龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

「スピノザが来た」という朝日新聞の記事(ニュースの本棚)を読んだ。

2012年01月29日 15時21分56秒 | 大震災の中で
 國分功一郎『スピノザの方法』への言及もあったので(当然ですが<笑>)ちょっと紹介しておきます。

引用開始
「『我思いつつあり』-スピノザは精神と肉体を分けない。彼の哲学では方法はたどると同時にできる道。それは自分の中にある。『誰も自分で考え、その道を見つけるしかない』と國分さんはいう。現代人にはのみ込みにくい方法でもある。」
引用終了

ふむふむ、なるほど「道」かあ、と一人で納得。

今ちょうど親鸞『教行信証』(岩波文庫)の「信」の巻の部分を読んでいて、二河白道のたとえが出てきた。岩波文庫『教行信証』信巻P143~P146

東には群賊悪獣(毒蟲)たち、北には貪愛の水の河、南には憎悪の火の河、河の中央には幅4、5寸の白い道。そこで
「われいまかへるともまた死せん、住すともまた死せん、ゆくともまた死せん。一種として死をまぬがれざれば、われやすくこの道をたづねてさきにむかひてしかもゆかん。すでにこの道ありからなず度すべしと。」

と親鸞は「道」の喩えを示している。

朝日新聞の鈴木繁氏は、『スピノザの方法』の評として「現代人にはのみ込みにくい方法」とコメントしているが、果たしてそうだろうか。

少なくても、東日本大震災と原発事故によって「人為の裂け目」=聖痕を目の当たりにした人間にとっては、たとえばスピノザの「道」、たとえば親鸞の「道」は、現実に取り得る唯一の道として、むしろ身に親しいものと感じられるのではないか、と思われてならない。

だからスピノザが「来た」ってことになるんじゃないかな。

スピノザが来ている、親鸞が来ている、というのは、決して偶然ではあるまい。
(1月29日日曜朝日新聞12版の下には五木寛之『親鸞 激動編』の広告が<笑>)

その場所には、私たち人間の営みに刻み込まれた決定的な「裂け目」をどう受け止めるのかという、誰もが不可能でありながら不可避でもある問いが屹立している。

「死」への恐怖の分析もまた、必要な仕事になってくると思います(後で詳述します)。

ちなみに、。併せて安冨歩の『経済学の船出』にも言及されていたのにはびっくりでした。

彼の非常に聡明かつ大胆な思索の結果であるこの著書ばかりではなく、ある意味ではトンデモ本とさえ見なされかねない『原発事故と「東大話法」』もまた、「不可能かつ不可避」という多重の困難と向き合うときに、内的な衝動から瞳をそらしてはいけない、「立場」だけで発話することはハラスメントを生むという厳しい自覚の上に書かれているとみるべきでしゃないでしょうか。
共依存=母親&妻からのハラスメントから離脱し(『生きる技法』)、立場を優先してなされる発話からも身を引きはがし、「あられもない」個人的な場所に「も」立つという覚悟に支えられた著作として同時に読まれるべきものでしょう。

他にスピノザ関連としてはドゥルーズ『スピノザ-実践の哲学-』(平凡社ライブラリー)についてまとめたという下記サイトが、明快かつ簡潔でお薦めかと。


Spinoza: Philosophie Pratique
http://www.mars.dti.ne.jp/~kells/Essay/spp.html

Spinoza: Philosophie Pratique (2)
http://www.mars.dti.ne.jp/~kells/Essay/spp2.html


『スピノザの方法』『経済学の船出』は、どちらもかねてからお薦めの2冊。
未読の方はぜひ。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。