龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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高橋源一郎の文章を読んだ’13.3.28付朝日新聞の論壇時評

2013年03月28日 12時45分41秒 | 大震災の中で
本日付の朝日新聞に載っている高橋源一郎の文章
http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201303270662.html
について
「エチカ福島」に書きました。
よろしかったら参照を。

高橋源一郎「忘れさせる『力』に逆らう」を読む
http://kitsuneinu.jugem.jp/?eid=520

で、以下はそれについてまた考えたことを少し。
そこでは
「地べたに裸足で立って一から考えよう」
という意味のことを書いた。

しかしこれは、思いつくだけでも二つの間違った方向性を招きやすい。

一つは
「大震災&原発事故」経験の絶対化

もうひとつは
「リセット願望」「ガラガラポン願望」

だ。
どちらもつい個人的に陥りがちで、どちらもやばい。

前者の場合、被災地にいる人の中でも「ディバイド(分割・分断)」が起こりかねない。
大きなところでは
「フクシマ住民/それ以外の人」
という分断を生むし、小さいところでは
「線量の高いお隣/線量の低いうち」
みたいなちっちゃな分割線を引かせる力になってしまう。

震災の体験、原発事故の体験は極めて重要だが、それを時間軸から外して絶対化するだけではちょっとまずい。

他方、
「リセット願望」「復活願望」
についていえば、それ自体としては健全な適応力の発揮でもあるのだろう。
けれど、高橋源一郎が今日の文章でも言っていたようにそれは容易に「忘却装置」と「経済的」「政治的」に結びついてしまう。

「エチカ福島」でやりたいのは、そのどちらでもない。
人が集い住むという営為の原点(そんなものはこの地上にはないかもしれない)を参照しつつ、同時に「今、ここ」を生きることに瞳を凝らしつづけ、考え続けていきたいのだ。

よく「エチカ福島」ってなんなんですか?と聞かれる。
誰をターゲットにして、何を、どのように、どこまで発信しようとしているのか、と。

これを聞かれると、私は思わず口ごもる。
世の中の(社会的)営為にはそういうことが分かっていないとダメなんだろうなあ。
すまん、よく分からん。

でもね。

生きる場所それ自体を「傷つけられる」って、つまりは場所が「弱い」ものだと改めて感じる体験をするって、そんなに簡単に

「じゃあどうすればいいのか」

という話が出てこないものだとも思うんだよね。

「エチカ福島」を始めようとするまで、1年半かかっている。
そして、始めてはみたものの、終着点は見えていない。
むしろ加速度を持った思考のドライブではなく、思考の「遅速度」を持った遅いドライブをここでは心がけておきたいのだ。

そういう意味では、「忘却装置」が働き始めてから、がむしろ勝負。

「復興」を加速させる、とか「スピード感をもって政策を実行する」とかいう話には眉にツバをつけて聴こうということになります。

そういうことで済ませられるなら、すませればいい。
その程度のことなら、1年半も立ってから、出し遅れた宿題のように考え始めることなど不用です。

でも、私は、私たち「エチカ福島」はそうは思わない。


「忘却装置」に身を委ねるのでもなく、「歴史的な大事件」としてだけ記憶=記録するのでもなく、「今」すなわち100年後にも100年前にも残るような痕跡を、洞窟の中の石に刻んでおきたいのです。

さて、そろそろ第2回について考え始めようという時期になってきました。

詳細は随時「エチカ福島」のブログで書きます。

5月~6月にかけて「エチカ福島」第2回セミナーを開催しますので、ときどきそちらも覗いて見てください。



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