龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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「負け戦」スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(『世界』3月号)を読んだ。

2016年03月04日 13時58分46秒 | 大震災の中で
雑誌「世界」2016年3月号に掲載されている

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『負け戦』という文章を読んだ。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチは『戦争は女の顔をしていない』、『チェルノブイリの祈り』の著者で、2015年ノーベル文学賞を受賞したのだが、この「負け戦」という文章は、ストックホルムで行われたその受賞記念講演の原稿である。

題名は、本人が公演中に言及している、迫害を受けつつ活動を続けたワルラム・シャラーモフというソ連の作家の言葉

「私は、人類を本当に変革しようという闘い、大いなる負け戦に参戦していた」

から取ったものだろう。20世紀に知識人を引きつけて止まなかった「共産主義」の下で起こった戦争と原発事故と向き合いつつ、庶民の生活の中から聞こえてくる声に耳を澄ませる「耳の人」としての自分が、作品群を一つの本として書き上げた過程について言及している。

「フローベールは自分のことを「ペンの人」といっていたそうですが、それなら私は「耳の人」といえるでしょう」(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ)

「赤い帝国」の中で人々が戦争にかり出され、その後帰郷してから沈黙をしいられていった女性たちの声にならないつぶやきに耳を澄ませ、またチェルノブイリ原発事故後の人々が抱えていく苦しみに寄り添いつつ、「負け戦」という言葉を単なる自嘲ではなく、本来勝つべき闘いだという意味としてでもなく、「小さな人」たちが生きていくその人生における愛を(困難とともに)指し示していく筆者の仕事は、とても貴重なものだと感じます。

同僚としゃべったら、彼は「これは『ノーベル文学賞』というより『ノーベル平和賞』じゃない?」と言ってました。なるほど、と思うと同時に、書き手自身がこんなことを言っているのも印象に残った。

「アドルノは『アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である』と書きました。私の師であるアレシ・アダモヴィチもまた二〇世紀の悪夢について小説を書くことは冒涜だと考えていんました。作り事はできない、真実をあるがままに提供するしかない、『超文学』が必要だ、証人が自ら語らなければならない、と。

個人的な思いと重ねていえば、福島の原発事故以後五年をくぐり抜けた小説が読みたい、と切実に感じる。詩は和合亮一が書いてくれた。誰か小説をかいてほしい、と感じる。
先日、天童荒太が福島の津波以後を描いた小説を読んだ(『ムーンナイト・ダイバー』)。これはこれで面白かった。しかし、私が読みたい小説ではなかった(これは書き手天童荒太の側の問題ではなくあくまで読み手=私の側の問題です)。

私が求めているのはいわゆる小説ではないのかもしれない、と彼女のこの講演記録を読んで、思い始めている。

さて、ではどうしよう。
震災・原発事故から五年。「では自分はどうする?」という問いが、人の営みを眺めていると頭の中に響いてくる。この人はこんな風に仕事をしている、ではお前はどうするつもりなのか?と。

「負け戦」という立派な抵抗にもなっていないが、勝ちいにいく「強い国」や政治ではない側の声を聴くところから繰り返していくよりほかにないのだろう。

とにかく、この講演、お勧めです。