花浄土鹿児島

鹿児島の花や風景、祭りなどを巡るブログです。
(季節の花、吹上浜、桜島、霧島など)

上林山防衛庁長官 お国入り 2022/11/11(鹿児島)

2022-11-11 21:42:43 | 思い出
11月11日(金)死刑のはんこ発言の葉梨法務大臣が辞任しました。

法務大臣は「死刑のはんこを押したときぐらいしか話題にならず、金も票も入らない地味な仕事」と発言。過去にも同様の発言がありました。

世間一般から見ると正直な言葉のようですが、法務大臣本人がそれを言ってはいけません。マスコミに大きく取り上げられ、野党だけでなく与党からも批判の声が上がりました。



厳しい社会の声に抗えず、岸田総理は大臣交代を決断、就任後3か月での辞任となりました。昭和の頃、鹿児島でも短期間で大臣を辞めた人がいたような記憶がよみがえりました。

ネットで情報を探すと昭和41年(1966)の上林山栄吉防衛庁長官でしたが、私の記憶違いで辞任はしていませんでした。どんなことがあったのでしょうか、以下振り返ります。



上林山栄吉議員は1904年(明治37)指宿市の生まれ、昭和21年の衆議院議員選挙に初当選(当選同期に二階堂進氏)以後9回当選しています。

1966年第1次佐藤内閣第2次改造内閣にて第22代防衛庁長官として初入閣を果たす。同年9月に航空自衛隊機を使って鹿児島入りし、統合幕僚会議議長と陸海空の三幕僚長を従えながら陸上自衛隊音楽隊を連ねてパレードという公私混同お国入り問題(黒い霧事件)を起こして批判を浴びたが、翌1967年の第31回衆議院議員総選挙ではトップ当選を果たした。1971年8月10日、心不全のため死去。享年66。(ウィキペディアから引用)



武人の国薩摩に生まれ、防衛庁長官就任は元帥になった高揚感だったのでしょうか。当時私は中学生でしたが、多くの車列で県内各地を巡り、新聞やテレビで大きな批判が出たように記憶しています。

世間から大いに叩かれましたが、上林山氏は辞任を免れました。同年10月には荒船運輸大臣が自分の選挙区内の駅に急行停車のダイヤ改正をさせた事件があり、荒船氏は72日で大臣を辞任。同年12月に佐藤総理は衆議院を解散。



昭和41年(1966)はビートルズが来日、大相撲の優勝力士は6場所中5場所は大鵬、1月場所は柏戸、流行歌は「星影のワルツ」千昌夫/「君といつまでも」加山雄三/「骨まで愛して」城卓矢/「夢は夜ひらく」園まり/「霧氷」橋幸夫/「バラが咲いた」マイク真木(フォークソング流行のきっかけ)/「こまっちやうナ」山本リング(はやぶさ宝石箱、1分でわかる激動の昭和史から引用)



今回の発言は不用意なものですが、昭和の政界で繰り広げられた様々な疑惑や事件に比べると桁違いに軽いものに思えます。これほどに厳しいマスコミ報道や世間の反応には少し疑問もあります。

かつて悪夢を現実にした民主党政権の誕生前、マスコミの反自民談合の椿事件があり、「政権交代」の合言葉が世間をうわつかせ、まるで江戸末期の「ええじゃないか、ええじゃないか」を思わせるような雰囲気でした。

最近マスコミに目立つあおり報道には、当時の雰囲気を再現させたいとする願望が透けて見えて嫌な感じがします。
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2005年 思い出の風景 2022/06/15(鹿児島)

2022-06-15 17:01:27 | 思い出
古い画像を整理していると懐かしい風景がありました。

4月にパソコンの故障で多くの画像を失いそうになり、普段のデータ管理の不十分さを思い知らされました。

2004(平成16)年頃からパソコンネット上に花画像掲示板「花浄土」を開設、投稿を始めました。現在はインスタグラム花浄土鹿児島にも季節の花画像等を投稿しています。

これまでの撮影画像はいずれパソコン共々消滅しますが・・・単に消滅も惜しいので、一部を振り返ることにしました。

霧島から見る桜島 以下の画像は2005年に撮影


2011年に新燃岳が大噴火、さらに2018年にはえびの高原硫黄山も噴火しました。霧島連山の登山路が遮断され、えびの高原から小林方面に通じる道路は今も通行止めが継続しています。

この画像は桜島の左側に開聞岳も見えています。高千穂峰に向かう途中辺りからなのか思い出せません。

桜島はこの後2006年に昭和火口が活動を再開し、夜間撮影に何度も通いました。そのこともあり霧島へは足が遠のきました。

Flower Pure Land は単純に花浄土を英語風にしたものです。画像掲示板の名前は、瀬戸口寂聴さんが週刊誌に書いておられた言葉「花浄土」を使わせてもらいました。

2005年は・・・衆院選で自民圧勝、郵政民営化法が成立 、JR福知山線の脱線事故 、マンションなどの耐震偽装発覚 、ライブドア、楽天がTV局株大量取得で問題になった年です。

霧島のオオヤマレンゲ


オオヤマレンゲは霧島山中の所々に自生しており、梅雨時に花を咲かせる希少植物です。

薄暗い林の中に咲く木蓮を小さくしたような白い花に魅せられ、何度もえびの高原硫黄山の北側山麓に通いました。

自分でも笑ってしまう出来事ですが、ここで三脚を紛失しました。林の中を探し回り花を探し、写すうち半日ほども時が過ぎ、最初の撮影ポイントに置き忘れた三脚が消えていました。

奇特な人が紛失物として交番にでも届けてくれたのか、あるいは・・・。山の神様に差し上げたものと考え直し、新たに少し大きめのジッツオ3型の三脚を買い求めました。

今や三脚の主流はカーボン製ですが、少し重くても使い慣れたものが良くて現在も使い続けています。

藺牟田池のコブハクチョウ


2005年の頃はまだ白鳥が多く、この時期は親子連れの姿を度々見かけて微笑ましいものでした。風が強く池にさざ波が立つような日には子白鳥を背中に乗せて泳ぐ様子も見られました。

当時はまだベッコウトンボを知る人は少なく、湿地条約なども話題に上る前です。池の北側にある温泉ホテルは多くの利用者で賑わっていました。

白鳥は観光の目玉でありましたが、最近では害鳥扱いされるようになり数が減少しているのではないでしょうか。

黎明館のハス


通称黎明館の正式名称は鹿児島県歴史・美術センター黎明館です。明治100年を記念して1983(昭和58)年に鹿児島城(鶴丸城)跡地に開設されました。

2020年に御楼門が復元され観光の目玉として期待されながらも、コロナ禍のため出鼻をくじかれた感もあります。

城跡の堀には古くからハスが咲き、市民憩いの場でもあります。薩摩義士墓地側からの山水が堀を潤し、図書館側へ流れています。

図書館側では殆どハスが開花しないため、試験的に堀全体を干し上げて夏場に堀と底土が整備された年がありました。施設整備の一環でしょうが、現在では予算的に難しいことでしょう。

黎明館堀の鯉


その間外部に移されていたハスは、翌年春に堀全体に植えなおされました。その時面白かったのはごく一部ですが、水面ぎりぎりのスイレンが咲くような位置でハスが開花したことでした。

肝心の図書館側ではやはりハスは殆ど開花せず、その辺りは冷水が湧き出し日当たりも悪いのが原因ではないかと言われています。

この頃は堀に鯉を見かけました。ゴイサギもやって来ましたが、最近では石垣上の樹木が少なくなり殆ど見かけません。北側の一部では水草が増えてハスの生育を阻害しているようです。

今年も蓮が咲き始める頃となりました。一番の見頃は7月下旬から8月上旬でしょうか。朝日が差し込み始める6時前~7時頃がおススメです。
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2005 黎明館・鶴丸城跡の桜 2022/06/08(鹿児島)

2022-06-08 17:37:53 | 思い出
古い画像データの中から目に付いた2005年(平成17)の桜です。

黎明館敷地内に立つ 七高生久遠の像 2005/04/10


鹿児島県歴史資料センター黎明館は明治百年(昭和43年)の記念事業として鶴丸城(鹿児島城)跡地に計画され、1983年(昭和58)年に開館しています。

石垣の上から 2005/04/10 現在は右側に御楼門がある


多くの美術・工芸品を収蔵していることから、館の持つ機能や性格をより明確にするため2020年(令和2)に鹿児島県歴史・美術センター黎明館に改称されています。

この辺りの樹木は御楼門復元工事のため殆どが伐採され、七高生久遠の像も少し南側へ移設されました。

北東側の石垣と桜 2005/04/10 


現在は桜の木が少なくなり、すぐ下の堀には水草が増えてハスが減少しています。この日は満開の桜が散り始めた頃で見事な花景色でした。

当時は鯉が泳ぐ様子も見られ、休日は日の出前から撮影に通いました。城山に登りラジオ体操をする人も多く見かけました。

国道10号交差点角近くの石垣 2004/07/19


上と同じ場所を右手側から写す 2021/07/14


画面外左手には裁判所があり、交差点の北東側はかごしま県民交流センター(旧鹿児島県庁跡地)です。

石垣上の大きな木がなくなり、ツツジの生垣が残る程度です。

御楼門と堀 2021/07/14 いまだに見慣れない風景


御楼門は2020年(令和2)に復元されました。コロナ禍で訪れる人は期待に届かない状態ですが、国の内外からの旅行客が戻ればにぎわうことでしょう。

国道10号側の石垣と堀 2004/07/19


石垣上では殆どの木が伐採された 暑い中での草刈作業 2021/07/14


かつては石垣に沿って緑が多く桜もきれいでしたが、御楼門の工事と遺跡発掘作業の影響もあったようで、多くの樹木が伐採されて殺風景です。

夏場撮影によく通った経験からすると、御楼門だけが突出した今の風景はどうもなじめません。観光目的にはわかりやすいのでしょうが・・・。

いずれ周辺整備が進み、御楼門が周辺の風景に溶け込んで、美しい緑や花とともに存在感を増してくれることを期待しています。
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デジカメ初期 思い出のD100 2022/05/23(鹿児島)

2022-05-23 16:49:50 | 思い出
5月23日(月)雲の多い午後、デジカメの使い始めを振り返ります。

2003/04/05 熊本県南阿蘇村 一心行の大桜


最初のデジタルカメラはニコンD100でした。阿蘇の高原に目立つ大きな桜は当時大きな話題となり、訪れる人が増えていました。2~3回訪れましたが、その後大きな台風の影響で大枝が折れました。現在は勢いを回復しているようです。

カメラを使い始めて半世紀ほどになります。学生時代に寮仲間2名が愛用しているニコンを強く勧められましたが・・・私が買った(買えた)カメラはニコマート・・・当時ニコンは入門機種にニコンの名称を与えていませんでした。

写し初めの記憶は1972年(昭和47年)鹿児島太陽国体のお召列車と、1973年(昭和48年)宮崎での植樹祭お召列車の撮影を記憶しています。フィルムカメラについては後日書きたいと思います。

2004/01/24 韓国岳 4合目付近


鹿児島・宮崎両県にまたがる霧島連山にはよく出かけました。新燃岳が大きな噴火を起こし、さらにえびの高原の硫黄山が噴火するなどして登山道や道路が閉鎖され、撮影行動が長期にわたって制限されるとは想像もつかないことでした。

この時は霧氷撮影でしたが、下山してくる子供たちがいました。よく見ると小学生ではなく、元気一杯な園児たちで驚きました。

この頃は道路に少し雪が積もった程度ではタイヤチェーンを付けることもなく、無謀で乱暴なことでした。

2004/06 フジGW690


一眼レフカメラよりも大きなフィルムを使うカメラです。これならば風景写真の大伸ばしに良さそうと買ったものの、カメラのデジタル化が進みあまり写すことなく今は休眠状態です。

フィルムカメラは、フィルム代、現像代、さらに大伸ばしプリント代などでコストがかかり過ぎ・・・コスト高を言い訳にして撮影への熱意不足です。

デジタル化で一気に撮影が楽になったかと言うと・・・ニコンD100の高感度撮影はISO800程度が限界で、蛍を写してもノイズ交じりで全くダメで苦笑しました。

さらに当時のパソコンは現在に比べると処理能力が著しく劣り、データの保存、画像処理などに追いつけない状況でした。ネットに投稿可能な画像データ量が100KB未満でした。

WindowsはXPの時代で通信環境はダイヤルアップ接続。画像をメールに添付して送るのも大変。現在とは大違いのデジタル原始時代でした。

2004/07 日本の棚田百選 旧入来町の内之尾(うちのお)棚田 


1999年7月農林水産省によって鹿児島県内では3地区が選定されました。現在の内之尾の棚田は休耕と転作で稲田はわずかです。

他の2か所は湧水町(旧栗野町)の幸田(こうだ)の棚田、南九州市(旧頴娃町)佃(つくだ)地区の棚田でした。

棚田百選認定から20年余りが過ぎた昨年秋、つなぐ棚田遺産~ふるさとの誇りを未来へ~ポスト棚田百選として、鹿児島県内では 鹿児島市の⼋重の棚⽥、指宿市の尾下の棚⽥、新永吉の棚⽥、湧⽔町の幸⽥の棚⽥群の4か所が選定されました。

2004/08 旧市来町の七夕踊り


この頃は毎年のように七夕踊りの撮影に出かけていましたが、お盆前で真夏の日差しに照り付けられ脱水状態になり身も心もぐったりでした。

作り物(ツクリモン)では張り子の虎だけでなく、鹿、牛、鶴も登場します。太鼓踊り、大名行列、琉球王行列、薙刀行列など内容は多岐にわたります。

2021年はコロナ禍のため中止。多くの参加者が必要なこともあり、高齢過疎化が進む中では祭りの存続に大変苦労されているようです。

最近ではコロナ禍もあり、殆どの祭りが中止され撮影行動範囲が狭くなりました。写しっぱなしのデータでも、このように振り返ると懐かしいものです。
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思い出の冬景色 2004年 2021/12/27(鹿児島)

2021-12-27 17:18:00 | 思い出
12月27日(月)パソコンに眠る2004年(平成16年)冬の思い出です。

以下の画像は、パソコンを使い始めた頃に開設したホームページ「花浄土」に掲載した画像です。

凍った水溜まり 霧島山中の渓流


当時のWindowsは Xp。ネットへはダイヤルアップ接続で、通信回線の容量が小さく大きな画像は扱えず、随分と不便な時代でした。

千両 


雪とモミジ葉


郡山町 八重(やえ)の棚田 


郡山町は2004/11/01に鹿児島市と合併し、八重の棚田が次第に知られるようになりました。

宮之城町泊野 きららの里公園 水車小屋


2005年(平成17年)3月22日 宮之城町・鶴田町・薩摩町が対等合併し、さつま町が発足しました。

一眼レフカメラは昭和47年(1972年)の鹿児島太陽国体の頃から使い始め、最初のデジタルカメラは2002年(平成14年)に発売されたニコンD100です。

D100はイメージセンサー(撮影素子)にゴミが付きやすく、毎月のように宅配便で清掃整備を依頼するため、銀塩カメラも併用していました。

その後、自分でイメージセンサークリーニングができるキットを入手し、銀塩カメラの使用を終えました。

次は冬の霧島です。2003年末から翌月にかけて写したものだと思います。

韓国岳(からくにだけ)と除雪車 融雪剤散布作業


早朝の道路凍結を避けてゆっくり出かけたものです。鹿児島は南国のため日差しが強く、寒気が緩むと早々に雪が解け、案外と撮影タイミングが難しいです。

雪が降りしきる日はタイヤチェーン装着で出かけても白一色で、撮影にはダメなことが多いものです。12月下旬から1月上旬にかけては普通タイヤで行けて、霧氷も見られる幸運な時がまれにあります。

硫黄山(いおうやま)付近の霧氷


現在この付近は立入規制されています。火山監視カメラなどで見ると、当時とはだいぶ様子が変わっているようです。

もとより霧島連山は火山地帯ですが、新燃岳(しんもえだけ)に次いで硫黄山が噴火するとは予想もしないことでした。

韓国岳登山道の標識


晴天に映える霧氷


4合目付近か


遠くには白鳥山、白紫池


大浪池


韓国岳山頂 1700m


雪雲に包まれると視界はゼロ、視界が開けるまで体が凍えないよう、1~2時間程度は歩き回って待つものでした。

韓国岳は特に山頂部で風が強く、三脚ごとカメラを吹き飛ばされたこともありました。

新燃岳(大噴火前)と奥は高千穂峰


2011年1月26日に300年ぶりの大噴火を起こし、その後も数回噴火して西斜面の一部に溶岩が流出しています。

新燃岳の大噴火を夕暮れ迫る中、えびの高原や韓国岳から撮影した豪胆な人もいました。私は21時頃から翌朝まで新湯温泉入口で撮影しました。その時を振り返るブログはこちらからご覧ください。


夕日に照らされる韓国岳


夕日に染まりきれいですが遅くなると山路が凍結しますので、適当なところで切り上げなければなりません。

霧島は観光地であり道路、登山路の整備が行き届いていますがこの時間帯は殆ど車はいなくなります。

休日や年末年始には都合をつけて霧島に通いましたが、硫黄山噴火で小林市方面へ通行できず、新燃岳やその周辺の登山路規制が継続しています。

コロナ禍もあり霧島へ足が向かくなりましたが、体調を整えて撮影に出かけたいものです。

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昭和58年6月 加世田水害 2021/08/17(鹿児島)

2021-08-17 18:23:42 | 思い出
8月17日(火)、今朝の大雨で万之瀬川が一時氾濫危険水位を越えました。

鹿児島県河川砂防情報システム 8月17日12時 万之瀬川


雨は昼までには落ち着き、午後1時半すぎ氾濫危険水位5.8mを下回りました。昭和58年6月21日(火)に経験した加世田(現在は南さつま市)水害を思い出したので、古い記憶をたどります。

今日 8月17日のアメダス加世田の観測値 気象庁データを引用
 

今日0時から12時までの加世田の雨量は124.5ミリ、加世田水害時の半分程度にとどまり氾濫を免れました。

万之瀬川の河口


ウィキペディアによる万之瀬川水害の情報を引用して紹介します。
1983年(昭和58年)6月21日には梅雨の集中豪雨によって加世田川が氾濫し床上浸水692戸、床下浸水1,635戸の被害があった。このため河川激甚災害対策特別緊急事業として48億6千万円の費用をかけ万之瀬川の拡幅と加世田川の流路変更が行われた。(引用終わり)

当時の加世田の気象状況 気象庁過去の気象データより引用


2時から8時までの雨量は250ミリに達しています。加世田川は加世田市南部から北に流れ、東側からの大きな河川万之瀬川と加世田市内で合流します。短時間の大雨で急速に水位が上がり流域の農地や市街地で浸水被害が発生しました。出勤前にテレビで河川氾濫情報を知りました。

同じく鹿児島地方気象台の気象状況


2時から8時までの雨量は130ミリで加世田の半分程度です。当時の勤務地は加世田市内にあり、21日は給料日。当時は現金支給なので休まず出勤。撮影準備をしていつも通り7時半前に日吉町の家を出ました。

金峰山


加世田市内に入る手前の金峰町阿多の西田医院近くに車を置き、足元はゴム草履に裸足、傘を手に2kmほど歩きました。万之瀬川の橋を渡り浸水地域を避けてたどり着いた加世田駅(鹿児島交通南薩線)構内は少し浸水が始まっていました。

当時はフィルムカメラですぐにフィルム切れ。9時前頃、駅前のなじみの写真館にも水が入り始め慌ただしい中でフィルムを入手。雨の勢いは弱まり、深さ30センチほどの濁流が流れる駅前の商店街や通りの様子を撮影しました。

金峰町の水神様


駅前の道路はすでに川になり、道の真ん中でも深いところでは胸まで水につかりながら左手に傘、右手のカメラで撮影。水流は緩いものの、次第に体が浮き上がってきたので職場まで行くことは断念。

転倒水没して災害記録をカメラごと失わないことを心がけました。風はなく路側の水路など道路状況が判っていたので動くことができました。勤務地のため少しは土地勘がありましたが、随分と無謀な行動でした。

車に戻ると足の指が擦りむけ血が出ていました。すっかり体は冷え切って、帰りに吹上町の伊作温泉に立ち寄り体を温めました。水は短時間で引きましたが、タイミング良く水嵩が一番高いときに撮影できました。

朝方の急な浸水で記録が少ない中、消防や土木関係者にネガフィルムを貸し出して災害記録資料として役立てて頂きました。

新燃岳の大噴火


加世田水害は40年ほども前のことになりました。これに並ぶ忘れがたい撮影の記憶は、昭和天皇行幸の1984年(昭和59年)鹿児島での全国植樹祭の記録、2011年(平成23年)1月真冬の新燃岳大噴火です。
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暑さ続く 昔を思い出す夏 2020/08/12(鹿児島)

2020-08-13 18:31:43 | 思い出
残暑お見舞い申し上げます。

鹿児島市都市農業センター 茶碗ハス 以下の画像は8月12日に撮影


8月12日(水)は台風5号が過ぎた日置へ出かけました。茶碗ハスは風雨で少し傷んだ程度、蕾が多くもうしばらくは楽しめそうです。大賀ハスは今季最後と思われる一輪が咲いていました。

溜池のホテイアオイ 日置市日吉町 黒木殿の池(くろっどんのいけ)


すぐ横に口髭のお医者さん、黒木医院がありました。今は大河ドラマ西郷どんで知られる赤山靭負(あかやまゆきえ)墓地の駐車場になっています。

鹿児島では武士家系は昭和の頃まで○○さんではなく、○○殿(どん)と呼び習わしていました。いわゆる士族殿で、私の育った集落にも数軒ありました。

お金持ち、資産家のことは分限者殿(ぶげんしゃどん)と言っていましたが、今は死語になったようです。

吹上浜日置海岸 秋も感じる空模様


台風の影響で少しウネリが残っていました。この日は昭和53(1978)年8月12日の吹上浜拉致事件から42年と新聞記事が出ていました。当時は北朝鮮に拉致されたなどとは想像もつかず、アベック行方不明事件として捜索が続きました。

電電公社同僚(?)5名ほどが吹上浜沿岸部を歩いて探し続け、私の住む集落にも情報を求めて訪れたことを記憶しています。

組織的誘拐でしょうが、いまだに事件は解決せず気の毒な限りです。前の年に日航機ハイジャック事件で福田総理が「人の命は地球より重い」と発言。多額の身代金を支払い、「超法規的措置」で収監者を釈放したことも遠因ではないでしょうか。

ノボタン


冬場は地上部が枯れ込みますが春には新芽が伸びて夏に開花します。ここ数年は放置状態ですが、生育が良いようです。

ショウガ 花が咲き始めたが強い日差しで萎れ気味


祖母が植えていたショウガですが、日当たりが確保され今も花を咲かせています。甘い香りが好きですが、茎葉が茂り過ぎるのが難点です。

雨後の雑草に先手を打つ 畑を耕す人


雨の後は雑草が勢いづきます。近所の畑を農家さんが小型トラクターで丁寧に耕していました。

ハマユウの種が大きくなった


今年は何本も花茎が立ち上がり、早いものでは種がかなり大きくなっていました。野菜園の隅ですが土との相性、日当たり、肥料分など生育条件が良いのでしょう。

オクラは大きくなりすぎ


ナス(手前の列)をさらに切り詰める


夏野菜はキュウリが早々と枯れました。オクラ(右側)は意外にも元気で半分は食べられないほど大きくなっています。

苦瓜はまずまずの収穫で週に一度で3~4本。ナスは今度の台風で枝が折れた株もあり、小さなものも全部収穫して枝を切り詰めました。猛暑が落ち着く頃に株が回復し、秋ナスを味わえると好都合です。

芙蓉を追い越したユリの花


芙蓉の隙間で茎を伸ばして花を咲かせています。ユリは強健な植物であちこちに群落を作り成長します。

青空だけ見ると秋を感じるほどですが現実には猛烈な日差しです。この日は12時過ぎの室内で34.5度でした。

幼い頃は、団扇と扇風機、蚊帳で暑い夏を過ごしました。当時は日本脳炎が危険な病気とされ、予防接種を受けるものでした。昔は暑いと言っても32度程度。完全に気候が変わってしまいました。
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梅雨空続く 一昔前を振り返る 2020/07/11(鹿児島)

2020-07-11 18:00:28 | 思い出
今年の梅雨は九州を中心に記録的な豪雨となっています。

7月11日(土) 朝のNHKニュース項目


大雨とコロナ感染以外のニュースも増えてきました。

1週間前の7月4日(土)は鹿児島と熊本に大雨特別警報が発表され、球磨川流域では甚大な被害が発生しました。

今日も雨続きで蓮の撮影には今ひとつ、雨の中での農作業も厄介。一昔前の画像に目を通し振り返ってみました。

2003/07/10撮影 朝日に輝く水滴 


7月4日(土)昼前から5日の20時前まで、ネットに接続不能となりました。5日に神戸のプロバイダーから電話連絡が入り、原因は大雨による通信遮断と判明。不具合発生直後からプロバイダー、パソコン店、NTTに連絡しましたが、いずれも営業時間外と混雑ですぐに対応してもらえませんでした。

困惑して相談した友人を通じ、ネット関係に詳しい方から対応策を親切丁寧に教えていただきました。急なお願いにもかかわらず、ありがとうございました。パソコンから全く情報が入らず手持無沙汰の中、かねて気になっていた画像データを整理しました。

2020/07/05 現在の堀と御楼門


通学する高校生 以下の画像は2003年7月10日(木)に撮影


140枚ほど保管している2003年(平成15年)前後のCDから外付けのHDDに画像データを取り込みました。1枚に3分ほどの読込作業を繰り返し、2日がかり。

携帯で撮影する人


17年前ですが、携帯電話が広く普及していたようです。携帯電話の歴史を見ると1992年にNTTドコモが誕生、1996年には着メロブーム、1999年にカメラ付携帯電話が誕生とあります。

ちなみに「au」は2002年誕生、ソフトバンクモバイルは2006年発足とのこと。

集団登校する小学生


高学年生を中心に集団登校をしていました。カメラに気付いた元気な子が飛び上がってポーズを取ってくれました。今では立派な社会人に成長・活躍していることでしょう。

夜明けから8時過ぎまで長時間撮影していた


鯉の姿も見える 今は水草が茂り石垣近くの水面は見えにくい


この日は従兄弟が鹿児島に帰省予定で仕事は休みをもらっています。カメラはニコンD100、一眼レフデジカメが一般的になり始めたころの機種です。

朝日が昇る頃から8時過ぎまで撮影しています。帰宅後空港まで従兄弟を迎えに行き、日置を案内し夕食を共にしています。

今思えば、ずいぶんと元気なことでした。今日までにCD140枚分の画像のうち内容を一枚ずつ確認したのは数枚分のみ。他の分も一通り目を通さないと、ただのゴミデータになりそうです。
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思い出の南薩線展示会に行く 2019/01/13 (鹿児島)

2019-01-13 22:09:48 | 思い出
1月13日(日)は日置市吹上町の吹上砂丘荘に「思い出の南薩線展示会」を見に行きました。昭和59年に南薩線が廃止され30年以上が過ぎ、平成の時代も終わろうとしています。

懐かしい列車や機関車の紹介など 以下の画像は1月13日に撮影


懐かしい沿線風景に見入る人


ポスター、ポストカード、冊子などの販売も


展示会は1月31日まで吹上砂丘荘1階ロビーで開催されています。
廃線当時の新聞記事、列車の走る風景写真、列車・機関車の紹介などが展示されています。懐かしい風景に思い出を語る人たちの姿がありました。

廃線当時は加世田市に住んでいましたが写真撮影の熱意が湧かず、今から思えばなぜ記録写真を撮影しなかったのか不思議な感じもします。

九州南部の小さな民間鉄道路線が廃止されることで全国から注目を集めました。普段は走らないような3両編成などの列車や特別運行で騒がしく、高校時代に利用していた姿とはかなり違っていました。

急激な過疎化と利用客減少という厳しい現実によって零落した様子を写すに忍びない感情もありました。自分の胸のうちだけに記憶すれば良いと思ったのでしょうが、しっかり写しておくべきだったと悔やむ気持ちもあります。

吉利駅跡は自転車専用道路に 左奥は永吉方向


ホームが一部残され当時の面影があります。南さつま市から日置市まで自転車専用道路が通じています。

上日置駅跡地 今も残る給水塔 右手は待避線


きれいに管理されているホーム 右奥は日置方向


いつも通る県道からほんの少し上がった場所にあります。駅舎は残っていませんが、ホーム・線路跡ともに地元の方がきれいに管理されています。近くの方に話を伺うと夏場は毎月草刈をされているそうで、ありがたいことです。

詳しい説明看板


給水塔のこと、待避線のことが詳しく書かれていました。私が利用していた頃のディーゼル列車は坂を上れずに引き返した経験はありませんが、蒸気機関車時代は難所であったとのこと。勾配が付いた待避線に入ってスイッチバックで勢いをつけて坂道を上ったと書かれていました。

線路跡の白梅


暖冬の影響でしょうか、早くも白梅が咲いていました。緋寒桜、山桜も早く咲き始めるのでしょうか。出水のツルも2月初旬には多くが北に帰りますので、早めに撮影に出かけたいものです。
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寒さ和らぐ吹上浜 恵比寿さんに地引網を思い出す 2015/01/05 (鹿児島)

2015-01-06 16:53:58 | 思い出
鹿児島では珍しく元日に雪が降りましたが、4日には寒さが緩みました。
5日は砂山の恵比寿さんに米、塩、焼酎を供えて感謝、健康と豊漁を祈ってきました。

恵比寿さんと海神様


右側の恵比寿さんの台座には昭和19年の文字が見えます。私が幼い頃は60m程度北側にあったと記憶しています。以前置かれていた場所は造成されて豪華な別荘ができています。

昭和30年代、吹上浜沿岸では地引網が盛んに行われていました。肥料にするほどイワシが大漁だったそうです。高度経済成長期前の地引網は半農半漁の近隣住民にとって自給自足生活そのものでした。数集落ごとに地引網をしていて、旧日置村では6箇所ほどありました。およそ60人ほどで網を引いていました。船は大きな櫓を6本ほど備えており、網は細かい雑魚網、網目の大きいもの、さらには沖合いに綱を伸ばす鯛網もありました。

鯛網は春先の早朝沖合いに綱を伸ばし、綱に魚脅しの白い木の棒が付けられていました。記憶はあいまいですが、綱は数キロメートルで途中に樽の浮きがあり先端部に袋網がついていました。船の上から長い木の棒で網の外側海面を叩く様子を覚えています。半日以上かけて鯛網を引くため浜には弁当が届けられました。桜島の見える沖合いまで船を漕ぎ出すと聞くものでした。

当時の吹上浜日置地区ではポンポン船による小規模漁業と沿岸住民の地引網が共存していました。まだチリメン漁がなかったので、小魚が豊富で雑魚を追っているブリなどの大きな魚も入りました。煮干(イリコ)つくりは個人ごとに行い、青年舎(せいねんしゃ)と呼ばれていた集会所に製品を持寄って袋詰め出荷していました。

見晴らしは悪いが海は穏やか


昭和40年代後半にはバッチ網と言われるチリメン漁が吹上浜でも始まり、大きな魚の餌になるごく小さなチリメンをとるため地引網の漁獲量は次第に減少しました。高齢化や公共事業拡大により地引網従事者も減少し、大きな船を使った地引網は急激に衰退しました。

その後も平成初期までは十数人程度の小さな地引網が数箇所で続きましたが、生活をかけるほどではなく元気な高齢者の生きがいのようなものでした。網元の小さな伝馬船を利用し、小型船外機も使っていました。キス網や沖合いに出てイカ漁などする人もあり、ここには小型機械を使った船揚場が作られ小船が10隻程度いました。

ごく弱い南西風で静かな海


昭和50年代、公共事業による防災工事が進み河川堤防や道路法面、急傾斜面などがコンクリートに覆われ河川への土砂流入は減少しました。沖合いでは公共事業用に大量の海砂が採取されたことも砂浜が細る原因と言われています。

吹上浜では日置市東市来町江口地区で海砂の流出が顕著になり、日置地区でも天神ケ尾(てんじがお)キャンプ場北側で護岸工事が行われました。幅が細くなった砂浜は急傾斜になり小船を引き上げることができず、船揚場は撤去されました。1隻だけ残った地引網の小船も今はありません。

昔の浜の賑わいを唯一しのぶものが、ここの恵比寿さんです。今や過疎化が著しい古里ですが、砂山に立つと昔の思い出がよみがえり懐かしさで一杯です。

打ち寄せた貝殻


穏やかな砂模様


風で削られた砂浜


砂浜の拡大画像


夏にはキス釣りや潮干狩りを楽しめる吹上浜も冬は北西の季節風が吹き付けて荒れる日が多く、海辺に近づく人はわずかです。雨や雪を伴った暴風のため砂山は削られています。強風だけであれば砂山にきれいな砂紋が現れます。

砂浜から戻って民家周辺の景色を見てみましょう。

黒く傷んだトベラの実


ナルトサワギク


ヤツデ 実がふくらみ始めています


焼芋にやってきた小鳥 左右とも同じ枝先を角度を変えて撮影


ナルトサワギクが一段と増えています。四季を通じて花を咲かせ、綿毛に乗って種が拡散します。真冬でもこのとおり花を咲かせています。数年後にはセイタカアワダチソウのように、砂丘の風景を変えるほど増殖するのではないでしょうか。

梅の枝に焼芋を置いたところ、さっそくメジロがやって来ました。次には大きめの鳥も来ましたが足場が悪いようですぐにいなくなりました。人影があると近づかないようです。11月に種を蒔いたエンドウ豆、ソラマメは冬の寒さに耐えています。頑張れよ!
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花浄土/鹿児島

鹿児島の花や風景、祭りなどを巡るブログです。