龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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「日本は一つ」もいいけれど。

2011年04月30日 14時41分24秒 | 大震災の中で
被災地にいて、「日本」と「日本人」に救援を受けもしている立場でこういうことを書くのにはためらいがないわけではないのです。

でもね。

「日本を一つに」とか「日本の強さは団結力」とか「立ち上がれ日本」とか繰り返し聞かされていると、いささかげんなりする。

そして、日本人じゃなくても救えよ、とか、日本人じゃないと立ち上がらないのかよ、そんなやつの施しは受けねえよ、とか、罰当たりなことをちょっと考えてみたくなる。

共同体主義批判ってほどのものじゃない。共同的なるものをもたない「普遍性」なんて「人間」が殺されてしまうようなものだから、こっちから願い下げだ。

それでもテレビにゃこれほどまでに言われたくない、とも思うのだ。

分かってる。

新聞もテレビも、国民国家の成立・発展と無縁じゃないわけだから、そういうマスメディアの伝えたい「真実への欲望」は、国民の均質性を前提としてしか十全に機能しない。

そんなことは震災前から分かっていた。

ネットメディアの人々が言うようにマスコミの人々は脳みそが腐っているっていうわけじゃ必ずしもなくて、マスコミ共同体と国民国家の「想像された共同体」とが既にもうどうにもならないほど分かちがたくリンクしてしまい、さまざまにそこで共に発展してきたしがらみがあって、足抜けできなくなっているのかもしれない。

ネットメディアは今はまだ「隙間」にある。だから玉先混交(つまりは「断片化」ってことですかね)を前提として「開かれた」状態にある、といっていいでしょう。
誰もがネット検索を利用すれば気がつくことだけれど、たいていの多種多様な「立場」や「考え」の断片はネットで拾うことができる。
原発の設計問題でも、練炭火鉢での自殺志願者募集でも、イギリス国教会でも。ぶり大根のレシピでも。

それでもつい気を許すと、断片か/均質性かという二項対立は、ネットを浮遊していてさえ、思考の枠組やスタンスとしてついつい「機能」してしまいかねない。
むしろ考えずに浮遊できる分だけ、注意深いリテラシーが求められもする。

あ、話がずれた。

この大震災と原発事故によってもたらされた、あられもない「リセット」感について、コメントしたかったのでした。

今、単に(といっても何兆円もかかる大変なことなんですけどね)この事件を埋めるべき損壊と見て、力を合わせよう、といえばいいっていうものなのかどうか。

それよりもむしろ空白の空間の凄みについて、もう少しじっくり考えたいのです。
どうせ復興なんて10年15年かかるわけだし、余震だってまだM8クラスの可能性あり、なわけだし。震災はまだ進行中なのですから。

それなのに繰り返される、 「日本の力は団結力」というキャンペーンには、空白を急いで充填してしまいたいという欲望が込められているように感じてうんざりするのです。

被災者として助けてもらう時、援助それ自体には国境も国籍も部族も地方もない。
援助される人とする人の気持ちが「一つ」だから援助するんじゃなくて、被災者の置かれた状況が放置できない大変さだから、とにかく何とかしようって話だよね?

ちがうのかなあ。

そん時日本が100個あっても、いいじゃん、と私は思う。仙台もがんばるし、いわきもそれなりにがんばるんだろうし、南三陸も、浪江も、飯舘村も、それぞれやるよ。都城だって、大阪だって。それぞれにがんばらない人もいて、三年寝太郎もいて、いいじゃないか。
岐阜のサラリーマンの人もボランティアしてくれるし、避難所の友人のために、連休中慰問する友達もいる。

てんでじゃだめなの?

日本が二つだと復興できないの?心」三つだと、うまくいかないの?

もしかして、ソーユーことの限界も考えた方がいいかもしれないときに、性急な「日本は一つ」キャンペーンは、ちょっと筋が悪いんじゃないの?

またしても「てんでんこ」の言葉が頭をよぎる。

断片が、隣接性によって多層に「てんでんこ」的共鳴を組織化する可能性も、楽しく電波に乗せてほしいな。

同じことを言ってても「トータス松本」の芸風は素敵、なんですけどね(笑)



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