震災直後の夏、下北半島をドライブした。
まだ季節が早いというので、大間漁港ちかくで食べたマグロは水揚げされたばかり、というわけにはいかなかった。
でも、マグロの心臓の焼き物をほおばったり、海鮮丼でお腹を満たしたりしたあと、そこからほど近い大間原発の建設現場の脇を通り、下北の深くて濃い自然の中を巡って帰って来た。
繰り返す。
大間原発の建設再開は、悪いことはいわないから止めておいた方がいい。
理由はたった一つ。
お金で買えないものを失うことになるからだ。
経済行為としては、過疎地にプラントを誘致するのは自治体として地方振興を考えればむしろ常道かもしれない。
だが、その土地それ自体をそこに住み、生活し、自分たちの「生」が根付いてきた長い年月を失いかねない「取引」は、割に合わないのではないか?
原発プラントがなければ経済が回らないから、どのみちそこに住めなくなるんだ、という言い分もおそらく切実な生活からの声だろう。
しかし。
どうせ出稼ぎや身売りや戦争に人出を供出しつづけてきた貧しい田舎ならば、原発プラントに頼ってそこで「豊か」に住めるうちは住んでおけばいいではないか、という開き直りは、「切実の生活」からの声とは似て非なるものだ、ということを人はもう少し真剣に考えておいた方がいいと、思う。
その切実な声、と開き直りの間には、小さく見えるかもしれないけれど、確実に「隙間」がある。
そしてその「隙間」は実は、東日本大震災が私たちに指し示した「人為=&≠自然」の「裂け目」と、細い糸で確実に繋がっているのだ。
人は学ぶ。
どんな状況であっても、学びながら生きてきた。
大震災とそれに伴う原発事故から何を学ぶか、は、これからの時代がじっくり時間をかけて吟味していくべき課題だ。
だから私は、余計なお世話としてではなく、田舎の福島に今住み続け、田舎の青森を愛する一人として、
悪いことは言わないから大間原発の建設再開は止めておけ
と発信しつづける。
小名浜港にようやく北海道からのさんまが70トン水揚げされた。
去年の春以前だったら、話題にも上らない埋め草のエピソードだろう。
しかし、今はとても切実な話題だ。
近海の魚の水揚げがいつになったらできるのやら、見当もつかない。
おそらく、かつての水準に戻ることがあるとしても、私はそれまで生きてはいないかもしれない。
それは、産業としても雇用としても大きな損失だが、そういうベタでソロバンに乗るか乗らないかだけではなく、私たちの「豊かな生」にとって決定的な打撃だ。
「植民地的」システムの中で田舎の経済が回ってきたことは事実だし、その「中毒性」を十分知っていても、それをのみ込んで地方のお金を回さねばならなかった地方自治体の「政治」を笑うことはできまい。「中央」のシステムは、どこでもいい「金で転ぶ田舎」を(戦略や意図を持たずに!)探し求め続けている。
萱野稔人が指摘するように、国家には戦術はあっても明確な「意図」や「戦略」は必ずしも存在しない。
そういう意味では、国家の「行為は」暴力占有とそれに伴う経済の集中を、共同体の自動運動として続けて行く、と見るべきかもしれない。
だから、「田舎も恩恵を受けただろう」という話では済まないのだ。
その毒を飲むことを自治体に強いているのは、暴力簒奪装置でもあり、経済集中装置でもある国家のシステムだから。
ただ、いざ一度こういう「裂け目」が走ると、この装置はもはやうまく機能しつづけられない。
私たちはそれを東電福島第一原発の事故で知った。
だから、何事もなかったかのように、以前の原発誘致システムに大間が乗るのはお薦めできないのだ。
「既に認可した原発の建設を経済産業省は止めるものではない」
というのは、相変わらずの枝野発言の「正しさ」を示しているが、その「ただしさ」のみでいつまでも「世界」は回っていくわけではない。そのシステムだけが経済活動の基本的可能性条件でもない。
私たちは、そういう「裂け目」の近傍に立っている。
おそらくは、幽霊が見える場所に。
限定された現状システムの内部における「経済合理性」は「理性1」の範囲内に止まる。
そこでは原発事故は「想定外」だったり、単に回避すべき、あるいは(驚くべきことに)単に計算にいれるべき「要素」でしかあり得ない。
だから、それに対する危惧は、むしろ幽霊のように見える。
だが、裂け目の近傍に立って世界をその闇を通して「も」見ようとすれば、「理性1」の範囲内、道具的理性の範囲内でだけものごとを考えて済ませるわけにはいくまい。
これは、単なる環境保護とか自然保護とか、人間の生きる権利とかいう話ではない。
世界と向き合う「理性」の問題で「も」あるのだ。
もう一度繰り返す。
悪いことは言わないから、大間原発再開は止めておいた方がいい。
「悪いことは言わないから」
というのは、本当に余計なお世話的「横やり権力」の言葉に過ぎないだろうか。
そうかもしれない。
そうではないかもしれない。
幽霊の放つかすかな言葉もまた、きっとそんなところから、そんな風に聞こえてくるんじゃないかな。
まだ季節が早いというので、大間漁港ちかくで食べたマグロは水揚げされたばかり、というわけにはいかなかった。
でも、マグロの心臓の焼き物をほおばったり、海鮮丼でお腹を満たしたりしたあと、そこからほど近い大間原発の建設現場の脇を通り、下北の深くて濃い自然の中を巡って帰って来た。
繰り返す。
大間原発の建設再開は、悪いことはいわないから止めておいた方がいい。
理由はたった一つ。
お金で買えないものを失うことになるからだ。
経済行為としては、過疎地にプラントを誘致するのは自治体として地方振興を考えればむしろ常道かもしれない。
だが、その土地それ自体をそこに住み、生活し、自分たちの「生」が根付いてきた長い年月を失いかねない「取引」は、割に合わないのではないか?
原発プラントがなければ経済が回らないから、どのみちそこに住めなくなるんだ、という言い分もおそらく切実な生活からの声だろう。
しかし。
どうせ出稼ぎや身売りや戦争に人出を供出しつづけてきた貧しい田舎ならば、原発プラントに頼ってそこで「豊か」に住めるうちは住んでおけばいいではないか、という開き直りは、「切実の生活」からの声とは似て非なるものだ、ということを人はもう少し真剣に考えておいた方がいいと、思う。
その切実な声、と開き直りの間には、小さく見えるかもしれないけれど、確実に「隙間」がある。
そしてその「隙間」は実は、東日本大震災が私たちに指し示した「人為=&≠自然」の「裂け目」と、細い糸で確実に繋がっているのだ。
人は学ぶ。
どんな状況であっても、学びながら生きてきた。
大震災とそれに伴う原発事故から何を学ぶか、は、これからの時代がじっくり時間をかけて吟味していくべき課題だ。
だから私は、余計なお世話としてではなく、田舎の福島に今住み続け、田舎の青森を愛する一人として、
悪いことは言わないから大間原発の建設再開は止めておけ
と発信しつづける。
小名浜港にようやく北海道からのさんまが70トン水揚げされた。
去年の春以前だったら、話題にも上らない埋め草のエピソードだろう。
しかし、今はとても切実な話題だ。
近海の魚の水揚げがいつになったらできるのやら、見当もつかない。
おそらく、かつての水準に戻ることがあるとしても、私はそれまで生きてはいないかもしれない。
それは、産業としても雇用としても大きな損失だが、そういうベタでソロバンに乗るか乗らないかだけではなく、私たちの「豊かな生」にとって決定的な打撃だ。
「植民地的」システムの中で田舎の経済が回ってきたことは事実だし、その「中毒性」を十分知っていても、それをのみ込んで地方のお金を回さねばならなかった地方自治体の「政治」を笑うことはできまい。「中央」のシステムは、どこでもいい「金で転ぶ田舎」を(戦略や意図を持たずに!)探し求め続けている。
萱野稔人が指摘するように、国家には戦術はあっても明確な「意図」や「戦略」は必ずしも存在しない。
そういう意味では、国家の「行為は」暴力占有とそれに伴う経済の集中を、共同体の自動運動として続けて行く、と見るべきかもしれない。
だから、「田舎も恩恵を受けただろう」という話では済まないのだ。
その毒を飲むことを自治体に強いているのは、暴力簒奪装置でもあり、経済集中装置でもある国家のシステムだから。
ただ、いざ一度こういう「裂け目」が走ると、この装置はもはやうまく機能しつづけられない。
私たちはそれを東電福島第一原発の事故で知った。
だから、何事もなかったかのように、以前の原発誘致システムに大間が乗るのはお薦めできないのだ。
「既に認可した原発の建設を経済産業省は止めるものではない」
というのは、相変わらずの枝野発言の「正しさ」を示しているが、その「ただしさ」のみでいつまでも「世界」は回っていくわけではない。そのシステムだけが経済活動の基本的可能性条件でもない。
私たちは、そういう「裂け目」の近傍に立っている。
おそらくは、幽霊が見える場所に。
限定された現状システムの内部における「経済合理性」は「理性1」の範囲内に止まる。
そこでは原発事故は「想定外」だったり、単に回避すべき、あるいは(驚くべきことに)単に計算にいれるべき「要素」でしかあり得ない。
だから、それに対する危惧は、むしろ幽霊のように見える。
だが、裂け目の近傍に立って世界をその闇を通して「も」見ようとすれば、「理性1」の範囲内、道具的理性の範囲内でだけものごとを考えて済ませるわけにはいくまい。
これは、単なる環境保護とか自然保護とか、人間の生きる権利とかいう話ではない。
世界と向き合う「理性」の問題で「も」あるのだ。
もう一度繰り返す。
悪いことは言わないから、大間原発再開は止めておいた方がいい。
「悪いことは言わないから」
というのは、本当に余計なお世話的「横やり権力」の言葉に過ぎないだろうか。
そうかもしれない。
そうではないかもしれない。
幽霊の放つかすかな言葉もまた、きっとそんなところから、そんな風に聞こえてくるんじゃないかな。