とりあえず、なんか横長にふさわしい写真をPICTUREフォルダから引っ張ってきたものです。スペインに旅行したときマドリード近郊にバスで移動したときのものだから、トレドの街並みを川向こうから取った写真(だと思います)です。
最近、震災前のことはあたかも遠い「前世の記憶」のような気がしてしまいます。
そういう意味ではこれも「前世の記憶」の一枚。
都市が長い歴史を経て、私たち共同の記憶の「場所」としての価値を身にまとうことになる、というのは観光地によくあることです。
たとえその城壁や石畳、水路や教会など、当時の身分の高い階層や富裕な人間たちの手で、場合によっては種庶民が搾取されたり虐げられたりもしつつ創り上げたものであっても、長い時を経てそれが私たちが共有しえる「豊かさ」になる、ということはある。
そういう「贅沢」=「遊び」は、その当時は宗教への敬虔な帰依とか、権力の示威行為そのものであったり、富裕層の「堕落」であったりもするのかもしれない。
それでもなお、「贅沢」はすてきだ。
原子力発電所の事故をここに重ねるのは本当にどうかな、とも私自身思うけれど、それならこの「不幸」は、100年単位の時を隔てたなら、私たちが共有できる「贅沢」=「遊び」になり得るだろうか、とついつい考えてしまうのです。
つまりね、原発事故は本当に貧乏くさい、「取り攫われた」精神の無思考の結果ではないのか、と、お金の使われ方からして納得がいかないんです。
ことほど左様に、楽しかったはずのスペイン旅行の一コマ(トレドの写真)を観てすら、私の思考は原発事故から離れられないのでした。
最近、震災前のことはあたかも遠い「前世の記憶」のような気がしてしまいます。
そういう意味ではこれも「前世の記憶」の一枚。
都市が長い歴史を経て、私たち共同の記憶の「場所」としての価値を身にまとうことになる、というのは観光地によくあることです。
たとえその城壁や石畳、水路や教会など、当時の身分の高い階層や富裕な人間たちの手で、場合によっては種庶民が搾取されたり虐げられたりもしつつ創り上げたものであっても、長い時を経てそれが私たちが共有しえる「豊かさ」になる、ということはある。
そういう「贅沢」=「遊び」は、その当時は宗教への敬虔な帰依とか、権力の示威行為そのものであったり、富裕層の「堕落」であったりもするのかもしれない。
それでもなお、「贅沢」はすてきだ。
原子力発電所の事故をここに重ねるのは本当にどうかな、とも私自身思うけれど、それならこの「不幸」は、100年単位の時を隔てたなら、私たちが共有できる「贅沢」=「遊び」になり得るだろうか、とついつい考えてしまうのです。
つまりね、原発事故は本当に貧乏くさい、「取り攫われた」精神の無思考の結果ではないのか、と、お金の使われ方からして納得がいかないんです。
ことほど左様に、楽しかったはずのスペイン旅行の一コマ(トレドの写真)を観てすら、私の思考は原発事故から離れられないのでした。