龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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『哲学とはなにか』ジョルジュ・アガンペン(みすず書房社刊)が面白い。

2017年03月11日 11時51分24秒 | メディア日記
子供の頃、みすず書房を「ミミズ書房」と間違えていて、恥ずかしい思いをしたことがある。
そのみすず書房から出た、ジョルジュ・アガンペンの『哲学とはなにか』という本が面白い。

まだその本編ともいうべき『言い表しうるものとイデアについて』は半ばまでしか読んでいないので、そこはようやく面白くなってきた、としか言えないのだが、五本あるエッセイのうちの1本、『要請の概念について』が面白かった。

「質料〔物質〕を基体としてではなく、物体の要請として思考する必要がある。それは物体が要請するものなのであり、私たちが物体の最も奥深くに潜む力として近くするものなのだ。」
「神と質料を同一視した(中略)中世の唯物論者たちのスキャンダラスなテーゼ<この世界がそのままに神である>はこの意味に解されなければならない」

単に「異端の汎神論」をおもしろ半分に称揚している、というわけではあるまい。

この「物体の要請」という文脈を前提として、アガンペンは次のように述べる。

「スピノザが本質をコーナートゥス(conatus)と定義するとき、彼は何か要請のようなものをかんがえている。『エチカ』第三部の定理7(中略)の"conatus"は、通常なされているように「努力」と翻訳されるべきではなく、「要請」と翻訳されなければならない。≪おのおのの事物がみずからの存在に固執することを要請するさいに回路となる要請は、その事物の現実的本質にほかならない≫と訳されるべきなのだ。存在が要請する(あるいは欲望する-欄外に付されている注釈によると、欲望-cupiditas-はconatusに与えられた名辞のひとつであるという)ということは、それが事実的現実に尽きるものではなく、事実的現実の彼方に向かおうとする要請を内に含んでいることを意味している。

存在は単に存在しているのではなく、存在することを要請しているのである。」(傍線引用者)
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そういうことだよね!

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