友人がフェイスブックで、教師の送別会での挨拶の「劣化」を嘆いている。
職場が違うので詳細は不明だが、全く別の場所で同じ頃、私も同じ感想を抱いていた。
「自分はこれだけ頑張ってきた」
とか
「職場をいかに改善すべきか」
とか
「いろいろ批判もされたがなんとかやってきた」
とか、たしかに震災を挟んだこの数年、大変だったんだろうな、ということを思い起こさせるコメントでもあった。必ずしも震災ネタとして大変だってみんながいっていたわけではないけれど。
でも、気になるのは、なかなか思うに任せない仕事の「つらさ」を「主体」が受け止めてしまっている点だ。
私が職場の劣化を感じるのは、それらのコメントを聞いているときである。
つまり、普通職場を去る時というのはぐずぐずいわないのが日本人のお作法だったと私は思うわけです。
「立つ鳥後を濁さず」
じゃないけれど、去りゆくものは美しい、てな感じで「お世話になりました」という月並みなコメントで終わるのが「普通」だった。
ところが、最近、そうじゃなくなってきている。
そのこと自体は悪くない。
むしろ風通しがよくなるというか、たとえ短期的には気まずいことがあったとしても、何も言わずに立ち去っていくよりはいい。
職場が劣化している、と感じるのは、そこじゃない。
そこに立ち上がってしまう「主体」の存在様態が決定的に貧しいのだ。
つまりね、システムが抱える課題から瞳を背けることがむしろ「まじめ」に仕事をする態度だったりすると勘違いしている人が「主体化」してしまうと、お互いがお互いを「バカ」としてしか認識できなくなる。
そしてある種、「バカの壁」みたいな話になる。
お互いに相手をバカだと思う傾向はもしかすると脳みそにあらかじめインプットされているのかもしれなくて、それはそれでいいとしよう。
問題はその先にある。
お互いに「バカ」としてしか認識できない場合、ではどうすればいいのか?という「問題」が立ち上がってくるだろう。
それはおそらく、自分の論理だけで「理を分けて説明する」だけでは伝わらない種類の「問題」だ。
自分たちの思考の限界が世界認識の限界である、以上。
……ということになると、原発事故は原理的に「防げない」。
けれど私たちは、理解できる範囲内の「ロジック」だけで世界を切り取り計算可能性を前提とした世界像を立てるだけでこと足れり、としていいはずはない。
公共的なるものへのアクセス経路は、当然のことながらその先にあるだろう。
そこを目指さなければ、教育なんて「クソ」だ。
教育はその「公共的なるものへのアクセス経路」を探すことから始まる、といってもいい。
ところが、教師の最後の台詞の多くが、その自分の認識の限界が世界像の限界である、といういわば「理性1」モードの「述懐」に終始してしまっているとしたらどうだろう。
勝てる勝負だけをやっていればいい(負ける勝負は絶対しない)というのが役人の遵法意識に過ぎないとすれば、教師も根性だけは一丁前の「役人」になってしまった、ということか。
むしろもっと教師は「バカ」でいい。
非人間的なところと人間的なとこの境界面を往来する「バカ」でなければ、教師などという職業はつとまらないのではないだろうか。
壁を作って自分の価値基準で相手を「バカ」だと考える「レベル1のバカ」よりは、まず相手と自分を隔てる「壁」をすり抜けてしまうレベル0の「バカ」の方がまだましかもしれない、とさえ思う。
しかしもちろん必要なのは、自分の理解の限界を世界の限界としない、という当たり前の「対話能力」であり、未だ未熟な子どもの、存在しない「未来」について考え、行動し、導く精神の「膂力」だ。
そのために大切なのは、単なる自分の価値基準に基づいてものを「見て」しまうのではなく、目の前の「事象」に対する眼球の追随性を信じること、そしてその出来事が生み出す「音」に耳を澄ます姿勢、いわば「動物的」な感覚をきちんと信頼することではなかっただろうか。
教師から、その「力」が急速に失われつつある、と私は感じる。
それが、職場の「劣化」だ。
相対的に「良い」頭だけで物事を処理をしたり、その頭で書いた絵図面の範囲で身体を訓練しようとする。
それでは、新しい局面に対応できない。
今は、それこそが大切なはずなのに。
私たちに与えられた現状はほとんど「クソ」だ。
だったら、そこに瞳を凝らすことから始めるべきではないだろうか。
こぎれいなコメントや、自分の苦労や正当性ばかりをあげつらうような話をいまさらどの面下げて聞けばいいというのか。
あるいは、通用しもしない「当たり前」を無前提の前提として話を進めてしってしまうような「発話」に、どうやって「対話」を「発見」すればいいというのか。
たとえ、擬似制度的とはいえ自分の「住んでいる」共同体のことだから、私自身にも「罪」はある。
さてでは、なおも「発話」をし続けるとしたら、いったいどんなことばが可能か?
自らの言葉がいかなる「公共性」を持ち得るのか
それが最大の「試練」でなくてなんだろう。
スピノザについてひなたぼっこをしながら考えを巡らせているだけでは足りない、ということか。
大変な時代になったものだ。
この項、解けそうにない宿題です。
職場が違うので詳細は不明だが、全く別の場所で同じ頃、私も同じ感想を抱いていた。
「自分はこれだけ頑張ってきた」
とか
「職場をいかに改善すべきか」
とか
「いろいろ批判もされたがなんとかやってきた」
とか、たしかに震災を挟んだこの数年、大変だったんだろうな、ということを思い起こさせるコメントでもあった。必ずしも震災ネタとして大変だってみんながいっていたわけではないけれど。
でも、気になるのは、なかなか思うに任せない仕事の「つらさ」を「主体」が受け止めてしまっている点だ。
私が職場の劣化を感じるのは、それらのコメントを聞いているときである。
つまり、普通職場を去る時というのはぐずぐずいわないのが日本人のお作法だったと私は思うわけです。
「立つ鳥後を濁さず」
じゃないけれど、去りゆくものは美しい、てな感じで「お世話になりました」という月並みなコメントで終わるのが「普通」だった。
ところが、最近、そうじゃなくなってきている。
そのこと自体は悪くない。
むしろ風通しがよくなるというか、たとえ短期的には気まずいことがあったとしても、何も言わずに立ち去っていくよりはいい。
職場が劣化している、と感じるのは、そこじゃない。
そこに立ち上がってしまう「主体」の存在様態が決定的に貧しいのだ。
つまりね、システムが抱える課題から瞳を背けることがむしろ「まじめ」に仕事をする態度だったりすると勘違いしている人が「主体化」してしまうと、お互いがお互いを「バカ」としてしか認識できなくなる。
そしてある種、「バカの壁」みたいな話になる。
お互いに相手をバカだと思う傾向はもしかすると脳みそにあらかじめインプットされているのかもしれなくて、それはそれでいいとしよう。
問題はその先にある。
お互いに「バカ」としてしか認識できない場合、ではどうすればいいのか?という「問題」が立ち上がってくるだろう。
それはおそらく、自分の論理だけで「理を分けて説明する」だけでは伝わらない種類の「問題」だ。
自分たちの思考の限界が世界認識の限界である、以上。
……ということになると、原発事故は原理的に「防げない」。
けれど私たちは、理解できる範囲内の「ロジック」だけで世界を切り取り計算可能性を前提とした世界像を立てるだけでこと足れり、としていいはずはない。
公共的なるものへのアクセス経路は、当然のことながらその先にあるだろう。
そこを目指さなければ、教育なんて「クソ」だ。
教育はその「公共的なるものへのアクセス経路」を探すことから始まる、といってもいい。
ところが、教師の最後の台詞の多くが、その自分の認識の限界が世界像の限界である、といういわば「理性1」モードの「述懐」に終始してしまっているとしたらどうだろう。
勝てる勝負だけをやっていればいい(負ける勝負は絶対しない)というのが役人の遵法意識に過ぎないとすれば、教師も根性だけは一丁前の「役人」になってしまった、ということか。
むしろもっと教師は「バカ」でいい。
非人間的なところと人間的なとこの境界面を往来する「バカ」でなければ、教師などという職業はつとまらないのではないだろうか。
壁を作って自分の価値基準で相手を「バカ」だと考える「レベル1のバカ」よりは、まず相手と自分を隔てる「壁」をすり抜けてしまうレベル0の「バカ」の方がまだましかもしれない、とさえ思う。
しかしもちろん必要なのは、自分の理解の限界を世界の限界としない、という当たり前の「対話能力」であり、未だ未熟な子どもの、存在しない「未来」について考え、行動し、導く精神の「膂力」だ。
そのために大切なのは、単なる自分の価値基準に基づいてものを「見て」しまうのではなく、目の前の「事象」に対する眼球の追随性を信じること、そしてその出来事が生み出す「音」に耳を澄ます姿勢、いわば「動物的」な感覚をきちんと信頼することではなかっただろうか。
教師から、その「力」が急速に失われつつある、と私は感じる。
それが、職場の「劣化」だ。
相対的に「良い」頭だけで物事を処理をしたり、その頭で書いた絵図面の範囲で身体を訓練しようとする。
それでは、新しい局面に対応できない。
今は、それこそが大切なはずなのに。
私たちに与えられた現状はほとんど「クソ」だ。
だったら、そこに瞳を凝らすことから始めるべきではないだろうか。
こぎれいなコメントや、自分の苦労や正当性ばかりをあげつらうような話をいまさらどの面下げて聞けばいいというのか。
あるいは、通用しもしない「当たり前」を無前提の前提として話を進めてしってしまうような「発話」に、どうやって「対話」を「発見」すればいいというのか。
たとえ、擬似制度的とはいえ自分の「住んでいる」共同体のことだから、私自身にも「罪」はある。
さてでは、なおも「発話」をし続けるとしたら、いったいどんなことばが可能か?
自らの言葉がいかなる「公共性」を持ち得るのか
それが最大の「試練」でなくてなんだろう。
スピノザについてひなたぼっこをしながら考えを巡らせているだけでは足りない、ということか。
大変な時代になったものだ。
この項、解けそうにない宿題です。