く止まり、そして大きく息をするような感じで再開する。その長くなった停止が20秒以上になるのが気になって、ナース室に報告に行った。報告を聞いてしばらくして看護士2人が入ってくる。「おじいちゃん、体の向きを変えるからね」と声をかけながら体の向きを変え始めたので、私は病室から出て、看護士の仕事が終わるのを待つ。しばらくすると看護士がバタバタとモニターを病室に持ち込み、父の胸をはだけ電極のついたコードをつなぎ始める。モニターには3本の波形が移動し、数字が表記される。84の数字が64とか75とか唐突に変化する。これは多分心拍数なのであろう。その下の波形は呼吸の回数のようで、3になったり2になったりしている。看護士は私に、「心拍数が落ちています。至急家族の方を呼んでください」と伝えた。

 私は病室をでて弟に携帯電話をする。病室に戻ると、モニターは先ほどより乱れが大きくなっている。心拍数の80代が少なくなり、時折40代も出てくる。私は父の手を握る。父の呼吸はさらに少なくなり、数字は2回だったり1回だったり、心拍数が突然ゼロになる。「あっ、ゼロですよ」と看護士に伝えた途端、また80代の数字が現れる。 「もう時間がない、弟は間に合うのか」、私一人で看取ることへの後ろめたさに似た気持ちが湧き上がってきた。 再度携帯に電話する。「今、何処!」、「病院の玄関のところ」、「じゃあ、走って!」 父は時折り思い出したように息をする。「そう、その調子、息をして、頑張って」、そのたびに看護士は声をかける。しかし私は父には何の声もかけることも出来ない。「ああ、良く頑張った」心の内でそう思うだけであった。

 弟が駆け込んでくる。モニターの脈拍は時々ゼロになったり、それでも80代40代60代とランダムな数値が入り乱れていく。呼吸もゼロか1かで、実際の呼吸はなくなったようである。しばらくして、突然、心拍の波形がフラットになり、数値はゼロにななったままになる。看護士が病室を出て行き、すぐに医者が入ってきた。医者は父の胸に聴診器をあて、心音を聞き、父の目を開いて瞳孔を見ている。型どおりの診察を終えた医者は我々の方へ向き直り、「心拍も呼吸も聞き取ることが出来ず、瞳孔も開いているため、死亡と確認します。私の時計で午後5時3分です」

 入院して10日間、あっという間の父の死であった。苦しむ時間が少なかったと言えなくもないが、しかし壮絶な死でもある。肺の機能が次第に衰えて呼吸困難になって行き、最後は窒息死である。ベットを倒して横になれば肺を圧迫して呼吸が苦しくなるから、わずかにベットを傾けた状態で座った状態での10日間であった。「さぞ苦しかっただろう、さぞ辛かったであろう」そう思わずにはいられない。その間父は一言の泣き言も言わず、じっと自分の死を待っていた。「果たして自分にそれが出来るのか?」、それが私の最終の課題である。