goo blog サービス終了のお知らせ 

花浄土鹿児島

鹿児島の花や風景、祭りなどを巡るブログです。
(季節の花、吹上浜、桜島、霧島など)

カメラ散歩 常盤の五輪塔群 2018/11/16 (鹿児島)

2018-11-17 17:44:17 | 史跡巡り
11月16日(金)冠嶽神社に向かう途中で郡山町上常盤(かみときわ)に立ち寄りました。小学校跡地ではイチョウの落葉がきれいでした。

常盤小学校跡地 校庭への坂道


閉校記念石碑


鹿児島市郡山町の中心部から県道36号川内郡山線を西に進んだ上常盤地区にあります。閉校記念石碑には創立明治23年10月1日、閉校昭和46年3月31日と刻まれていました。

南側の広域農道横にはごく小さな公園があり、石橋と水車が設置されていますが気付きにくい感じです。彼岸花の多い静かな山間農村地帯です。

イチョウは半分ほどが落葉


クモの糸にぶら下がった落葉が揺れていました。面白そうでしたが左手に傘を持ち右手だけの不安定な姿勢で数カットだけ写しました。

鹿児島市指定史跡 常盤五輪塔群


校庭を挟んで学校への階段とは対角線上の竹林内に五輪塔群があります。

史跡の案内板


昭和56年縁のある人々の協力で、付近に埋没していたものを百余基の五輪塔・宝塔・層塔などに復元したと書かれています。大きな石塔などには花が飾られていましたが、一部では石が外れ落ちたもの、傾いたものもありました。



黄色に色付く楓はまだ緑葉でした。周囲の孟宗竹の倒れが目立ち、次第に管理が行き届かなくなっているのかもしれません。雨が降っていて苔むした石塔が落ち着きを感じさせました。

ツワブキと石塔群


野菊


一般的な野菊よりも白い花でシロヨメナのようです。
この日は主にツワブキと野菊を撮影予定でしたが、あまり見かけませんでした。そこで紅葉の進み具合を見るため、いちき串木野市の冠嶽神社に向かいました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西郷どん ゆかりの地 城山 2018/11/11 (鹿児島)

2018-11-12 16:59:21 | 史跡巡り
11月11日(日)久しぶりに城山遊歩道を歩きました。
この日は黎明館に所用があり早めに着いたので、城山展望台(107m)まで足を伸ばしました。

黎明館内に展示された西郷銅像タペストリー


鹿児島県歴史資料センター黎明館に壁掛け展示されていました。左側の上野西郷銅像は2階から掛けてあり見上げる形、鹿児島の西郷銅像は一階床面に合わせてあり横に並んで記念撮影ができます。

見え方の違う二つを横に並べてみました。上野の西郷さんは浴衣姿で愛犬と散歩しているように見えます。鹿児島のものは天皇警護の厳めしい軍服姿です。

上野の銅像除幕で夫人が「うちの人はこんな人ではなかった」と言ったと伝えられています。大河ドラマ西郷どんも終盤、ドラマの最後に登場するのは上野の銅像か、鹿児島の銅像でしょうか。親しみと実直さ、両方とも西郷どんらしさを感じます。

城山遊歩道 案内看板の一部を表示


右側の薩摩義士碑から城山遊歩道を上がりました。一部の道は階段になっていますが、全般に緩やかな坂道でゆっくり歩いても20分ほどで展望台まで行けます。舗装工事が進められていました。

薩摩義士碑


鹿児島県観光サイトから引用して紹介します。

1753年、徳川幕府は薩摩藩に木曽川・揖斐川・長良川(岐阜県)の改修工事を命じました。この宝暦治水は非常な難工事であり、約1,000人を動員し工費40万両を費やした末、1年3ヶ月かけてやっと完成しました。 その間、幕吏や地域住民との対立、 悪疫の流行などで88名の犠牲者をだし、その供養墓塔として薩摩義士碑が大正9年(1920年)に建立されました。藩の出費の責任をとって自刃した治水総奉行・家老平田靱負の碑を頂上に、将棋の駒を並べたような碑です。(引用終わり)

城山道路開鑿記念碑


明治時代の記念碑でしょうか、陸軍大臣の筆になる文字が刻まれています。道路設置記念碑として大切にされているようです。

こちらは日露戦争戦没者慰霊碑


薩摩藩の藩校「造士館」出身者の日露戦争戦没者慰霊碑です。明治44年に建立されており、石碑横には砲弾らしきものが置かれています。

遊歩道を歩く親子連れ


木の実を探しながら歩いていました。自然に保たれ生い茂った照葉樹林から木漏れ日が差しています。

お馴染みの展望台からの桜島


城山展望台からは市街地を一望でき、鹿児島湾(錦江湾)を挟んで目の前に桜島がそびえています。天気は下り坂で弱い南風に乗って噴煙が緩やかに霧島市方面に流れています。

団体客を中心に次々と観光客が訪れ、優美な姿をカメラに収めていました。西側に林が茂っていて日差しが届きにくく桜島背景で撮影すると顔が暗くなります。人物もきれいに写すためには発光機能があるカメラが便利です。

ボランティアのガイドさん2人が活躍していました。団体バスのガイドさんは、桜島を中心に、市役所、水族館、山形屋、県庁などを案内していました。きれいな筋雲が広がるのを期待して粘りましたがダメでした。

国旗掲揚台 城山礼賛の言葉


礎石に城山の素晴らしさをたたえる言葉が刻まれています。

宝の山
高からず 低からず 遠からず 近からず
40万鹿児島市民の排気ガスを緑の600余種の自生の森林が
さわやかに清めてくれる 身も心も私は魅せられて
雨の日も 雪の朝も 40年を 登りつづけてきた
健康のみなもと わが城山 感謝の心を
島津斉彬公の創られた日の丸の旗に託して高く掲げん
 永久に国のいや栄とともに!!
昭和49年秋 一老医(77才)建之

帰りは照国神社側に下りる 上の案内板では左側の白い道


展望台から下りてお土産品店を過ぎ、一般車両駐車場の北側から照国神社に通じる道があります。ここは利用者が少なく、中央に手摺はありますが道幅が狭く階段面は下がり気味でした。勾配が強く転倒の危険性もあるので高齢者には不向きです。体育会系の若者が足腰を鍛えるには手頃かもしれません。

半世紀ほども昔、祖父が城山ホテルから照国神社へは近道があると言うので一緒に下りました。今思えば85歳くらいの老人がよく歩けたものです。80歳までは畳職人を続け足腰は丈夫でしたが、何度も休憩しながら照国神社にたどり着くと座り込んでしまった思い出があります。

水路の落葉


照国神社横の水路に色付いた落葉がありました。かつてはネオンきらめくホテルがありましたが、今は立派なマンションが建っています。

城山を下りたら筋雲が出てきた


照国神社境内には七五三参りの家族連れを見かけました。あと30分早く雲が広がっていたら桜島とうまく組み合わせて印象的な風景が撮れたかもしれません。なかなか思い通りに行かないのが風景写真ですが、久しぶりの城山散策に満足しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カメラ散歩 川辺町の秋景色 2018/10/19 (鹿児島)

2018-10-19 20:53:30 | 史跡巡り
10月19日(金)早朝から南九州市川辺町に出かけました。
例年であれば竹屋神社に奉納される太鼓踊りはありませんでした。せっかくなので川辺町内を回り秋景色撮影を楽しみました。

きれいに積まれた薪


作業小屋の横にきれいに積まれているのは杉丸太を小割にした薪。これほどの念入りな丁寧さは鹿児島語で言うところの「ねんしゃ」(念者)のようです。

朝日に輝くススキと掛け干し


ススキの穂が朝日に輝いていました。田圃道に車を移したものの農繁期の車が気がかり。何枚か写しましたが銀色の輝きは捉えることができませんでした。

こちらは大きな農業機械


大きなカニのはさみのようなものがあり、刈り取った稲を脱穀してケースの方に移すのでしょうか。後進しながら稲を刈るとも思えず、どのように使われるのか今一つ想像できません。

稲わらを集める装置?


稲わらをかき集める装置のようです。大型トラクターは新車のようで、ピカピカでどっしりと存在感がありました。一般的な高級車よりもさらに高価な感じがします。

広域農道を自走する大型トラクター


農業機械が公道をようやく走り、後ろに車が連なったのは昔のこと。エンジンも大きなものでしょう、巨大なタイヤの走りは一般の車と変わらぬスピードでした。

生垣の隙間から差し込むお日様


細かな枝葉の隙間からレンズを照らしますが、光の差し込みはわずかな位置の違いで見えたり見えなかったり。私の場合は太陽光線を直接写すことが少ないので面白い経験でした。

耕す足跡の面白さ


おそらく歩行式の耕耘機を押しながら耕したのでしょう。沢山ついた足跡が面白く、撮影画像をモノクロに変換してみました。

道に迷って茶畑に出る


観光案内板の記憶を頼りに高田磨崖仏を探し回るうちに広い茶畑に出ました。遠くに見えるのは薩摩富士とも呼ばれる開聞岳です。ここでも広大な茶園管理に大型機械が動き回っていました。すぐに引き返し、途中の分かれ道を車が多く曲がる方向に進んでみました。

たどり着いた高田磨崖仏


川辺町の中心部方向(北側)へ走ると意外にも道路左手に磨崖仏の岸壁がありました。観光案内板に示されている県道29号よりも東側に入った別な道沿いでした。

素晴らしい仏様がごく自然に彫られていて、岩屋観音のような観光地でもありません。もったいない気もしますが、観光地化して人が押し寄せ荒れるのは忍びないこと。廃仏毀釈の嵐を免れた仏様には現状のままが良さそうです。

高田石切場と磨崖仏の案内板


文化文政の時代(1803-1840)に開かれた石切場、1678から1711年にかけて彫られた磨崖仏とのこと。

高田石切場入口


磨崖仏の南隣にある命水汲み場は後で立ち寄ることにして高田石切場に向かいました。道路の東側には平坦な石畳の清流高田川があります。

水汲み場の南隣には石切場の跡らしきものがあり壊れた作業小屋が残っています。さらに南へ歩くと高田石切場の小さな案内板が立っています。

高田石切場の跡地 石灯籠が残っていました


看板から山側に少し入ると高い岸壁の石切場がります。いつ頃まで操業していたのか不明ですが、石の表面に作業跡が残っているように見えます。なぜか石灯篭も残っていました。まっすぐに切り立った岩壁はどのようにして形作られたのか興味深い場所です。

たかたの命水


高田(たかた)命水汲み場には切れ目なく車が来て多くの容器一杯に水を汲んでいました。普段の水道水とは大違いで、口に含むと甘く柔らかい感じがしました。業務用でしょうか車一杯に積み込む人もいました。

水質検査表が貼ってあり、最近では給水口の下に石段が追加され水汲みがしやすいと好評でした。名水というより命水がふさわしいのでしょう。奥にはきれいなトイレも設置され、一帯は地元の方々が大切に管理されています。

手持ちのペットボトル2本に高田命水をもらって帰りました。太鼓踊りは見られず残念でしたが、様々な出会いに恵まれ楽しい秋の一日となりました。高田村づくり委員会の皆様に感謝、感謝。

10月28日追記 太鼓踊りは10月21日に奉納
本日のテレビ局(鹿児島放送)報道によると10月21日(日)に竹屋神社に下山田西区の35人が踊りを奉納したとのこと。
これまでは10月19日の奉納でしたが、日曜日開催に変更されたようです。

11月22日追記 最後の石切職人は10月に他界
今朝の南日本新聞「記者の目」コーナーに、地元で最後の石切職人だった有薗喜利(きとし)さん(81歳)は10月に他界され、作業小屋が「たかたの命水」入口に残っていることを知りました。有薗さんの切り出した石で造った石碑や石柱が知覧武家屋敷群にあるとのこと。次の機会には出かけたいものです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西郷どん 赤山靱負の墓 2018/02/17 (鹿児島)

2018-02-19 17:42:37 | 史跡巡り
大河ドラマ西郷どんに登場した赤山靱負(あかやまゆきえ)の墓を訪ねました。

仮設道路の案内板 以下の画像は2月17日撮影


赤山靱負について、鹿児島県観光連盟のウェブページ「明治維新と鹿児島みて歩き」から引用して紹介します。

悲運の死を遂げた赤山靱負の墓
血染めの襦袢(じゅばん)が西郷に渡されたと伝わる赤山靱負。島津斉彬の藩主就任を願う一派でしたが、お由羅騒動によって切腹という最期を迎えます。

西郷の父・吉兵衛が日置島津家の次男家である赤山家の御用人でした。赤山靱負の墓所は日置島津家の菩提寺のひとつ桂山寺で、現在は寺はなく墓地だけがあります。(引用終わり)

木々に囲まれて外見では墓地と判らない 北側から撮影 17時9分


黒木医院跡地が駐車場になっており、仮歩道を30mほど進んだ林の中に墓地がありました。ここから東側へ細道を進むと桂山寺跡があります。周辺の竹林を切り払い、休耕田を埋め立てて駐車場整備工事が進んでいました。

西側は山の斜面 北側から撮影


この地は私が日置の実家に行き帰りする道沿いにあります。赤山の墓石は桂山寺跡の仁王像近くにあるものと思っていましたので、西側に離れた場所とは意外でした。

墓地の説明看板


赤山の墓石は中奥 南側から撮影


参道工事の案内看板 17時29分


桂山寺跡への参道は軽トラックも入れないような狭さです。参道入口の市道も道幅が狭く駐車余地はありません。今回の明治維新150年を機に参道と駐車場の整備が進められているようです。

右側の山は城山(じょうやま)、正面奥が桂山寺跡です。赤山の墓地は画面外の左手(西側)にあります。寺跡の墓地は道からよく見えますが、あまり一般の人が行く場所ではなく肝試しの場所とも聞いていました。

今後この小さな墓地に多くの人が訪れるのでしょうか。静かな環境が壊され観光地化されることに違和感もありますが、この機会でなければ周辺の整備が進むことはないでしょう。

桂山寺跡 一般の墓石も数基ありました


仁王像と墓石


仁王像の間を少し上ると島津忠隣(ただちか)の墓石があります。1587年、日向の国根白坂で19歳にして戦死。その年の1月に生まれたばかりの長男・常久は歳久によって養育され、日置島津家として系譜は続いています。今回説明文を見て墓地の由来などが判りました。

日置市日吉町吉利地区には先の大河ドラマ「篤姫」で登場した小松帯刀の墓所があります。今回の西郷どんでは鹿児島出身のイケメン沢村一樹さんが赤山を演じました。早い回で切腹してドラマから消えてしまったのは惜しいところです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カメラ散歩 郡山町花尾の史跡 2017/02/17 (鹿児島)

2017-02-18 10:16:32 | 史跡巡り
2月17日(金)は九州南部に春一番が吹きました。
雨はわずかでしたが、車の窓を開けるほど生暖かい一日でした。
以下の画像は17日に撮影したものです。

鹿児島市郡山町の花尾神社に参詣


境内山林の祠


丹後局の墓所


花尾神社は杉や雑木林に囲まれて昼間も薄暗く心落ち着く場所です。墓石や石塔、祠などが周囲の斜面に点在しています。秋分の日は大祭で伝統芸能が披露されにぎわいます。

杉落葉と椿


通り雨


集会所の大屋根軒下には2月12日の残雪がありました。昼前の通り雨で、雨垂れが勢いよく落ちてきました。雨垂れを見るのは久しぶりです。昭和30年代の麦わら屋根や雨樋のない頃、雨垂れが作る水の輪を眺めるものでした。

道を山手に進むと青い実が


道路脇の紅梅


花尾のかくれ念仏洞の入口


山道に分け入る


杉林の中を上る


もう一息


念仏洞に着きました


ここを訪れたのは10年ぶりほどです。山手に少し入ったところに駐車場、トイレ、休憩所が整備されています。

雨の杉山を上ること約6分、念仏洞に着きました。途中で息が上がりました。ゆっくりと上がれば15分ほどでしょうが、狭い階段道なので足元に注意が必要です。

禁制の厳しかった時代に夜陰に紛れてたどり着くのは、大変な苦労があったことでしょう。信仰の灯が今に伝わっていることは感慨深いものがあります。

岩穴の中に置かれた仏様


入口側を見る


案内板


薩摩藩では300年にわたり浄土真宗が禁止されていました。
浄土真宗西本願寺派鹿児島別院のホームページから引用して紹介します。

かくれ念仏の歴史
鹿児島に、親鸞聖人を開祖とする浄土真宗が伝わったのは、室町時代中期1505年ごろと言われています。ここから日本の歴史でも他に類を見ない、約300年の長きにわたる薩摩浄土真宗への過酷な弾圧の歴史は始まります。

浄土真宗のみ教えが人々の間に流布すると、為政者による浄土真宗排斥の気運が生じました。それは「阿弥陀如来の前には、全ての生きとし生けるいのちは等しく尊い」という浄土真宗の教えが、当時の封建体制に相添ぐわなかったからです。そして真宗信者の結束力による統一的な行動が、政治的に利用され、一向一揆へと進展する危険性をはらんで、封建体制にとっては危険を感ずるものであったからと言われています。

以来、真宗信者の摘発は続きますが、慶長2年(1597)2月22日、第17代島津義弘によって正式に真宗が禁止されたのでした。

弾圧は厳しく、特に郷士層への摘発がなされ、身分を百姓へ移し、また居住地をも移すという処分が行われましたが、これは士分の削減と兵農分離政策をおしすすめ、近世的支配体制を確立しようとする薩摩藩の政策と大きく関係したものと思われます。

幕末期の天保6年(1835)、弾圧は極みに達し、この時期に摘発された本尊は2,000幅、門徒は14万人以上と言われ、弾圧と殉教の悲話は現在に伝えられています。

このような弾圧の続くなか、真宗信者は講(地域ごとの信仰者による集まり)を結成し、ひそかに山深い辺土や船上やガマ(洞穴)の中で法座を開き、また肥後水俣の源光寺や西念寺に聴聞に赴き、信仰を存続しました。花尾念仏洞、田島念仏洞、立山念仏洞など、現在も鹿児島、宮崎の各所にその遺跡は残存しています。(引用終わり)

念仏洞から下りると天気が回復、晴れ間も見えてきました。この後薩摩川内市東郷町の藤川地区に向かい梅を撮影しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カメラ散歩 笹嶺馬頭観音と瀬戸大石塔 2015/02/15 (薩摩川内市)

2015-02-17 17:09:04 | 史跡巡り
2月15日は藤川天神に向う途中で薩摩川内市樋脇町倉野地区にある笹嶺(ささみね)馬頭観音と、瀬戸(せど)大石塔を訪ねました。

笹嶺馬頭観音 薩摩川内市指定文化財


道路横の階段を10mほど上ります


鹿児島市から国道328号で入来峠を越え入来副田温泉を過ぎ、左折して県道333号、356号を進み旧倉野小学校を目指します。

小学校周辺が見え始めると道路左手に小さな案内看板があり左折、田んぼ道を100m程度進むと左上に見えます。坂道にはドングリが一杯落ちていて足元に注意しながら上りました。

観音様の正面


右側面


左側面


案内看板には次のように書かれています。
「馬頭観音は、人の煩悩を食べ尽くして救済する観音ですが、江戸時代以降、牛馬の安全と増産や死んだ家畜の供養などの信仰の対象として、一般に広がリました。他の観音と違い、憤怒の表情で、馬を頭上にいただいているのが特徴です。

 この像は、三面八臂(顔が三面、手が八本)で彩色が施され、その精巧な彫刻技法は驚<べきものがあり、美術工芸的な観賞価値も認められます。手法から江戸時代のものとみられますが、作者は不明です。」

手が八本と書かれていますが、右側は3本しか判りませんでした。鹿児島は明治初期の廃仏毀釈が激しく、殆どのお寺、仏像、石仏などが打ち壊されていますが、この観音様は全く無傷に思えました。彩色が施され、きれいなお姿です。

上に行けるような山の斜面


後から判ったのですが、瀬戸(せど)の大石塔はこの上の雑木山に立っていました。昔は子供たちの格好の遊びだったことでしょう。

瀬戸の大石塔 案内標柱 ブロック塀の先端部から上がる


ここは初めて訪れる場所です。石塔は広い場所にあると思い先に進むと廃屋と苔むした車がありゴミが散乱した荒地でした。周辺を見ると斜面にロープが張られていました。訪れる人は殆どないのでしょう、落葉が厚く積もり足元がもろい感じでした。20m程度上がるとすぐに石塔が見えました。

大石塔


石塔の形はよく見かけるもので、高さは2m程度。横には長方体の石柱もありましたがいずれも風化が進み苔むして文字らしきものは見えませんでした。礎石の横には小さな石塔頂部のようなものが2個と湯のみ茶碗が一つだけ置かれていました。

案内標柱の側面には次のように書かれていました。
「養老四年(720)大伴旅人率いる隼人征討軍は船で川内川を遡行、倉野渡瀬(わたりせ)(船着場)に上陸し祢地原(ねじはら)(現在の柳原)を通り討伐に向かったという。渡瀬はここから北西八〇〇mの位置にあり、この直下の道路が祢地原に通じる昔の道である。

征討軍は炎暑と熱病によって数千の兵が斃(たお)れたと『続日本紀』に記されていることなどから、この大五輪塔は戦病死したこれら将兵の供養塔ではないかと推定している郷土史家もいる。

馬頭観音よりもずっと古いもののようです。文字などが残っていたら史跡としての価値もあるのでしょうが惜しいことです。川内川や周辺の田んぼを見渡せるような場所ですが、雑木が茂り見晴らしは利きません。

周辺の林と石積み


大石塔は期待はずれでしたが、周辺の雑木山や石積みは歴史を感じさせるパワースポットみたいな雰囲気が漂い興味深いものがありました。川内川近くには倉野磨崖仏、梵字、六地蔵塔もあります。こちらは道路のすぐ横に見えていて判りやすい場所です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本発祥の地 春の笠狭宮跡 2014/03/27 (南さつま市)

2014-03-29 17:05:40 | 史跡巡り
日本発祥の地とされる南さつま市笠狭宮跡(かささのみやあと)を訪れました。予想どおりに桜が満開で春景色を満喫しました。

由来の説明石碑


階段の花びら 楠は落葉の季節


前回は昨年10月下旬に訪問しました。そのときのブログ記事はこちらです。桜がきれいだろうと予想して再度訪れ、花景色に恵まれました。

ソメイヨシノは若木で満開でした


林にたたずむ笠狭宮跡の石碑


簡素な石碑前に小さな焼酎が供えられていました


居合わせた地元の方に聞いたところ、ここは南さつま市の市有地とのこと。建設当時のことを知る人は少なくなったようです。昔は人家があったようですが火事で住まなくなり、山の上には水道設備がありました。

神社ではないため神事や祭事は行われていないそうです。市有地で水源林のようになっていて、自然がそのまま残されています。ミミズが多いのかイノシシが林の中をあちこち掘り返していました。石碑前の桜は数年前に植えられたもので地元集落の方が月に一回は広場や階段を掃除して、夏草を刈るなど管理を続けておられるそうです。

広場には桜のほか銀杏もあり、周囲は杉や照葉樹に囲まれた静かな場所です。石碑以外には目を引くものはありません。観光地ではないため訪れる人は少ないでしょうが、地元の方が大切に守り続けておられることをうれしく思いました。

階段上の広場にある桜


寄贈記念石


記念石が階段横にあり「寄贈 永田隼之助 昭和17年3月」と刻まれていますが、何を寄贈したものか他には文字が見当たりません。紀元2600年は昭和15年であり、17年ならば戦勝祈念などに関連しているのでしょうか。

藪椿の花はまもなく終わり


落椿がきれいでした


小さなリンドウも見かけました


自然が残る周囲の林


楓の新緑が鮮やか


風に散り始めた桜


林に残る山桜


入口の山桜


ソメイヨシノもきれいですが、新葉を広げて花咲く大きな山桜にひかれます。歴史遺産や自然観察の好きな方には興味深い場所だと思います。この日は他にも各地の桜を撮影しました。順次ブログを書きますのでご覧ください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花浄土/鹿児島

鹿児島の花や風景、祭りなどを巡るブログです。