龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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前の記事に関連して「医者自身が病気になったら“治療拒否”したいケース30」

2015年05月06日 18時52分24秒 | 大震災の中で
前の記事に関連して、同じく

President ONLINE

で、こんな記事が。

医者自身が病気になったら“治療拒否”したいケース30

http://president.jp/articles/-/15155

確かに切ないけれど、考えておいて悪くはない、と思います。選択の余地も時間もなく、深刻な事態は突然襲ってきます。

そのときのことはそのときになってから考えるしかない、というのはもちろん正解。

でも、時間があるときに少しシミュレーションしておくのも、そんなに荒唐無稽な話でもない、とも思います。

考え得る全てを網羅してあらかじめ準備する、とかいった「神経症的」なやり方はどうかな、という気がしますが、大きな方向性とか、ぎりぎりの分岐点で判断を下すための理性の使い方など、全く準備していないようでも困るし、後悔の元でしょう。

人生は一回しかない。だから、ぎりぎりのところで、失敗とか後悔とか成功とか満足とかを超えてその「生」を受け止めることの方が大切だ
し、だから、どこまでどう考えて生きるのか、何が自分にとって大切なのか、優先順位を漠然とであれ考えておくべきでしょう。

たとえば、私は今田舎に住んでいて、緊急事態に対応できる病院まではいきなり車を運転しても30分から50分はかかります。渋滞時に救急車を呼べば、1時間以上は免れない。
その場所に住んでいるリスクは、織り込んでおくべきだし、それは単なるあきらめとは違う。
ある種の覚悟というか、ね。

抗がん剤だって、どこまでがんばるのか、はいつも考えています。そのときになってみないと分からないし、家族の立場と自分自身の場合でも違うのでしょう。
いざとなって考えが変わるかもしれない。迷いだって出てきて当然だし。

それでも、50代半ばも過ぎてくればいろいろと空想から想像へ、想像から心構えへ、心構えから準備へ、と考えが進んでいくものかもしれません。

この記事、自分が「治療拒否」するかどうかは全く別だけれど参考になりました。



「なぜ、医者は自分では受けない治療を施すのか」という記事(President ONLINE)を読んで考えさせられた。

2015年05月06日 01時09分46秒 | 大震災の中で
President ONLINEの記事。

なぜ、医者は自分では受けない治療を施すのか


http://president.jp/articles/-/15153

だから医者はひどいことをしている、という短絡的な反応がしたいわけではなくて、どうしてそんなことになってしまうのか、という「構造」を明らかにした上で、変えていかねばならないだろう。

でも、きちんと相談すれば話の通じるお医者さんもいるけどね。

本人ではなく「家族の期待に応えようとしてしまう医師」という指摘はとても重要。
自分の生命の終わりを自分だけで決定するのはどうかな、と思うけれど、延命治療以外の選択肢が無くなってしまったガンの末期などは、ある程度「予測」できてしまうわけで、そういう時に延命治療をしない選択肢は、もっと自由に選べた方がいい。

ガンは突然死とちがって、ある意味ではこちらが生き方を選択できる病気だ。
家族がガンになってから、そのことをしみじみ考えるようになった。
抗がん剤も(本人に)やってもらったが、どこまでそれを繰り返すのかは考えなければならない、と思う。今はマーカーが落ち着いているけれど、これからは以前よりは短いスパンで人生を考えていく必要が出てきた。それは本人だけではなく、家族みんなにとっても同様だ。

どこまでどんな治療するのかについて判断するためには、それ相応の知識が必要になるだろう。
勉強しておかないと、短い時間で決断を要するときに対応できない、ということもある。
と同時に、どれだけ知識を得たとしても、根本から寿命をどうこうできるわけではない。

知と非知の境界線上にあって、生命と向き合うためには、知識だけではなく、ある種の「魂の訓練」も必要になるのかもしれない。

とにかく、考えさせられた。