チラスから少しいったところで左にカラコルムハイウェーを外れシガール峡谷に入ります。(6月26日参照)こんな狭い扇状地にも人の営みがあります。周りは全くの岩石ゴロゴロです。全く孤立した村です。画面の下は写っていませんがインダス川の濁流です。
そうなんです。このような風景が普通なんです。勿論この濁流はインダス川で以前紹介したようにここには魚は棲めません。
「ミチ」さん いつもありがたいコメントありがとうございます。昔NHKのアナウンサーに鈴木健二という人が「知る楽しみ」ということを言っていましたが、「知る楽しみ」を求めてお互いに旅をしましょう。
今回は北部パキスタンなので8000メートル~6000メートル級の山々の深く抉れた峡谷をバス・ジープの旅行でした。
最初の日はイスラマバードからチラスまでの490キロメーターの峡谷の道でした。(6月26日の地図をご覧ください)荒涼とした断崖絶壁、下は濁流逆巻くインダス川の間のカラコルムハイウェーでした。しかし所によっては写真のように河岸段丘や扇状地に緑があり村が点在していました。ここには段々畑がありますね。いずれも絶景です。
写真は9学年クラスの教室にあった時間表です。授業は英語で行われます。理数系の科目が多いようで”Islamiat”というのはイスラーム教という意味でしょう。
”urdu” は 7月19日に紹介したように母語とする人たちは少数なのですが国家語です。何故このようなことになったかという説明しておきます。
1947年パキスタンはムスリム(イスラーム教徒)とヒンドゥー教徒との対立を背景にインドと分離してイギリスから独立しました。そのときインドにいたムスリムの700万人の人たち(パキスタンの人口約1億6千万人)がパキスタンに移住しました。彼らはムハジール(移住者)と呼ばれましたが、パキスタン独立には重要な役割を果たし新しい国家行政機構にたくさん入り込みました。前回紹介した校長室にあった建国の父ジンナーはこのムハジールでした。このムハジールの母語がウルドゥ語だったのです。
ちなみに最近大統領を辞職したムシャラフもこのムハジールです。
余談ですが多数派の母語が国家語でないのは多分珍しいのと思います。私の知る範囲ではインドネシア語がその珍しい国語の例だと思います。インドネシア語(マレー語、ムラユ語)を母語とする人たちはほとんどいなく、ウルドゥ語と同じく一種のクレオール語(7月19日参照)です。そして現在はインドネシア語を母語とする人が増えてきているそうです。但し、インドネシア語は政治的な意味合いはなく商業上の言語として用いられてきたものです。(岩波新書「インドネシア 多民族国家の模索」p18~20)
学校は夏休みで子供たちには会うことはできませんでしたが、校長がわざわざ出向いてくれて校長室で話を聞くことができました。
生徒数は小、中、高の一貫校で約500人、将来的には短大も設置の予定でその要地も確保しているとのことでした。 なんといってもこの学校の特徴はイスラーム圏では珍しい男女共学にあります。
これは長谷川夫妻の考えもあってのことでしょうが、もう一つはこの地方にはイスラーム教イスマイール派の人たちが多いことにその理由があるようです。イスマイール派については後に少し紹介する予定ですが、この派は男女差別が少ないのです。したがってこの地方では男女の進学率も同じで、南部(都市は南部)の大学に進学する女性も多く南部の大学でこの地方出身者の女子の占める割合は高いそうです。 この学校は授業料を徴収しますが、評判が良く入学希望者が多く入学試験を行うようになり私の感じでは一種のエリート校になってきているような印象を受けました。
また、この学校の存在が刺激になり後日紹介の予定のアガ-・カン財団が無料の学校を建てつつあるそうです。
校長の背後にある写真はパキスタン建国の父「ジンナー」です。
学校の内に長谷川恒男の写真がありました。私はこの学校について日本に帰ればインターネット情報等で調べることができると思っていましたが、調べてみるとインターネットでは長谷川恒男についてはたくさん情報があるのですが、この学校については何もありません。「地球の歩き方」(p199)に昌美夫人の手記があるだけでした。
そこで簡単ですが次ページ(3回)にこの学校を紹介します。
故長谷川恒男を追悼し彼の念願でもあった学校が昌美夫人が中心になり村人や日本の有志などの協力を得てここウルタルが展望できる場所に作られました。一時コメントが入らなくなっていましたが今は大丈夫なのでよろしくお願いします。
地図(6月26日)にはありませんが、フンザ地方にある山で標高7388メートルです。1991年当時まだ未踏峰であったこのウルタルで長谷川恒男は雪崩に遭い遭難死しました。
その後たびたび日本人登山家たちが登頂を試みましたが失敗しました。ようやく1996年日本山岳会東海支部が登頂に成功しました。そのときも犠牲者が出ました。