60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

東京家族&東京物語

2013年01月25日 09時29分14秒 | 映画
 先日『東京家族』という映画を観てきた。『東京家族』は名匠・小津安二郎の名作「東京物語」をモチーフに、設定を現在に置き換えたリメーク作品のようである。田舎に住む老夫婦と東京で暮らす子供たち、近くて遠い両者の関係を通じて、夫婦や親子の絆、老いや死について問いかけた山田洋次監督の作品である。

 ストーリーは瀬戸内海の小島に暮らす老夫婦・平山周吉(橋爪功)と妻とみこ(吉行和子)が、子供たちに会うために東京へやって来る。そして個人病院を開く長男・幸一(西村雅彦)、美容院を営む長女・滋子(中嶋朋子)、舞台美術の仕事に携わる独身の次男・昌次(妻夫木聡)の3人の子供たちと再会を果たす。しかし、仕事を抱えて忙しい日々を送る彼らは両親の面倒を見られず、二人を横浜の豪華ホテルに宿泊させようとする。そんな状況に寂しさを覚えた周吉は、やめていた酒を飲んで騒動を起こしてしまう。一方のとみこは、一人身の生活を心配していた昌次(妻夫木聡)の住まいを訪ね、そこで恋人の間宮紀子(蒼井優)を紹介される。お互いが話し合ううちに恋人紀子の人となりに触れ、昌次の将来に安堵する。そんなことで上機嫌で長男の家に帰って来たのだが、それを皆に報告する前に突然倒れてしまった。そして救急搬送された病院で亡くなってしまう。突然の事態に戸惑う家族、 葬儀は故郷の瀬戸内の小島で執り行なわれる。葬儀が終わると長男と長女夫婦はそそくさと帰ってしまうが、昌次と恋人の二人は島に残り、今まで疎遠であった父との絆を取り戻していく。小津安二郎の「東京物語」とは多少の相違はあるが、しかし基本的には同じようなストーリー展開である。

 小津安二郎の「東京物語」は1953年制作である。小津映画の集大成とも言える作品で、国際的にも高い評価を受けたと聞いていた。白黒の古い作品だから当然実写では観てはいない。10年ぐらい前だったろうか、ビデオショップで借りて見たことがある。戦後まもなくの経済成長の真っ只中、子供たちは故郷を離れ皆都会に出て就職していった時代である。田舎に残された年老いた両親、そして都会で自分たちの生活に汲々としている子供たち、小津安二郎の細やかな叙述法で家族の繫がりと、その喪失という主題を見る者の心に訴えかける作品であった。私はその映画の中で、父親役の笠 智衆(りゅう ちしゅう)の演技のすばらしさが一番印象に残った。感情を抑え淡々とした語り口、実直で朴訥とした性格が滲み出し、映画全体の雰囲気や格調の高さを作り上げていたように思った。

 さて今回の山田洋次監督の『東京家族』である。当然映画はカラーである。時代は現在であるから、老夫婦も携帯電話を持っている。都内観光も「はとバス」に乗り、景色の中に東京スカイツリーが見えていた。二つの映画の時代背景のギャップは60年にも及ぶわけである。「東京物語」の時代は古い家族意識が残る反面、アメリカ文化の浸透と経済成長という背景の中で今までの家族関係が崩壊して行く時代であった。しかし60年後の今日はその崩壊は行き着くところまで行き、新しい家族の秩序のようなものが出来上がりつつある核家族の時代である。昔は夜行列車で一昼夜かけて上京してきた時代、しかし今は新幹線でわずか5時間である。そんな時代に広島県の小島から東京に出てきて、狭い子供たちの家庭に、予定も決めず何泊も(5~6泊)する親がいるのだろうか?東京見物をするのに子供が休みを取ってつれまわしてくれることを期待する親がいるのだろうか?映画全体に現代の感覚とのズレを感じてしまうのである。

 映画を観ていると、時々館内で失笑が聞こえてきた。その失笑は、全国くまなく情報が届く時代に、あまりにも現代離れしたトンチンカンな両親の言動に対するもののように思ってしまう。端的に言うと60年前の親が現代にタイムスリップして来たような印象である。小津安二郎の「東京物語」はシリアスな映画であったように思う。しかし山田洋次監督の『東京家族』はコミカルな映画のようでもある。インターネットで見た映画解説に山田洋次の監督生活50周年を機に、名匠・小津安二郎の「東京物語」にオマージュ(尊敬、敬意)をささげた家族ドラマと書いてあった。しかし私には比ぶべきも無い全く異質な映画のように思えてしまった。

               

               

               

               

               

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