2月10日(日)
鳥舟に乗れるは裸の生命のみ十二単の如き諸事を脱ぎ置く(た)
その諸事の中に私も入るのか駄々っ子のごと問うてみたき夜(ま)
緩和ケアと言えども苦痛はあるものを日の降り注ぐ丘に憩いたし(た)
「面倒な身を捨て高く飛びたい」と言った19の貴女(きみ)を覚えている(ま)
森蔭に社の多く鎮まりてみちのくの神のまなざし光る(た)
「もう飽きた」入院四日で言う妻に病室の窓から早春(はる)の陽光(ひ)がさす(ま)
死してなおあなたを守ると誓う我たぶん愛とはそういうものだ(た)
半年を共に闘病したことはそれも二人の財産だろう(ま)
「ぞうきんは?」夫(つま)の電話に病院のベッドから心は駆け出しており(た)
大概はできると言いつつその実は道具の在処(ありか)を妻に尋ねつ(ま)
2月11日(月)
行きたきは梅の香ただよう山の道風とたわむる身体がほしい(た)
弘前の城の桜を眺めていたあの日の温かさをふと思い出す(ま)
病重くその日その日を生きるなり夫(つま)のぬくもりカンサーギフト(た)
寄り添える身のあるうちは泣きはせぬそのあとのことはそのあとのこと(ま)
苦しみを子等には決して見せぬよう背を背けたる心の痛し(た)
なにくれと厳しき母を気遣う息子よ君は優しき大人になった(ま)
3/5(火)
抗癌剤止めますと主治医に言い切って生の残り火かきあつめる夕べ(た)
頸城(くびき)から身を振りほどき何処へと帰らんとするか妻のたましひ(ま)
3/6(水)
一秒でも早くと退院を訴える私看護師は戸惑い医師は声をかけず(た)
病院を逃げ去るように出た後で「ちょっと海まで寄り道」という妻(ま)
3/7(木)
ひたすらにただひたすらにほっとして病ともども昔に帰る (た)
ぞうきんの置き場所もゴミの分別も我に教えて逝かんとするか(ま)
3/8(金)
わずか三か月(みつき)亡くした娘に地蔵尊をたむけて桜のつぼみふくらむ(た)
病妻を乗せて押しゆく車椅子亡き娘子(むすめご)の墓参ぞ悲しき(ま)
3/9(土)
夫(つま)植えし花々眺め日が暮れる生命伸びゆく音響くごと(た)
やらないと決めていたはず庭いじりそれでもやれば意外に楽し(ま)
3/10(日)
医療器具並んだ部屋でのみ生きられる生命の灯(ともしび)細くゆらめく(た)
治療から緩和ケアへと変更すほっとする思いと震える心と(ま)
「今日からは治療を止めて緩和だけ」清々しいほどの妻の笑顔よ(ま)
3/11(月)
一つ一つ心残りを片づけて飛び立つ羽根を大きく伸ばす(た)
アッピア街道石はめるがごとく遺品渡す次世代よもっと幸せになれ(た)
人生の課題を次々片づけて君は何処(いずこ)へ飛ぼうとするのか(ま)
3/12(火)
眠れぬとあせるほどに目は冴えて遠き春雷を言い訳にする(た)
一人一人必ずくぐる門とはいえどなぜに今かと答えなき真夜中(た)
どこまでも張りつめた思い持て余し忘れたくてがむしゃらに働く(た)
辞世 平成三十一年三月三日作
初蝶の風を味わう桜枝夢を渡りて青空高し
なんだかこの時期のことはあまりよく覚えていないし、日記やメールにも残していない。ただ妻を向き合うことが全てだった、といえば聞こえはいいが、慌てふためいてオロオロしてばかりいたのかもしれなかった。
3月6日に病院を退院して、3月9日に在宅緩和ケアの専門医にお世話になる。
それからの3ヶ月弱は本当に貴重で大切な時間にもなり、とても重要な体験をする期間にもなるのだが、その時期二人は短歌を書かなくなる。
もはや私たちの言葉はそこでは役割を終えていた、ということだろうか。
まだ最後の三ヶ月には整理がつかず、書き残した日記を一度も開いていない。
ともあれ、癌再発以後に彼女が残した短歌はこれが全てだ。
ここまで読んできていただいてありがとうございました。
在宅緩和終末ケアに入ってからの彼女については、機会があったら項を改めて。
鳥舟に乗れるは裸の生命のみ十二単の如き諸事を脱ぎ置く(た)
その諸事の中に私も入るのか駄々っ子のごと問うてみたき夜(ま)
緩和ケアと言えども苦痛はあるものを日の降り注ぐ丘に憩いたし(た)
「面倒な身を捨て高く飛びたい」と言った19の貴女(きみ)を覚えている(ま)
森蔭に社の多く鎮まりてみちのくの神のまなざし光る(た)
「もう飽きた」入院四日で言う妻に病室の窓から早春(はる)の陽光(ひ)がさす(ま)
死してなおあなたを守ると誓う我たぶん愛とはそういうものだ(た)
半年を共に闘病したことはそれも二人の財産だろう(ま)
「ぞうきんは?」夫(つま)の電話に病院のベッドから心は駆け出しており(た)
大概はできると言いつつその実は道具の在処(ありか)を妻に尋ねつ(ま)
2月11日(月)
行きたきは梅の香ただよう山の道風とたわむる身体がほしい(た)
弘前の城の桜を眺めていたあの日の温かさをふと思い出す(ま)
病重くその日その日を生きるなり夫(つま)のぬくもりカンサーギフト(た)
寄り添える身のあるうちは泣きはせぬそのあとのことはそのあとのこと(ま)
苦しみを子等には決して見せぬよう背を背けたる心の痛し(た)
なにくれと厳しき母を気遣う息子よ君は優しき大人になった(ま)
3/5(火)
抗癌剤止めますと主治医に言い切って生の残り火かきあつめる夕べ(た)
頸城(くびき)から身を振りほどき何処へと帰らんとするか妻のたましひ(ま)
3/6(水)
一秒でも早くと退院を訴える私看護師は戸惑い医師は声をかけず(た)
病院を逃げ去るように出た後で「ちょっと海まで寄り道」という妻(ま)
3/7(木)
ひたすらにただひたすらにほっとして病ともども昔に帰る (た)
ぞうきんの置き場所もゴミの分別も我に教えて逝かんとするか(ま)
3/8(金)
わずか三か月(みつき)亡くした娘に地蔵尊をたむけて桜のつぼみふくらむ(た)
病妻を乗せて押しゆく車椅子亡き娘子(むすめご)の墓参ぞ悲しき(ま)
3/9(土)
夫(つま)植えし花々眺め日が暮れる生命伸びゆく音響くごと(た)
やらないと決めていたはず庭いじりそれでもやれば意外に楽し(ま)
3/10(日)
医療器具並んだ部屋でのみ生きられる生命の灯(ともしび)細くゆらめく(た)
治療から緩和ケアへと変更すほっとする思いと震える心と(ま)
「今日からは治療を止めて緩和だけ」清々しいほどの妻の笑顔よ(ま)
3/11(月)
一つ一つ心残りを片づけて飛び立つ羽根を大きく伸ばす(た)
アッピア街道石はめるがごとく遺品渡す次世代よもっと幸せになれ(た)
人生の課題を次々片づけて君は何処(いずこ)へ飛ぼうとするのか(ま)
3/12(火)
眠れぬとあせるほどに目は冴えて遠き春雷を言い訳にする(た)
一人一人必ずくぐる門とはいえどなぜに今かと答えなき真夜中(た)
どこまでも張りつめた思い持て余し忘れたくてがむしゃらに働く(た)
辞世 平成三十一年三月三日作
初蝶の風を味わう桜枝夢を渡りて青空高し
なんだかこの時期のことはあまりよく覚えていないし、日記やメールにも残していない。ただ妻を向き合うことが全てだった、といえば聞こえはいいが、慌てふためいてオロオロしてばかりいたのかもしれなかった。
3月6日に病院を退院して、3月9日に在宅緩和ケアの専門医にお世話になる。
それからの3ヶ月弱は本当に貴重で大切な時間にもなり、とても重要な体験をする期間にもなるのだが、その時期二人は短歌を書かなくなる。
もはや私たちの言葉はそこでは役割を終えていた、ということだろうか。
まだ最後の三ヶ月には整理がつかず、書き残した日記を一度も開いていない。
ともあれ、癌再発以後に彼女が残した短歌はこれが全てだ。
ここまで読んできていただいてありがとうございました。
在宅緩和終末ケアに入ってからの彼女については、機会があったら項を改めて。
私にとって唯一の、尊敬し、迷いなく信頼できる先生が島貫先生です。中学生の時、自分自身でも気付けなかった私の心のわだかまりに気づき優しく導いてくれた島貫先生に、恥じない人生を送りたいと改めて思っております。
お二人の相聞歌、すべて拝読致しました。心を直に握られているような、全身に響く歌でした。このような形で残してくださったことに深く感謝致します。
島貫先生らしい歌で、先生の授業を受けていた20年前の感覚が蘇るようでした。
島貫先生は、私の中でいつまでも変わらず偉大な先生です。
大変遅くなりましたが、心より島貫先生の御冥福をお祈りいたします。
「ことばの花束」は、亡妻が一番大切にしていた国語の教科実践の一つでした。
一人一人の生徒がやった仕事、プリント、レポート、絵、短歌、俳句、その全てを一冊にして残しておくこと。
それを言葉の花束と呼んでいましたね。
>先生の授業を受けていた20年前の感覚が
>蘇るようでした
ありがたい言葉です。
彼女はいつも、種を蒔いているつもりだったと思います。
「生徒にはタマネギの細胞みたいに成長点ってのがあってね。それは絶対触っちゃいけないの。自分自身で伸びていくその成長点の邪魔をしないのが教師の仕事」
と口癖のように言っていました。
亡妻も、この歌を受け取ってくれた教え子の方がいらっしゃったことを、何よりもよろこんだはずです。
ありがとうございました。