龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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「文化」は入試評論文にどのように登場するか(2) <学びネットワーク研修会>

2016年03月28日 12時21分10秒 | メディア日記




文化とは

大辞林には
Cultureの訳語。社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体。

とある。

私は「人間の生の営み」と極限まで短く表現した。

単語の意味より、どう使われるか、だろう。

まず
「近代とは何か?」

「豊かさとは何か?」
から考えていこう。

ここで文化を考えるキーパターンとして
「切り離しとつながり」
を示しておく。
これは
「貧しさと豊かさ」
といってもいい。

さて、現代文は

「日本語で書かれた現代についての文章」

大学入試的には

「現代」=「近代」のことと考えてよい。
モダン(modern)つまりは今の時代である。

ということは、前の時代を考えなければならない。

前の時代

文明開化←近代ヨーロッパが入ってくる。

今の時代

つまり、現代を考えるには、日本の今だけを考えていては分からない。

日本は明治=文明開化の時期、ヨーロッパ文明を必死で受容していった。
┌────────────────────────┐
│ ではそのヨーロッパは豊かなのか、貧しいのか? │
└────────────────────────┘
を考えよう。

生徒は全員ヨーロッパは豊かだと答える。
しかし、ヨーロッパはそもそも全体としてかなり北にある。北海道かそれよりも!!

中世の1000年間は、やせた土地=森林←開墾するのが超大変だった。その闘い。   

(ちなみに、森林開拓の時、なにが大変だといって根っこを掘り返して取り除くのが大変だった。農機具の開発も進める必要があった。)

また、ハンザ同盟の主要な主題の一つが、カタクチイワシの流通だった。
カタクチイワシは肥料として使われていた。つまり、それだけ土地が痩せていたということ。

近代は15C~だが、この時期は温暖だった。17Cは日本でも三大飢饉が起こっているようにプチ氷河期。寒冷化した。ここはがんばった。

自然相手だけではない。
十字軍は結果として大失敗。教皇の権威も封建制もだめになっていく。
その代わりに大航海時代が始まっていく。

大航海時代以前のヨーロッパは?

中世暗黒時代とちょっと前まで呼ばれていた。今は「暗黒時代」とは呼ばない。
「中世暗黒時代」は、近代がいわば神様から解放された時代なので、その解放以前の中世を否定的に呼んだ言葉。

だが、近代になって神がなくなったわけではない。実は、近代は「キリストの復活」になぞらえられることもある。近代もあくまでキリスト教的な側面を保つ。

ちなみにプロテスタントは聖書原理主義。

だから、正確には(近代ヨーロッパの都合に沿って言えば)教会によって神がないがしろにされていた時代、神が死んでいた時代だ、と近代は直近の中世を悪く言おうとしていた、ということにすぎない。

当時はイスラムが圧倒的に文化も高かった。

だが、いろいろ言っているが、実際には中世は貧しさの中でそれを乗り越えようとしていたダイナミックな時代だった。

「欲(=貧しさから脱したい!)」これが近代資本主義を生み出したのだ。

ということは、

ヨーロッパにおける近代とは、豊かさを得た時代である、といえる。

神が与えたのではなく、知恵・勇気・努力によって、すなわちこの世界を買え得る人間だけが持っている力=理性(大前はこの知恵・勇気・努力を理性と呼ぶ)によって。

デカルトの心身二元論では

神=自然     人間=理性
ーーーー  → ーーーー
 人間      自然

左の図式から右の図式になったということ。つまり、

「自然を克服したぞ!!!」

ということになる。ここには実は、
┌────────────────────┐
│ 押さえ込まなければならない自然への怖れ│
└────────────────────┘

がある。この視点は重要。

しかし、自然への怖れを乗り越えたからといって、「キリスト教」も乗り越えたかというと、それは同じではない(むろん、他の宗教をもってきても「キリスト教」の乗り越えにはならない)。
というのは、人間はイデオロギー的な存在だ。
気持ちというものは押さえ込むことが一見できそうだが、実はそうではない。

┌────────────────────────┐
│ 人間は形而上的に(精神として)世界を捉えている│
└────────────────────────┘

例:性同一性障害がそう。心を買えられるなら、身体に心をあわせればよい。しかし、そうではない。「我思う、故に我あり」なのだ。

神は豊かになったから怖れなくなった、とはいっても、そう簡単にはなくならない。

ではどうしたか?ポイントは2つ。ヘレニズムとヘブライズム。

①非キリスト教的でありかつヨーロッパ的な教えを導入した。だからそのために古代ギリシャを参照する。これは古代をそのまま理解したのではない。古代をキリスト教的に読み解くことで、キリスト教を近代から「抜いて」いった。

②デカルトの二元論による読みから、神を「抜いて」いった。

 神      人間
ーーーー と  ーーーー
 人間      自然

この二つの図式は実は同じだ、という考え方。我々は形而上的になった、精神的になった、理性を獲得した、つまりは左の図式の神の位置に付いた、と考えた。


①がヘレニズム(ヘレン=ギリシャ)+主義
②がヘブライズム

ここでいう理性とは、ものごとの根本・心理を捉える能力のこと。
そして神とは、中世においてはむしろ神は「真理」と訳すべきもの。絶対的存在としての真理である。
そして、神を進行できるのは人間だけ、と考える。

神     人間    ←精神
ーーー  ーーーー
人間    自然    ←物質

デカルト主義的二元論でそう読み替えていった。

①と②という意味で、近代は物質的解放であると同時に精神的解放でもあった。

身分や宗教からの解放は精神的解放。
自然という物質的なレベルでの解放。

それが成立した。

キーポイント

ここには、「切り離し」が隠れている。

理性/自然

理性が自然を敵と考え、押さえ込むことで支配した。つまり、切り離しによって豊かさを保ったということ。


ここで古代についてーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ヨーロッパ近代における古代=ヘレニズム。
つまりそれは、近代人が豊かだとみなした時代のこと。

ところが古代ヨーロッパは地中海沿岸だった。
『ガリア戦記』にもあるように、北側は古代、ヨーロッパではなかった。
(これは大和朝廷の時代、関東以北は討伐の対象だったのと同じ。次第に指し示す地域も変わってくること=神話化の証左でもある)

文明の発達には交通の利便性が必須。
一番穏やかな海は地中海だった。だからここに文明が発達したのは当然。
日本でいえば日本海。
(実際、鎖国などというのは江戸末期にロシア語から翻訳された概念にすぎない。)
(むしろ明治以降、国民国家意識高揚のために島国=ニッポンというイデオロギーが広がってい言ったと見るべき)
(ちなみに、江戸幕府という言い方は当時つかっていない。「公儀」か「朝廷」。明治期になって、完全に忘れ去られていた天皇を立てていったから、幕府と呼ばれるようになっていったのだ。
その方向性は国学から始まっている国家意識がそのころから出てきた、それを薩長政権が使っていった、ということ。

そして、古代ギリシャは基本奴隷制だった。市民という名前の貴族が民主制を敷いていた。

だが、これは現代ともつながっている。
近代では、生産をするシステムは奴隷ではなく、科学技術だ。

その結果庶民にも「暇」が生まれた。

暇になると人間は文化や思想を生む。

歴史を見ると芸術は必ず権力と結びついている。豊かになって暇・余暇ができてその結果文化が発展する。ではなにを考える?
存在や生について考え出す。


古代ギリシャはコスモロジカルな世界観を持っていた=ヘレニズム
  ┌───────────────────────┐
  │ただし近代ヨーロッパはこれを取り入れたが、  │
  │切り離しはヘブライズムの考え方。       │
  │近代ヨーロッパはあくまで(装いを変えた)ヘブラ│
  │イズムとヘレニズムの二本立てで考えること。  │
  └───────────────────────┘

人間には二つある。
1,死ぬことを考える人間
2,死ぬことを考えない人間
2が増えている。

生を肯定しすぎているのでは?

暇になると、当たり前について考えるようになる。→当たり前を疑う=知の出発点

エピステーメー(episteme)=学的知
↑             ↑
↓             ↓
ドクサ           臆見


ちなみに、現代は「人間の時代」だから、自分とは何か、アイデンティティが課題になる。

だが、古代は違う。

世界とは何か?
原理=アルケー(arche)

エピステーメー(ギリシア語)=根本を考える。

scientia(ラテン語)

science(英)

この考え方は要素還元主義と呼ばれる。=科学の根本原理でもある。

私たちの考え方の鬼門にもかかわっている。
一つの原因・原理を探し出そうとする。



次に、豊かさとは何か、を考える。


     貧しさ      豊かさ
物が    ×        ○
選択肢が  ×        ○
     つながり     切り離し
     伝統       進歩

☆豊かさは切り離しを中に持っている。それを我々は自由と呼ぶ。

豊かになる→人やものとの関係が切り離されていく。

例:部屋やクルマ 自然から切り離され、自然から収穫したものを利用している。

貧しさ:一生懸命やっても成果が上がらない時、人はせめて現状を維持したいと思う。
  

   その維持の努力→伝統志向性とつながっていく。


豊かさ:良くなっていくときは昨日より今日、今日より明日と進歩していく。違っていく。

   否定の契機がそこにある。→切り離しは否定を孕んでいる。

   資本主義がそれ。昨日と違う今日、今日と違う明日を求める「欲」がそこにある。
   こういうことが豊かさの中には眠っている。

 
 だが、

┌───────────────────┐
│豊かになると本当に選択肢はあるのか? │
└───────────────────┘

という問いはあり得る。

①豊かさは果たして選択肢を本当に増やすのか?
②選択肢が多すぎたらどうなる?

例:お勧めは何?→これはいわゆる「自由からの逃走」(フロム)

我々にとって選択肢とは何か?
本当に主体的とはどういうことなのか?
本当に選択肢はあるのか?

これは今問われていること。


午前中のまとめ

近代=現代は豊かな時代

豊かであるということは物と選択肢がある。そこには切り離しがある。否定の契機を持つ。

ところが実際には多元的になるはずなのに、そうではなく、一元化されてしまう。


┌───────────────┐
│なぜならそこに理性があるから!│
└───────────────┘

むしろ、真理を示すことによって一本のレールしか歩いていない、ということになるのではないか?

ある「理」によって正しいことを認める。

これは私たちが一定の「理」=理性によって思考している限り避けられない矛盾。

これが近代合理主義の限界。
┌───────────────────┐
│ 科学的に説明できる範囲しか説明しない│
└───────────────────┘

そもそもの合理主義とは、複雑なこの世界に矛盾を見て、そこに根底的な理(ことわり)を発見するのが合理主義ではなかったか?


現代文では、現代において「何かおかしいな」と思うことが論じられている。

豊かさには当然+も-もある。そして、マイナスのみに注目するのが普通。
マイナスを論じたら、当然別の論理が必要。

ところが、簡単に「貧しさの論理」が出てきてしまう。なぜか?

人間のデフォルトはむしろ貧しさの論理だから。

豊かさの中で切り離しが問題になると

「つながりがいいんだよ」

となりやすい。

これは勘違いにすぎない。かといって、代案はなかなか出てこない。

だが、とにかく

┌───────────────────────────┐
│切り離しは× →つながりは○というのはほぼ間違っている。│
└───────────────────────────┘


例:少子化は根本子育てが選択肢になってしまったということがおおきい。豊かさ→少子化はある意味必然。
例:3.11以降、危機的状況になると「絆」が注目されてしまう。

┌─────────────────────┐
│豊かさをデフォルトとして考えなければだめ!│
└─────────────────────┘

近代は人間を理性を持つ主体として捉えた。

社会契約説もそう。個が社会をつくりあげる。

今は、ネットがおかしいと言われてもいるが、もしかするとそれが本性かもしれない。

しかし、その方向の議論は進んでいない。

豊かさをデフォルトにしていこう。近代の豊かさは一元的だった。

貧しさ→こうやれば→豊かさ(になる)という流れ。結果一元的になった。

最近、「だんだん違うのもいいな」となってきた。

質問:食べログは?
答え→自由からの逃走の面もある。自然への再接続という話も出てきている。今は豊かさがデフォルトになっていく過渡期かもしれない。

(以上で午前の部「近代とは何か」・「豊かさとは何か」を終了。)